ON READING
  
                           宮垣 余間
   Andre Kertesz  Penguin Book  1971
   甲斐扶佐義    光村推古書院  1997


同名の写真集で、文字は殆ど無いが、いずれも見て飽きない。本を読む人の姿を取り上げている。下にその表紙を載せておいたが、ひたすらに読んでいる人の姿である。もっとも後者の方は、活字以外を読んでいる姿もあり、これがなぜ「読む」ことなのか
考えさせるところがあって、別の意味で面白い。


私の言いたいのは、これから。 甲斐扶佐義の本に一語も Kerteszに触れていないことである。私は写真のことは殆ど知らないが、 Kerteszは写真家の中では名の知れた人ひとではないか。先人のアイデアを踏襲するのは悪いわけではない。問題は先人にに敬意を払わない態度である。独創性を重んずる芸術の世界で、惜しみて、余りがある。


われらカレー党宣言                         宮垣 余間
    世界文化社 1993

お母さんの作ってくれた、ジャガイモやにんじんのたくさん入ったカレーを何杯もお替りした記憶のある人も多いかもしれない。そういえばカレーパンもあったな。カレーは思い出の食べ物でもあり、今も食べたい料理でもある。
この本はカレーに関する40人ほどの文章のアンソロジーである。思い出やら、カレーの日本の国民食になる足取りやら、美味しいカレーの作り方など、はたまた、カレーはホークで食べるのは正式であるとか、多方面にわたっているが、食べ物のことを書くのには、文章力が要求される。獅子文六、下母沢寛、あたらしい所では向田邦子、林真理子等々。これらを読んでいるとどうしてもカレーを食べたくなる。誰もきっと食べるに違いない。その気になる文章が集められている。私はこの本を読んでから何杯カレーをたべただろう。編者は明らかにされていなくて、ただ、企画 エスビー食品株式会社とあるだけである。
01・04

「カレーなる物語」
    吉田よし子  筑摩書房 1992

カレーが日本にどのように入ってきたかは、大抵のカレー本が触れるところで、この本も、そこから話を始めている。しかし、カレーはあの匂いが示すように、その正体はスパイスなのである。スパイスと言えば、大航海時代を幕を開き、ついで、植民地時代へと続く時代の影の役者。南国のエキゾティクな誘惑者。著者は、このスパイスが東南アジアにおいて、カレーとして、どう使われているか、実際に食べ、調べ書いている。カレーというスパイスはないけれど、カレーノキというのがあり、葉をカレーに使う国もある。東南アジアでもカレーのない国もらることもこの本で知った。読んだあとカレーに対する理解に奥行きが出来る好著である。
所々でその知のカレーの作り方も書いてので、閑な方は試みてください。私も一種類試みたが、なかなか結構でした。
01・10

知の愉しみ 知の力」              
宮垣余間
  
白川静・渡部昇一
    致知出版社2001

 白川静先生は73歳を過ぎてから辞書を執筆され、「字統」「字訓」「字通」の3冊を完成された。91歳の今も毎日30枚の原稿を書いておられる。その先生と70歳の渡部昇一との対談である。健康法、論語、孔子の話、流れるように話が進み、言葉を暗誦したり、筆写することによって、血肉化することの重要さなどが語られる。最後は若者への教訓の話から、ご自分の座右の銘に及び、あっという間に読めてしまう。
 昨年出版された回思九十年(平凡社)と同じような本であるが、同じ話を何度聞いても面白い。
 誰もが言葉や字の由来を知りたくなるものであるが、一頃、藤堂明保先生の語源の説明がもてはやされた。私も面白いと思い、少し本を集めたが、そうこうしている内、白川静先生が登場された。前者は音から、後者は形から漢字の由来に迫られるのであるが、お二人の間には確執もあったようで、この辺のことは文字逍遥(平凡社1987)にも出てくるし、学問の仕事場(別冊宝島167号1993)にも出ている。藤堂保明先生は亡くなり、今や忘れられようとしているが、今回の本で白川先生が音の重要性に付言しておられるくだりは興味深い。昔から、易と説文には淫してはならないと言われるが、それだけにこの分野は面白く極めがたく、また、文字を通して人の歴史や存在を浮き彫りにするのは、この上も無い楽しみであろう。この本の最後では目標があれば百歳過ぎても仕事が出来るだろうといっておられる。
 となると私には35年以上の持ち時間があることになる。
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01・10
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