欧州おける戦前の日本語講座
 小川誉子美
 風間書房 2010

「本書が、日本語教育の歴史はもとより、現代の語学教育や国際文化交流の分野にに関心を寄せる方々の元に届き、現代の日本語教育の「前史」の一部として紐解かれ、今後の活動に何らかの寄与ができたら、大変嬉しく思う。」(同書、まえがき)
本書を読み終えて、読者としてもまったく同じを思いを持った。

第二次大戦前の、激動の時代の、しかも、枢軸国独伊とフィンランド、ハンガリーの大学での日本語講座に焦点を当てた歴史記述なのであるが、その時期、その国におかれている事情はある意味で特異なのであるが、かえって、この分野の抱える問題が尖鋭しており、上記の分野に携わる人に、多大の刺激を与えるであろし、歴史的、世界的な鳥瞰的視野を得るのに助けにもなると思う。

読み始めて、驚くことは、風化寸前と思える、戦前の欧州の大学における日本語講座の状況を、よくぞここまで、調べ上げ、纏め上げられたものだということである。激動の大戦を経て、資料は散逸、証人となるべき人もほとんどいないいう状況を考えると、その一行一行に多大なご苦労を伴ったのではないかと思いながら読み進めた。

このような歴史の一こまを、掘り起こし、後世に残そうという意欲は、著者が、ブルガリアやフィンランドの大学で教鞭をとられた経験が、先人への強い思慕となって現れたもので、その意味で、著者のような立場に立ったことのない人にはちょっと手の出せない領域で、そどれだけに、貴重な研究である。

大学での日本語講座がどんな目的で開かれ、その内容とそれに携わった人達がどんな方であったかということが、詳述されていくのであるが、個人のディテールも適当に描きこまれているので、小説を読むような楽しみを与えてくれる。

それらの人への経済的基礎がどんなものであったか、相手国、日本側双方の反応を含め記述されているので、イメージが立体的になる。受け入れ側、日本側のそれぞれの事情の狭間の中で日本語教師も勢一杯頑張ったであろう様子も伺える。本書はこれら日本語教師たちへの鎮魂歌かもしれない。

そのような歴史的回顧を経て、著者が最後に提言するのは、言語教育の安全保障(平和維持)機能である。著者の研究領域から導き出された当然の帰結であるかも知れない。
本書の結びの部分で、
「日本が「文化による世界平和への貢献」を継続していくためには、それを支える日本語教育の優れた供給体制を維持していくことが重要であることは言うまでもない。」と書いているが、深い共感を覚える。

この本は博士論文を元にかかれたもので、典拠がはっきり示され、参照文献など厳密に学問的な方法によられている。しかし、学術書として、大学の図書館の書架だけに存在する本となる懸念がある。新書版などの形で幅広い読者に普及することが望まれる。特に、海外で、現に日本語を教えておられる方々には励ましとなることだろう。

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本書との出会いは、著者の夫君が私が日本語教師をしていることを知っておられ、本書を下さったからであるが、細々と日本語の個人教授をしているような私のような町の教師には、宝の持ち腐れかもしれない。
政治家、行政、NPO、マスコミなどの日本語教育や国際交流などに発言できる立場の人にまず読んで欲しい。

しかし日本語教師を実際やってみないとわからないことが多い。第一に、日本語とはどういう言語かということも教えてないと分からない。日本語を学ぶ目的も千差万別で、日本語教師はどんなスタンスを持って臨めば良いのか?戸惑うことも多い。教師が準拠し、かつ生徒にも自信を持って示せる日本語文法書がない。(私が知らないだけかもしれないが、日本語文法学がまだ発展途上と言うことかもしれない)  常用漢字一つ決めるのにもすったもんだするのだから、標準的な日本語文典はなかなかできないのだろう。やってみて、日本語教育の周辺には多くの問題があることを知った。

時々、町の日本語教師も、本書のような歴史的俯瞰を通して、自分の立場を見直すことも必要ではないかと思った。

2011・6

私の書評