@日本語を書く部屋  我的日本語
 リービ英雄 
 岩波書店  筑摩書房
 2001  2010

  この10年、外国人に日本語を教える仕事をしていて、いつも、心によぎるのは、この人たちが日本語を本当にマスターして、果たして幸せになるだろうかということである。日本語ぺらぺらの「変なガイジン」として、その価値が低まりはしないだろうかという危惧なのである。特に、西欧人は、高給で雇われたお抱え外国人の後をを引継ぎ、西欧人であるが故に、尊ばれた時代が長く続いた日本において、例えば、ラフカディオ・ハーンが日本へ帰化すると、日本人並みの給料に下げられたように、日本語をしゃべることによって、特権的有利さを失い、日本人並みへと転落すると不利を受けないかということであった。
日本語教師として、まことに矛盾した気持ちを抱くのである。非西洋人に対してはこんな感じを持たない。

これは、上記のリービ英雄の本で何度も繰りか返されていることあるが、日本人の中にある「言語=人種=文化=国籍」の単一性のイデオロギーが広く行きわたっているからである。日本語を話す人=日本民族=日本文化=日本人と同じ範囲で重なり、外国人がこれを犯し日本語は話すといった事態を認容できないのである。最近でこそ「島国」という言葉をあまり聴かなくなったが、この島国に単一の人種、言語、文化がある状況を、日本人自身も特異なものと思い、日本人でなければ、本当の日本語は分からないし、日本文化の良さは絶対に分からないと信じてしまっている。特に戦後、植民地も持たず、植民地ともされず、島国に日本人が閉じ込められたから、この島国根性が根付いたのではかと思う。現在、これは、、国際化という形で崩れつつあるのであるが、なお、消し難く残る。

話すことは何とか出来ても、日本語で書くなんて、外国人にはで出来っこない。あのドナルド・キーンさんでも、自著は英語で書いて、日本人に翻訳してもらっているではないかと大半の日本人は信じている。(これはキーンさんの意図とは異なるかも知れない。自分が英語で発信しななければ、世界の人はどうして、日本(文化)へ目を向けるだろうかという思いがあるのだと思う。) さらに、長年英語を勉強してきて、英語を書くとなると全く自信がなく、実際、ろくな英語を書けない自分のことを省みてそう思うのである。

そんな中で、リービ英雄は日本語で書く作家として立って行く。
これは西洋人では初めての挑戦である。その言語的環境について@は雑誌や新聞に掲載された短文を集めたもの、Aは書き下ろされたようであるが、前半の内容的にはかなり重複している。日本人にとって、万葉は、ガイジンには絶対に分からないだろうと思っているのに、それを英訳するほどの、日本語の腕前で、この万葉を読む過程で、帰化人である大伴家持を発見する。日本語に対峙したカイジン一人として認識して、あわせて自分の立場を自覚するのである。

日本語世界への越境者としての生活が、何十年も米国と日本のとの往還生活が半端ではない形で続き、日本語による作家として立つ。実は私は、この人の小説を読んでいないので、この文章も全く片手落ちの感想に過ぎないのだが、これらのエッセイから、そのエネルギーの高まりを浴びることが出来る。

Aの後半は、2001以降、9・11同時多発テロ、中国の経済的興隆と世界史的にも大きなうねりの中で、日本語による表現者としての立場を明らかにする。書き続けるこの人の肚の据わり方は一種の宿命とも思える。

17歳から新宿を一つの根城として、日本語の世界へ入り、体験的に修得した日本語がこの人の中に根付いて、今は、中国へと向かい、もう中国訪問は20数回に及び、それを英語でなく、日本語で表現しているという。

もはや「変なガイジン」の域をとっくに飛び超えてしまって、もう、スーパーマンのような男が、日本語を使って、日本語の世界をどんどん広げていってくれる。「日本語で一行書けば、誰しも日本語の成立の歴史を否応なく体現する」という感覚は、かって大伴家持など漢字で日本語に対峙した、古事記、万葉の人たちに通ずるものがある。

世界の変化にただ立ちすくむ日本人に、いわば、生体実験とも言えるほど過酷な条件下で日本語を物にし、それによる世界把握を試みるこの方の言葉を聴かなけらばならないと思う。

私の日本語の生徒に、こんな気概を移し伝えることが出来るかどうか。その前に私自身が日本語に確信を持てるか?挑発される本である。


5年前読んだ同じ著者の『英語で読む万葉集』の短評

蛇足:日本語教師としての私の日本語観;
日本語は世界のメジャーな言語(英、仏、独、西、希、羅、梵、中など)の言語に決して、劣ることのない立派な言語だと思う。素晴らしい文法構造と韻律を持っていて、高度な中国文明に呑まれること間なく、西欧文化への対応も十分でき、古来の日本語の骨格を保っている。その日本語によって伝えられてきた日本文化を誇らしく思うと共に、「言霊の幸わふ国」に生まれたことも幸せに思っている。
しかし、一つ、メジャーな言語と異なる特異性があって、それは、文字の大半を漢字を利用することのために起きるものである。大抵の言語は、一つの文字記号が一つの音を持ち、文字と音の対応付けが、一度出来てしまうと、たとえ、意味が分からなくても、読めるのが普通である。日本語はそうでない。音読み、訓読みがあり、どちらを選んでよいか分からない。さらに、音読みがいくつもあるだけではなく、どちらとも言えない、変な読み方が横行している。漢字を訓読みし始めてから、ある意味で当然の結果なのだが、今日(きょう)、明日(あす)のような日常語から、飛鳥(あすか)、百日紅(さるすべり)ような、いわば謎めいた読み方、日本人でないと読めないだろうなと、いうような読みの語が、沢山で出てくる。一種の隠語的で、その中にいる人だけに通じる符丁なのである。こんな符丁を覚えるのに日本人は何十年もかけ、昨今では「漢字検定」といった、珍しいゲームまでやる国柄である。70を超えても読めない字がある。
私は日本語を教えながら、このことは、時に恥ずかしいとも、申し訳ないと思うことなのである。また、例えば、Aという記号をいくつにも読み分けて、お前たちには分からないだろうなと、得々している未開の部族の酋長のような気分になる。自分自身は日本人と生まれてからには止む得ないことと諦め、外国人には、日本人でないと日本語は分からないだろうなという心情へとつながっていくのである。

日本語が世界語となるためには、この問題を解消しなければならないのだが、今のところ、私はどうしてよいのか分からない。この不合理な読みをする言語だから面白いと言う人が増えてくれることを望むが、リーベ英雄さんのような方がこれからどれだけ出てくるだろうか?

日本語教師は、外国の方が、日本で生活する上で必要な基本的な日本語を教えればよく、リーベ英雄さんのような方を作るのが使命ではないと言えばそれまでだが・・・・

2010・11・5

追記

私的中国 岩波書店 2004
延安    岩波書店 2008
越境の声 岩波書店 2007


その後上記3冊を読んだ。最初の2冊はいわば中国紀行記というべきもの。日本人の団体の観光客が行かないようなところを、西洋人が入り、日本語で考えながら、綴ったものである。英語で書かれて、翻訳されたものではなく、直接日本語で書かれている点で、特異なものである。流暢な日本語であるが、時々、日本語で考えた、など注記してあるので、この方も、そして読者も、特異なものに接しているのだという気になる。
それは現代の中国の断面であり、革命(建国)時代の残滓で、日本人では決して掴むことが出来ない断面である。中国内部により深く入ったという印象を受ける。
惜しむらくは、紀行記でありながら地図が付いていない。

『越境の声』は文句なしに面白い、対談による論評である。
鼎談ー富岡幸一郎、沼野充義。 対談ー多和田葉子、水村美苗、青木保、莫言、大江健三郎
最後に10世紀ごろ中国開封に移り住んだユダヤ人追う文章。何が面白かったのかちょっと思い出せないのだがとにかく面白かった。他国の言語を獲得して、移り住む越境者の、そのエネルギーと矜持というのであろうか?そんな人でないと得られない視点がそこにある。

2010・12・3



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