「英語にも主語はなかったー日本語文法から言語千年史へー
                             金谷武洋   講談社選書メチエ 2004年


Nさん
・・・・・・・、その時ちらりとお見せした上記の本、読了しましたので、感想を、お知らせします。
 
この人の主張は、日本語には主語はいらない。英語の文法を下敷きにした今の文法は誤りである。ということですが、2年前同氏の「日本語には主語はいらない」を読んで、大変衝撃を受けました。
今回の本もその延長上にあり、まず、英語のSVO(主語・動詞・目的語)のような形は、「神の視点」によるもので、主語のない日本語は「虫の視点」によるものであると対比させて、分析しています。「雪国」の冒頭「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」は英語ではThe train came out of the long tunnel into the snow country.(サンデンステッカー訳)となりますが、挿絵も使って両者の視点の差を浮き彫りにします。これは一例ですが、「虫の視点」から、日本語の敬語、やりもらい、時制、アスペクトなどの問題が取り上げられ、大変面白いです。
「神の視点」「虫の視点」と言う言葉が良いかどうかは分りません。私は別のことを考えますが、とにかくこの対比は説得力があります。
このあと、一転して、カナダで起きた犯罪から、パソコンゲームに及び、これらの行為が「神の視点」と同じものだということが明らかにされ、英語を使う国民、ブッシュ政権の問題にも言及されます。

後半は、英語の歴史を遡り、主語が大きくクローズアップしてくる様を描いています。変化の理由として、 「記憶の経済」という側面から捉えています。つまり、異なる2つの言語が長期間接触して起こる現象に「クレオール化」に求めています。所謂ノルマン・コンケストによって11世紀から300年フランス(語)の支配下にあった時に進んだものと言っています。我々も外来語を記憶の経済に従って短縮するようなものです。動詞の活用、名詞の曲用が磨り減り、その代わり主語が現れたというわけです。 この英語の発達は世界の言語の中で特殊なものであるという主張です。

そして、この英語の文法に依存して作られた現在の日本語文法はおかしく、日本語に主語はいらないと言う説の最初の提唱者、三上章への学会の無視を難詰しています。
以上が粗い紹介ですが、文法を扱っていていながら、情念の書でもあり、前著同様に著者に声援を送ります。
「神の視点」「虫の視点」は以前Nさんと話し合った、神話の創造説、化成説と対応するようにようにも思えますし、「ヨハネ福音書」の冒頭の章句へと思いが繋がります。
なお、日本語を外人に教える時、役立ちそうなので、三上章ー金谷武洋の文法をもう少し勉強しようと思っています。
十数カ国の言語を学ばれたNさんからご覧になられてどう感じられるか興味があります。いつか読まれたら是非感想をお聞かせください。

著者へ
御著を大変面白く拝読いたしました。上のNさんへの紹介文は雑駁なもので、著者としてご不満もあろうかと思いますが、お許しください。
「神の視点」「虫の視点」について一言触れさせていただきます。「虫の視点」というのは、確かに分りやすく、又、「虫」の日本語の用法についての考察も面白いのですが、私は神と虫の対比はどこかバランスを欠いているように思います。結論から先に言いますと、私なら、「外なる神の視点」「内なる神の視点」と表現したいのです。神が自分の外にある一神教的視点と神はすべてのものに宿るという汎神論的神の対比です。言葉は神と共にありという「ヨハネ福音書」の言葉に準拠しますと、虫の視点=内なる神の視点に置き換えていいと思うのです。そのような二つの思考パターンの中で、ヨーロッパ言語、特に英語において、主語が必須と成ったかといえば、私は、宗教改革による神の前に立つ個人ということが主張されると共に、産業革命により、自由な個人が多く発生したことによるのではないかと思います。近代的自我の確立と裏腹と言っても良いかもしれません。
勿論「クレオール化」も大いに力となったことと思います。SVOの構造が「記憶の経済」に合致するのは、そう考える方が自然と思う人が多くいることを前提にしています。両々相俟って主語の存在を大きなものにしていったのでしょう。
私の考えは、著者の引かれている三浦正弘氏のお説と重なっているかもしれませんが、同氏の著作はまだ読んでいません。
文法論の中に「神」を登場させると学会から無視されるかもしれません。それならいっそ、「外からの視点」「内からの視点」するのも一方かもしれません。これでは面白味ないなら、「鳥の視点」「虫の視点」ことも考えられます。鳥に食べられる虫は哀れですが・・・
以上は、言語学、文法学に無縁の素人の考えです。

いずれにしろ、カナダから発せられる刺激に満ちた発言に感動しました。
(2004・1・25)

目次へ