読書の愉楽・私の書評

       宮垣 余間
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   「空海入門」              

         竹内信夫著 ちくま新書1997

「名前は弘法大師の弘と書いて、ひろむと読みます」とこれまで何百回も言ってきたが、名前はともかく、私は空海とこれまで余り縁がなかったように思う。40年以上も前、空海の書を見て、身震いする程、感動したことが一度あったが、その後、司馬遼太郎の「空海の風景」、空海の著した般若心経の本を読んでも、身近なものとは感じなかった。

この竹内信夫著「空海入門」は一挙に空海を親しいものにしてくれた。

私はこの本を高野山で書いていますと書き出されているが、空海ゆかりの土地に馴染みながら、空気や土地の起伏を含め味わいつつ、書いておられので、ごく自然に空海の世界に誘われてゆくのである。そして、空海が何故,高野山に本拠を置いたかということも納得できる。空海と言えば、お大師様、宗教的巨人、大天才、政治とも結びついた大物というイメージが強く、現にその通りであろうが、著者は空海の個人史と当時の時代を簡潔に描き出しながら、われわれの前に等身大の空海像を示してくれる。

副題が「弘仁のモダニスト」とあるように、空海の生きた時代が大きな時代の転換期であり、空海はその先端を担った人間と捉えられている。

空海が持ち帰った経文など目録「請来目録」に多くのページを割いているが、これが大変面白い。唐時代の仏教も密教時代を迎え、密教の真言には元のサンスクリットが不可欠であることもあって、西安にはインド、西域から僧達が来ていたと言う。空海は長安留学でそれを学び、文献を持ち帰った。そして、時々復習もしており、空海は横文字を読んだ最初の日本人だとしている。

帰朝後は嵯峨天皇との結びつきを中心にいわば俗界と深く結ばれるのであるが、晩年はそれらを断ち切って高野山に戻る。空海の還源への思い、山水の中に自己を置きたい願いがこの本の縦糸となっている。空海の仏教思想そのものには殆ど言及されていないが、私には良い空海入門となった。

以上は私の皮相な紹介であるが、どうか、直接、穏やかな文体のこの好著味わってください。

             
      『バカの壁』           
          養老孟司 新潮新書 2003

バカだと思っている人はこの本を読んで、「バカ」を突破できるかもしれません。
北里大学の薬学部の学生に、BBC制作のある夫婦の妊娠から出産にいたるドキュメンタリーを見せた時の反応から、この本は始まっています。女子学生と男子学生の反応のコントラストから「バカの壁」の存在をクロースアップして、見事な導入です。「バカの壁」がどんな所にあるかをこの小冊子は一貫して語っていますので、それぞれの立場で、共鳴するところがあると思います。
この本の帯に『朝日、毎日、読売各誌で大絶賛!「話せばわかる」なんて大うそ』とあります。論旨はいたって穏やかで、特に騒ぐほどのことはありません。
朝日の書評子だったと思いますが、「バカの壁」というネーミングの勝利とありましたが。その通りで、バカが引っかかるには良いタイトルです。この本の欠点の一つは「バカの壁」に守られて、ぬくぬく出来る幸せに付いて掘り下げが今ひとつということでしょうか。一読されて、特に害はありません。

03・06・11

                 
    『「サヨナラ」ダケガ人生カ 』 
  
               松下緑 集英社2003年

    世渡リ巧者ガ出世シテ
         現場ノ気骨ガ嫌ワレル
      イサマシイノハ監査役
      白髪ノ首ガ気ニカカル

この詩が面白いと感じるとしたら、あなたは50を越したサラリーマンだと思う。
この本は、「ハナニアラシノタトエモアルゾ 「サヨナラ」ダケガ人生ダ」で有名な井伏鱒二に倣って作られた漢詩和訳集で、「漢詩七五訳に遊ぶ」という副題の付いている。
(原詩)
    花発多風雨   花発(ひら)けば風雨多し
        人生足離別   人生離別足る

は松下緑訳ではこんな風になります。

 花ガヒラケバアメカゼニ
       人ハワカレテイクモノヲ

漢文訓読み方式は一種の風格がある文体といえなくないが、詩に限って言えば、詩吟で特にそう思うのだが、どこか違うなと言う感じがしてならない。詩は韻律であり、調子なのであるから、他の国のことばには置き換えられないものなのである。日本人は漢字が少しわかるので有利といえば有利なのであるが、原詩の響き味あわなければ詩を味わったことにならないのではと思う。それなら、いっそ、原詩の味わいを十分汲んだ上で、日本の詩歌として無理のない形にしたほうがいいのではないかということになる。井伏鱒二も著者もそう考え、そうすることによって、漢詩を楽しんだのであるが、この本で、そのように考えた人が江戸時代にもいたことも教えられた。

  桃ハノビノビ
   ソノ花サカル
   コノ娘(コ)嫁ゲバ
  家内繁盛

詩経「桃夭」の松下緑訳である。従来の訓読み方式に比べ、遥かに原詩の雰囲気を捉えていると思う。

この本は総て原詩と読み下しと作者、字句の注がついていて、漢詩のファン以外でも十分楽しめます。
2003・6・10

 
    「コンピュータの向こうのアリスの国」
       
                            稲木昭子、沖田知子著 英宝社 2002        ここ

       
      「マザー・グースをたずねて」       
                 
           鷲津名都江  筑摩書房 1996        ここ

           
  
「もっと知りたいマザーグース」

                           鳥山j淳子 著                   
                               スクリーンプレイ 2002年

マザーグース(ナーサリーライム)が好きな人がこの本を手にとると止められない。

マザーグースに関する本は、大抵、その背景を探り、歴史を遡っていくのが普通だか、鳥山淳子さんの本は、そんなことより、マザーグースが実際、どんな形で生きているのか、46篇のライムを中心に、映画や本や歌の中に探って、今も生きているマザーグースを見せてくれる。

少し古い例であるが、「風と共に去りぬ」で、バトラーが娘バニーから「パパ、パパ!どこに行ってたの?朝からずっと待ってたのよ」に対して I’ve been hunting for a rabbit skin to wrap my little Bonnie in.・・・・とマザーグースを使って答える例(同書27ページ)は一例であるが、全編、そんな例が過不足のない引用と解説でうずまっていて楽しませてくれる。漫画やビートルズにもおよぶ多彩な話題がを簡潔に分りやすく配置してある

用例を集めるのは「マザーグース学?」の基本のようだが、マザーグースが好き、本が好き、映画が好きの3拍子揃わないと出来ない芸当で、巻末の「マザーグースのでてくる映画リスト」には圧倒される。

シェイクスピア時代より古いものを含むマザーグースが今もなお子供にも大人にも愛されているのは驚きで、英米より歴史の古い日本で、そのような伝統が消えてしまっているのは残念なことである。

活字の組み方、イラストにも工夫がなされていて美しく、将来、増補されて、ハードカバーが出るといいと思う。
ただ、イラストの内「ほるぷ出版刊より」とあるものがかなりあり、そのとうりなのであろうが、これはほるぷ出版がオズボーン・コレクションを複製して発刊したものであるから、出典として違和感を感じた。
欲を言えば、イラストの出所について解説があれば、読者は更に満足したことと思う。

マザーグースについて豊富な話題を提供しておられる
鳥山涼子さんのホームページも是非ご覧ください。

蛇足:私は、若いお母さんがどんな本で自分の子供にマザーグースを読んであげているのか知りたくて、実物をボツボツ集めて、これを声を出して読みるを楽しみにしているが、ふと、退行現象が始まっているのではと思うことがあります。


                                               


画面をクリックください

  Girl With a Pearl Earring
          Tracy Chevalier                  
           HapperCollisPublisher 1999

友人のFさんがフェルメールを3次元のCGで再現すること熱中している影響もあって、最近は何かにつけフェルメールを意識するようになった。1年ほど前から本屋に平積みされていて、気にはなっていたが、先日、やっと買って読み出したら、止まらなくなってしまった。

16歳の少女がフェルメールの家の女中に入り、3年ばかりを過ごすのであるが、フェルメール家へテレビカメラを持ち込んだようなリアルな描写がゆっくりと進行し、少女の心を通して述べられる。これは小説であるのだが、嬉しいのは、史実を十分押えてあるので、1660年代のデリフトの世界に無理なく誘い込まれるし、フェルメール・ファンには、家具のことなど、些細なことも、成る程そうなのか、頷きながら読み進む楽しみがある。私はこの画家が何故寡作であったのか不思議でならないのだが、この作家の手になると、時間がゆっくりと進行するので、寡作なことがごく自然に了解できる。おそらく、作家自身、絵も描いているのでは思うが、画材や描く手順のこともよく分った。フェルメールの世界を小説にするにふさわしい作家だと思う。
英語はやさしいが、日本語でという方には白水社から翻訳が出ています。

参考:FさんのCG作品  

                          ヒヤシンス・ブルーの少女
             スーザン・ヴリーランド 長野きよみ訳
             早川書房  2002
やはりFさんの影響もあって、フェルメールから目が離せなくいる友人Iさんが貸してくださった本である。
8編の連作短編集で、その共通項がフェルメールのものと思われる一枚の絵なのである。
舞台は現代アメリカから始まって、次第に時代を遡り、一枚の絵は持ち主を変えていくのであるが、その時代、その環境、持ち主とそれを取りく人々をリアルに書分ける作家の筆の冴えを読者は楽しむことになる。持ち主の絵に対する愛着がよく伝わってくる。フィクションだと思って読んでいると、最後の2編はフェルメールが登場し、その家族、家計、頭のおかしい義兄などを描き出してくれるので、フェルメール・ファンも満足させられるという憎い構成になっている。
原書 Girl in Hyacinth blue  Susan Vreeland


  
魂のインターネット              

      野口慊三

         日本図書刊行会

            2002

私とは何か?」「人間とは何か?」 そんなことが気になる人には是非読んで欲しい。

多くの人は、私とは私という肉体に脳(あるいは心)があって、それが、外界の物質と接しながら活動しているという風に思っているが、それは違うと著者は言う。そして、それは架空のものであって、本当はこうだという世界像を図解して示している。

野口さんのこの本は「パラダイムの転換」(考え・見方の枠組みを変えること)を促すものである。その転換が余にも大きいので、戸惑う方も出るかも知れないが、インターネットという現実のシステムをモデルに易しく、意を尽くして書いておられるので、よく分かる。

そのことに著者が気づいたのが24歳、以来45年、それを深めてこられた。著者も書いておられるが、同じ考えは、東洋・西洋ともに古くからあるのだが、インターネットというモデルを使って、説いたのは、世界初ではなかろうか。

架空の世界、仮想の世界は我々には映画、演劇、小説、漫画、ゲームと身の回りに沢山あるが、われわれの現実と思っている世界が実は仮想の世界で明快に説いている。そうなると人間存在の根底が問われるわけで、このことを正面から取り上げている。既存宗教の用語を避けて書いておられるようで、宗教色の殆んど感じられない珍しい本である。

エッセイを読むつもりで、第3章の大人の童話あたりから入られるのも良いかもしれない。
特に、キリスト教に馴染んだ人はきっとびっくりされ、そして、頷かれると思う。

野口さんのHP「霊性の時代の夜明け」

 その中でこの本の紹介 

野口さんと私との対話「自分を探すアリス」 「アリス、アリスに会う」
(02・04・28 追記07・04・18)

   
    84 Charing Cross Road                                
                Helene Hanff
                      Warner Book 1992 (First 1970)

久しぶりにGood Day Booksへ顔を出したら、店主の小林さんが「探していた本でしょう」と棚から出してくれたのが、この本である。
10年ほど前、江藤淳訳で読んで面白かったので、オリジナルを探していたのである。帰って読み出すと止められず、その日のうちに読んでしまった。
筋は、アメリカの女性ヘレン・ハンフがロンドンの古本屋に本を注文に関してやり取りした手紙と、当時、食料不足のロンドンの店員に、ヘレンが、クリスマスなどに、デンマークから通販で食料品ハムや卵を贈り、それに対する礼状が、1949年から1969年まで、日付順に掲げられているだけである。裏表紙にA true storyあり、おそらく、創作された部分はないと思う。
この本は、本当に本が好きな人でないと面白くないかもしれない。
ヘレンがどんな本を注文するかが、やはり興味の中心で、それを追っているうちに、古本屋の店員との交流が色を添えて行き、やがてはその交流そのものが心の中に残る、といった他愛も無い話なのである。
この話は映画(テレビドラマ?)になり、私はテレビで見たが余り面白いものではなかった。
チャーリング・クロスの本屋Marks & CO.が、どんな本屋であったかは江藤淳訳の表紙に出ているのでそれで分かる。また、ヘレン・ハンフの風貌や、彼女の集めた本の写真は福島県立医科大学芳賀馨編「ヘレン・ハンフ論簒」開文社出版1987年に見ることができる。
本は図書館の本で読み、良い版の本を少しずつ、手許に集める彼女のやり方は、狭い部屋に住む我々には参考になり、読書人の簡素な生活にふさわしい。

リーダースダイジェストの各国版に上記の本の要約が出ると、一躍、有名になり、ロンドンでも同著が出版されることとなって、これを機会に、ヘレンは憧れのロンドンに赴くことなる。1971年6月のことである。この時のことを書いたのがThe Duchess of Bloombury Streetで、冒頭のぺーパーバックの後半に納められている。この本は1974年出版で、後でふれるが、1972年、前掲書は江藤淳によって訳され、 『チャリング・クロス街84番地ー本を愛する人のための本』日本リーダースダイッジェスト社として出版されている。したがって、江藤淳は訳した時点ではDuchess of Bloombury Streetは知らない。江藤淳はこのとき39歳、東工大助教授である。

さて、後のDuchess of Bloombury Streetであるが、ヘレンは55歳、生れて初めて訪れるロンドンの旅日記である。
本屋Marks & CO.の店員の遺族と会うこと、BBCのインンタービュー.、愛読者の招待などで、彼女の英国訪問は結構忙しい。私はBlue Guideの London (初版1918  私の持っているもの第10版1973)を片手に彼女の行動を追うことになるのだが、それなりに面白く、海外旅行に伴う興奮や感激は似たようなものと苦笑を誘う。当時評判のピーター・ブルック演出の『夏の夜の夢』を見たいと思うのだがチケットが取れず諦めていたところ、ファンからこれに招待されるなど、いわば公爵夫人のような毎日を送り、1ヶ月半の旅行を終える。。
古本屋と文通だけで流れた20年の歳月も、その直接の関係者が亡くなった後訪れたロンドンの晴やかな1月半の日々も、ともに、ヘレンが本を愛したことによって、神様から賜った素晴らしい時間であった。

ヘレンは1997年、80歳でその生涯を終えている。

注: 「チャリング・クロス街84番地」江藤淳訳は現在、中公文庫に入っています。
(02・03・24)


     「日本語に主語はいらない」                            
     金谷武洋
      講談社2001

 ― 日本語で主語の無い文が多いのは、日本が狭い島国なので、あるいは村社会なので、主語をはっきり言わなくてもわかるからである。社会の後進性にもとづくものであるから、こんな言葉を使っている限り、論理的思考も出来ないし、近代的自我も育たないのだ。― 皆さんはこのような劣等感を抱いたことは無いだろうか? 私は若い頃から、心の片隅でいつも、そんな気持ちを持っていた。主語+述語、これが文章の基本で、英文法で言えばS-V, S-V-C, S-V-O, S-V-O-O, S-V-O-Cの基本文型が、多少順序は変わるがすべての言語に基本的パターンだと思い込むようになってしまっていた。
 著者は、これは英語文法に影響されて作られた日本語文法の誤謬によるもので、日本語は中国語や朝鮮語と同じく述語だけで基本文をなしているのであり、主語の概念は不要であるとする。要は言語類型が異なっているというのである。学校で教わる日本語文法は100年来の英語中心主義に毒されていると主張する。
  私は日本語の述語の主導性を常に感じていたので、著者の論旨に同感であるし、話の運び方がよく工夫されていて、説得力があって一気に読ませるものがある。
「日本語には人称代名詞という品詞はいらない。」「助詞「は」をめぐる誤解」「日本語の自動詞/他動詞をめぐる誤解] (いずれも目次より)の論旨も明快でインパクトがある。
 カナダから日本に向けて発信された知性と熱情のこのメッセージが、日本語教師は勿論、言葉に興味のある人、さらには、日本のこれからの文化を考える人にも届いて欲しいものである。
目から鱗が落ちる本である。
2002・2


誤訳・愚訳                                   
 −漢文の読めない漢学者たち−」

  張 明澄
   久保書店1967

  葡萄美酒夜光杯(王翰の涼州詞)は日本人ならだれでも知っている漢詩で、「声に出して読みたい日本語」の中に入ってもおかしくない。その3聯目は酔臥沙場君莫笑(酔うて沙場に臥すも君笑うことなかれ)であるが、問題は沙場で、私はこれは砂漠だとばかり思っていた。台湾出身の著者は沙場は戦場をあらわす言葉で、砂漠の意味はないと言い切る。岩波文庫の「唐詩選」(前野直彬注解 1961)も砂漠となっているのであるが、この本はもっぱら、岩波文庫本の誤訳、愚訳の摘発のために書かれているのである。沙場についての指摘は他のもあるのだが、似たような18の実例を挙げて、大岩波に戦いを挑んでいて、素人の野次馬根性を満たしてくれる。漢詩が好きな方で、もし、この本を古本屋で見つけられたら、一読をお勧めする。単なる揚げ足とりでではなく、言葉はネーティヴ・スピーカーでないと分からない側面があるので、その国に行ってみることの大切さ等を教えている。
なお、岩波文庫本はどうなっているかといえば、(本屋で立ち読みしてみると) 2000年に版が改められているが、これまで通り、沙場は砂漠と註釈がついている。この「誤訳・愚訳」の著者も出版社も今どうなっている知らないが、大岩波は健在である。奇々怪々なのは、新岩波文庫本の奥付には初版の1963年?は全く表示されていない。版が変わると過去を抹殺するのだろうか?出版の常識が最近変わって来たのかもしれない。
02・01・05

最近出た、松浦友久著「漢詩」岩波新書2002年もこの「涼州詞」を採り上げており、沙場に8行の解説をつけてあり、戦いが沙場(砂漠)で行われることが多かったので、「この詩でも、こうした歴史を背景として、現に身を置く沙場(砂漠)が現実の戦場として重層的に意識されている。「沙場」が無条件で「戦場」を意味するわけではない。」とある。35年前の張明澄の主張への反論であろうか?
(02・03.02)
  
 
  「漢字と日本人」                                  
     高島俊男
        文春新書 2001

  新聞の書評でも取り上げられ、大変売れているようである。漢字と日本人との係わり合いを面白く解いて見せせてくれるので飽きることがない。私は戦後の国語改革のところが特に面白かった。「把握」と書いたら、「は握」直された経験など苦々しい想い出もよみがえってきた。
  同音異語が多いことから、「音声が無力であるためにことばが文字のうらづけをまたなければ意味を持ち得ない、という点に着目すれば、日本語は、世界でおそらくだだ一つの、きわめて特殊な言語である。」p245という結論の当否は私には論評する力はないが、日本語は音素が極めて少ない(韓国語の5分の1.英語の10分のi1以下)という特性の方から、もう少し掘り下げが欲しかった。
文体上「・・・ですよね。」「・・・ちょっと説明しておきますね。」「・・・しちゃったんだね。」等の表現が所どころに使われて、くだけたイメージを与えているが、私は少し違和感があった。著者と私は同じ年なんですがね。
01・12・21
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