<狐>が選んだ入門書  山村修  ちくま新書  2006

山村修さんの書評は『狐の書評』『野蛮な図書目録』など随分楽しませていただいたように思うが、手元にはない。この本も消耗品として処分する寸前、ふと手に取ると、面白かった記憶が蘇り、最初から再読してしまった。
再読の切っ掛けはなんと言っても冒頭の武藤康史『国語辞典の名語釈』の中の原節子の「んんん」が面白いのである。
『三省堂国語辞典』の最後の項目「んんん」に関して、その語釈の一つに<〔女〕〔二番目の音(オン)をさげ、また上げて〕打ち消す気持ちを表す。ううん>に目をつけた武藤康史が、映画『麦秋』の中で、原節子が淡島千景との対話に使っているのを思い出し、ビデオで確かめた際の様子を書いているだが、山村はその箇所をそっくり引用している。引用だけでも面白いのだが、彼は武藤の記憶の回路に驚くと共に、自分でも『麦秋』を見て確かめてみると、実は「んんん」は少なくとも7回は出てきて、その音の高低をつぶさに調べるのである。こんな紹介でこの項は終わるのだが、読者に武藤康史『国語辞典の名語釈』の面白さを印象づけるだけではなく、辞書全般への面白さへと導いているのである。
つづいて、菊池康人『敬語』 橋本進吉『古代国語の音韻について』・・・と言語、文学、歴史、思想、美術の分野に計25冊の本が紹介されている。
それぞれが面白い。導入が上手く、その本がどんな本か分かり、ちょっぴり味見もさせてくれ、読書欲を誘う、見事な書評集なのである。
入門書を選ぶのは、大変力量のいる仕事であるに違いない。その分野にある程度通じ、初心者に勧めて誤った方向に行かないようにする。何よりもその分野に興味を惹きつけるものでなければならない。本を浴びるほど読んだ後にこそ出来ることである。
この本がもし分野別の専門家によって書かれていたら、そんなに面白くないかも知れない。ある意味で素人の読書人が読書の喜びを通じて、手ごたえを掴んで、しかも何度も読んだ末に残った本が選ばれているから面白いのである。
「入門書こそ究極によみものである。」とこの本は始まる。

私はこの本を5年ぶりに再読して、驚いたことは、著者が取り上げた25冊のうち、1冊しか読んでいないことである。
著者の差し出した見本料理ですっかり満足したのかもしれない。しかしこれから読んでみたい本ばかりである。

あとがきに倉田卓次の名が見える。この方の『裁判官の書斎』シリーズを愛読した時期があったのを思い出した。我ら本好きの仲間たち!

『○○入門』というタイトルの本が、面白い入門書であった記憶がほとんど無く。この本で選ばれている25冊のタイトルにも「入門」という文字のある本は無い。

【蛇足】
上記の「んんん」に関して、同書は「『三省堂国語辞典』の編集主幹だった見坊豪紀は、十年以上かけて、ようやく三つの雑誌に「んんん」の用例をみつけたといいます。」とあるが、そんなに頻度の少ない言葉ではないのに、いざ探すとなると苦労することが分かる。私は「ううん」という表記ではあるが、康成の『雪国』のなかで、駒子が2回使っているのを見つけた。
語釈も私なら、「子供や若い女性が、親しい相手(甘えられる相手)に打ち消す気持ちを表す時に使う。発音はそのときの気持ちによって、高低、短長微妙に変化する。ううん」としたい。

2011・1・28
目次