「声に出して読む般若心経」
       山名哲史
       明日香出版
       2002



この本は、漢文、チベット語、サンスクリットでの朗誦が入っているCDが付いているので買い、CDの方は何度も聞いたのですが、本文は読まず放置していました。
最近、ふと、本文の方を読み始めると、簡潔でその深い内容に思わず襟を正しました。
私はこれまで「般若心経」の本は10冊以上は読んでいますが、こんなに分りやすく核心に触れた本はお目にかかったことはありません。

「ここに何かの液体の入ったコップがあるとしましょう。
そのコップに「毒薬」と書いているとしましょう。あなたはその液体を飲めますか?
飲めませんね。なぜでしょうか?」

こんな形で始り、知ること、悟ること、無明が説明され、仏教の基本は「無明」から「悟り」へと移行することにあるとします。
「伝統的な仏教用語を使わない」やり方で話が進みます。

幸福とは何か?苦とは何か?これらの実体が明らかにされて行きます。そして、この本の核心は、「空」を「情報」というコンセプトを利用して解き明かす点にあります。先ず、「色」つまり物質が、実は情報であって、実体のない幻であることを明らかにする。勿論、人間の心も幻なのです。このような考えは、野口慊三さんの著書『魂のインターネット』(日本図書刊行会)やホームぺージ「霊性時代の夜明」の考えに近く、私は幸いにこれらに馴染んでいるので、何の抵抗もなく受け入れられます。
空を仮想現実と見れは分りやすい。仮想現実の中で、苦しんだり、喜んだりする自分がいるわけですが、その自分も仮想現実と見るわけです。そして、そのことが分ることが悟りということになります。

みんな、悟りたくてこのお経を手にするのです。あるいは、苦から逃れ、または幸せを掴もうとこのお経にひもとくのですが、本当は、いくら本を読んでもそんなことはできっこありません。というのは、悟りとは言葉を越えた世界だからです。
でも、これを言葉で表わそうとして、何百、何千の人が試み、おそらく、何十億、何百億の人がそれを読んだのですが、しかし、言葉によって悟ることはありません。

そのためにはどうすればよいか?この本の後半はその道を、「救い」「気付き」「許す」というステップで説いています。
自我は反応の集成で、自我が変れば外界も変る。他者に依存する自我が、執着、怒り、愚かさから「苦」が生じるのだから、それに気付けは「苦」から脱却できるだけでなく、自由な行動が取れる。しかし、この「気付く」ことは難しく、そのために八正道があるのだが、やりやすい方法として、自他を許すこと、「今、ここに」生きることを提案しています。

そして、最後にやっと「般若心経」を読んで終わる。私は見事な説法だと思いました。

私のこの短い紹介は、著者の仰りたいことを、下手な形で紹介しているのではないかと恐れるのですが、本書を播く糸口ともなればと書いた次第です。

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最近では新井満、柳沢桂子、玄侑宗久といった方々が自由な訳をつけておられますが、般若心経を読んだという以上、一度は自分の言葉に置き換えて見たいと思うのではないかと思います。私も何時の日かやって見たいと思いますが、むしろ、一口にこのお経のことを言えないかと思っています。

例えば、少し乱暴ですが、こんな感じになります。

自由無碍の観音さまが、一切は仮想現実だと悟って、仏教界第一の知恵者、シャーリプトラに向かっておっしゃった。
シャーリプトラよ。お前が現実だと見ているすべてのものは仮想だよ。
お前の習ったすべてのこと(三科、四法印。縁起説、四諦)も皆仮想のものだよ。
そのことが分れば一切の苦から免れる。
そのためには私のようにパンニャーパラミターの状態でなけばならない。
パンヤーパラーミタとはすべてが仮想であると気付いて、うろちょろしない状態なのだ。
そのための呪文を授ける。
「もう天国にいる。ありがたい」*と唱えなさい。

CDの朗誦ですが、チベット語の堰を切ったような勢いでの朗誦が珍しい。漢文、サンスクリットの方は他のものと較べてみたい。
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*般若心経の眼目はこのマントラ(呪文)を授けることにあるのですから、私の訳はいかにも乱暴です。元の言葉を書いておきます。余りにも尊いので、中国でも音をそのまま転写しています。とにかくこれを唱える良いらしい。
しかし、古代のインド人は意味を知って唱えたと思いますので、訳も書いておきます。

गते गते पारगते पारसंगते बोधि स्वाहा (サンスクリット)

gate gate pāra-gate pāra-sa-gate bodhi svāhā(同 ローマ字表記)

ガテー カテー パーラ ガテー パーラ サンガテー ボーディヒ スワーハー(同上 読み##)

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提 薩婆訶  (唐三蔵法師玄奘訳)

ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそぎゃてい ぼじそわか (上記読み)

行った 行った みな彼岸に行った さとりよ めでたし (山名哲史訳)

往ける者よ 往ける者よ 彼岸に往ける者よ 彼岸に全く往ける者よ さとりよ 幸あれ (中村元訳 #)

到達者よ 到達者よ 彼岸到達者よ 完全な彼岸到達者よ 悟りよ 幸あれ (涌井和訳 ##)

#は中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』(岩波文庫1960)による。
##は涌井和『サンスクリット入門 般若心経を梵語原典で読んでみる』(朝日香出版2002)による。
この2つ本には、言語的な色々な説の紹介がなされています。いずれにしろ100人100様の訳があります。
「ぎゃてい ぎゃてい・・・・」と意味を知らずに唱えるのも勿論良いことだと思いますが、般若心経が分ったと思うなら、自分なりの訳が付くはずです。


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