テオフラストス・スッチの印象
 ジョージ・エリオット
 薗田美和子・今泉瑞枝 訳
 彩流社 2012






















知人の英国人は、大学時代、ジョージ・エリオットの全小説を読み、今でも読み返すという大のジョージ・エリオット・ファンだが、この本の存在を知らなかった。英国でも忘れられているこの作品は、勿論、日本でもこれが初訳である。忘れられたのは難解だというのが一番の理由のようだが、それに取り組んだ二人の研究者は、この作品が彼女最晩年の新境地で、この作家を読み解く大きな鍵となることを発見し、5年の歳月をかけて訳出した。私は、ジョージ・エリオットについては、「サイラス・マーナー」をかじった程度で、不案内であるが、簡単な紹介を書いておきます。

 テオフラストス・サッチという人が、主として文芸界の人々の人物評を述べるといったものだが、まず、最初の2章で、自分自身の品定めと出自を述べていく。警句めいた、うがった表現が多くて、これに赤マークを入れていたら、各頁真っ赤になるだろう。文章が長く、屈折したレトリックを楽しみながら、叙述しているので、読者もそのゆったりしたテンポに付き合うことになる。 その表現から浮かび上がるのは、人と余り歩調をあわさない狷介な男の像で、イングランド中部の牧師の息子だが今はロンドンに住んでいることが分かる。

そして、人物探求が始まる。「研究を励んだ末路」の男は、ある日、民族学上のある発見をするのだが、彼の説は学会の大御所の説とは異なり、周囲からも受けいれらることなく、その生涯を終える話である。その妻をも巻き込んで描かれ、大作に引き伸ばせる可能性を秘める。
以下、10数人の様々な人物像とそれにまつわるサッチ(またはエリオット)の知見が述べられてい行くのだが、そのいくつかを紹介します。
「どっちつかずの男」は若い頃、社会改良や宗教上の探求も志す好青年が、商売にも成功し裕福となるのだが、志の全く違う女性と結婚したために、中途半端な人生を送るという話。
「蜂蜜の作り手とされるスズメバチ」は知的所有権を認めない男の話。
「ほんとに若い!」と言い続けられる、早熟の美少年の自意識と周りの反応の話。
「想像力自慢」は、真の想像力とは何かを追究している。
「三流の著述家がかかる病」は一冊の本を出したに過ぎない人物の虚栄心を戯画化してみせる。
「道徳家のにせもの」は商業上の失敗を通じて、他人に迷惑をかけたある男への憤慨を通じて、道徳、倫理の問題を追究。
「新人類の影」は科学・技術の進展に期待する友人との対話で、今風に言えばロボット化が極端に進んだ世界を描き出す。
このように、10数人の人物をサッチ氏(あるいは作者)の視点をレトリックを交えて述べて行く、難点はレトリックが勝ちすぎて、自分の意見や考察を入れすぎて、人物像がくっきりと浮かばないのと、造形された人物が必ずしも魅力的なものでないということである。(エリオットの小説の人物はそうないことを願いたい)
エリオットは人物評をしているのではなく、もっと抽象的な例えば創造性、知的所有権、道徳、未来論といったものを説きたいのかもしれない。その意味で、次の2章は人物評ではないが、面白かった。
「道徳の通貨価値の下落」(10章)は滑稽も狂人や「貪欲な俗根性によって小生意気なまでに育った愚かな無知から生じる」ものは、文化を破壊することを訴える。当時、目に余るお笑い芸人たちが横行していたのかもしれない。
最後の18章はちょっと特異な章で、ユダヤ人問題を取り上げている。「民族の記憶の保存は、民族の偉大性を表す要素のひとつ、手段のひとつであるということ。その記憶の再生は、民族意識の表われのひとつであること。・・・」こんなことをベースに、迫害と離散の歴史の中に生き延びたユダヤ民族を描き出している。人への考察を民族へと拡大したといえなくもないが、歴史的な俯瞰は、大変面白く、私にとっと一番読みやすかった。

「テオフラストス・サッチのそのひとつであるようなポリフォニーの世界を創ることで、エリオットは習慣的な人間観から自由になっている」と訳者はあとがきで書いているが、エリオットの関心の広さと先進性に驚きながら、我々は、自ら、深く、柔軟に考えることの必要性を感じさせられる作品である。

丁寧な訳注とあとがきにおける訳者の作品解説はとてもありがたいものであった。
いずれにしろ、難しい文章をここまで噛み砕かれた訳者の努力には脱帽。

蛇足:○原文Impressions of Theophastus Suchを入手した。アマゾンで、High Qualty Paperback とあって、値段も安かったのでこれにしたのだが、来て見ると、A4サイズの、タイプ打ちの原稿を綴じたようなものであった。ままあることだが、本を買うときは、気をつけたい。
○characterは性格という意味もあるが、芝居や小説に登場する人、広く人物を指すことがあり、この本の冒頭のthe charactersは後者の意味で人々といった程度の意味。本書は性格分析の本ではないように思う。勿論、性格に関することも多々あるが・・・

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