@ 翻訳はいかにすべきか 柳瀬尚紀 岩波新書 2000
A 英文翻訳術  安西徹雄 ちくま文庫 2001
B 洛中書問 吉川幸次郎
大山貞一
秋田屋 1946

@翻訳はいかにすべきか
これは読み出すと止まらない本である。
原文がどうなっているか知らなくても、翻訳は論評できるのである。
「要するに、翻訳は日本語の問題である。結局は、それに尽きる。」(2頁)
それに、訳者がどれだけ原文を読めているかに尽きるように思う。本章の中ごろ以降は、この点から、アップダイクやジョイスの翻訳の問題を掘り出す。人の欠点を見出し、正すのは快事に違いなく、読者もそれを高みの見物をしながら楽しむ。誤りは確かに誤りで、掻いてもらって初めて痒いところがわかる類の快感である。言葉遊びをしている箇所の翻訳については、当代この人の右に出る人はいないと思うが、その舞台裏も覗ける。
この本は二葉亭四迷の訳文を使って論を始め、巻末には、四迷の「余が飜訳の標準」という名翻訳論を全文収録していている。この四迷の文に触れるだけでもこの本を手にした価値がある。

A英文翻訳術
「翻訳の世界」という雑誌に連載されたもの再録である。
プロの翻訳家の養成のための講座で、翻訳するとき気になり、大抵の人が無意識に工夫しているようなことを体系的に述べてある。私の面白かったのは最初と最後の部分である。
「頭から順に訳しおろしてゆくよう心がける」が冒頭の翻訳論である。なぜ、そうなのか分りやすく書いてある。英語と日本語は語順が逆で、一般には後ろから訳すほうがやさしいので、この事は、痛快な一撃である。中ほどは「代名詞をきれ」「関係代名詞をどうするか」等々、翻訳の留意点を項目ごとに述べてあって、労作といえば労作なのだが、読む人のレベルによって、有用度は違うだろう。
巻末の「マニュアルの向こうにあるも」はインタビューを基にしたもあるが、翻訳の技術を超える分野、原文を声を出して読むときのリズムというものをどう捉えるかということを論じていて面白い。「わかる」のではなく「腑に落ちる」世界なのである。

B洛中書問
これは翻訳に関して、片や中国文学、片やドイツ文学で鍛えた長剣を正面にかまえた、壮年学者の対決である。(お二人ともこの時40歳) 見る方も緊張する。翻訳論議の根幹に触れる問題を、往復書簡の形で展開している。議論の展開の下手な紹介は避けたいのであるが、翻訳には文人の翻訳と学人の翻訳があるという風に話が動く。つまり、翻訳は文学創造なのか文学研究なのかという視点である。
吉川が後者に傾くのに対して、大山は前者、あるいはこの2つを越える立場をとる。翻訳に対する態度も吉川の場合は、文学研究の過程の産物とみなし、原語を原語のままに深く解していく方向を取るのにたいして、大山の翻訳に対する目標はさらに上に置いているようである。詩を訳せば詩でなければならないとし、論は韻律の問題を提起したところで終わる。
勝敗はいづれが勝ちとも判定できないのであるが、この時点では、私はどちらかといえば大山に加担したい。
私は、「杜甫詩注」などでの吉川の翻訳部分は正直なところ飽き足らないものを感じていたが、同氏の翻訳論で、多少理解が深まった。言葉の意味内容、響きを出来るだけ忠実に伝えるべく訳そうとされていたことを知った。
(この本は昭和19年雑誌に掲載されたものを昭和21年に本として出版したものである。吉川幸次郎か大山定一の全集か本の中に再録されているのではないかとと思うが未確認。
それにしても戦争一色で覆われていた時代にこんな議論がなされていたことは驚くべきことであり、戦後いち早く出版した出版社あったことも、日本の文化を考える上で大切なことだと思う。)

2006・1・3(改1・5)
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