正法眼蔵入門  森本和夫  朝日選書  1992

人には苦しみがあり、この苦しみから、「悟りを開けば」逃れられると思い、悟りを求める。これが、ごく普通の人を宗教へ向かわせるものではないだろうか?その過程で、道元に出会い、『正法眼蔵』へと手が伸び、その本を手にすると、

「諸法の仏法なる時節、すなわち、迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。
 万法ともに、われにあらざる時節、まどいなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく、生なく、滅なし。
 仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。・・・」(現成公案)

と冒頭から、チンプンカンプンで、今度は、その解説(提唱、評釈)にすがることになる。ところが、この手の本たるや余りにも多く、しかも大部である。そんな状況にうろうろしている初心者が入門書があれば有難いと手にするのが本書のように「入門」というタイトルの本である。
しかし、本書はそのような初心者の渇に応える類の本ではない。
「現成公案」の字句が細やかに分析されている。それは先人の様々な意見を、あるときは批判的、あるときは肯定的に引用しながら、勿論、著者の見解も示される。テキストを正確に読むことこそ、横道に反れないための、入門者に必要なこととされ、諸家の比較が目的ではないとされる。初心だから結論だけを提示して欲しいと、抵抗も感じながらも、a説、b説、c説・・・と繰り出して行くやり方は読み出すと面白く、2度通読してしまった。その意味では、よい入門書なのであろう。

丁寧に書かれているので、順に読んでいって分かる人もおられることだろう。(そのような方に私のような鈍器がもはや申し上げることはない)
先人の考えの中で、もっとも多く取り上げられているのは、
@西有穆山『正法眼蔵啓迪』
A安谷白雲『正法眼蔵参究 現成公案』
B弟子丸泰仙『正法眼蔵現成公案解釈』である。
そのパターンは、@を掲げ、それを難詰するAを掲げ、Aを排しているBによって結論へと導くというケースが多い。
Aは「悟らねばだめ」と「悟り」「見性」を第一とするそのこだわりが、Bまたは著者の考えと違うらしい。後者は「さとり無用論」であるが、本書は後者へ傾く。
さとりを求めた人たちは宙ぶらりんに放置される。

『正法眼蔵』を、テキストとして言語で読み解くことを正攻法とする著者の考えは、『正法眼蔵』を学問の対象とし、研究したい人たちには、良い方法である。同じく言語あることから、サルトルもデリダも同じ土俵で論じる。しかし、その言語の階段を伝って行って「さとり」へと行き着くのだろうか?「さとり無用」であるとするとその次に来るのは「修行無用」となり、一体何をすればいいのか?・・・・

なお、本書で悪役演じさせられているAは、私はこれまでに5回通読したが、その都度刺激を受けたことを書いておきます。

 道元 明明百草の夢  現代人のための正法眼蔵入門   花岡光男   リフレ出版  2007

ごく普通の在家の人の本である。中学生の頃から『正法眼蔵』に40年以上親しみ、50過ぎて、目が開けて人である。そのような体験を後世に伝えたいと書かれたものである。
私がこの本に触れたのは、たまたま図書館で目に付き、ぱらぱらとページを繰っていると、岡潔の名が何度も出ていて、私より一回り若い方であるが、同じく岡潔の著作の影響を受けた点、親近感を感じたからである。

自分の悟ったことを、直裁に表しているので、前掲書と異なり、綿密さにかけるかも知れないが、ずっと、気力が伝わってくる。この方の「眼蔵」の参考書は岸澤惟安『正法眼蔵全講』だけである。a説、b説、c説・・・と繰り出して行くやりはしない。「眼蔵」がどんな構造か、どこから読んで、どんなことに気をつければよいかなど、具体的に書いてある。悟りのプロセスをオイゲン・ヘルゲル『弓と禅』も巧みに引用しながら、その飛躍性を上手く表現している。そして修行の意味もこれで得心出来る。「弓を三十年、四十年と練習しても、一度も当たらぬことがあるでしょう。でも、あるとき見事に的を射ることがあります。」
と書いているが、著者の経験を踏まえての発言である。

2章は「日常生活のこと」では、なぜ顔や手お洗うのか?から始まって、なぜ供養するのか?に終わる。
3章は「小学校時代の疑問」例えば蝉は成虫になるのに6年かけ、2週間で死んでしまうのはなぜ?といった問題
4章は「なぜ阿頼耶識(第八識)の教育は必要か」は岡潔に導かれた教育論。

いずれも、『正法眼蔵』が縦横に引かれ、この方の、生活体験を通して、咀嚼された様がよく分かる。
一度通読しただけであるが、、とりあえず書名を残しておくことにする。

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