不思議の国より不思議な国のアリス     
チェシャ猫の笑い(2)-みんなキチガイ
附:あっちか?こっちか?どっちだ?
We're all mad here.

チェシャ猫とアリスの会話はこんな形で続きます。

アリス:このあたりには、どんな人が住んでいるんですか?
        (チェシャ猫は猫は右手を回して)
チェシャ猫
:こっちのは方向には帽子屋が住んでいて
        (
反対の手を振りながら)
        こっちの方向には三月うさぎか住んでいるよ。好きな方を訪ねてご覧。どちらもキチガイさ。
アリス:でも、私、キチガイの人のところには行きたくないわ。
チェシャ猫:あ〜、しかたがないさ。このあたりのいる者は、皆、キチガイさ。私もキチガイ。君もキチガイ。
アリス:私がキチガイってどうしてわかるんですか?
チェシャ猫:キチガイに決まっている。でなきゃ、こんなところに来るはずがない。

私はこの所を初めて読んだとき、ショックを受けました。Madキチガイという言葉が強烈なのです。誰も気違い、狂人と関わりたくはありません。それなのに主人公のアリスまでが気違いにされ、そして、それを読んでいる自分までもが狂人とされてしまいそうに感じるからです。誰も「バカ」と呼ばれるのに我慢できても「キチガイ」と呼ばれるのには耐えられないでしょう

これまで子供の読み物に狂人の世界を取り込んだものがあるのでしょうか?
キャロルは、ここの箇所は幼児には不適と考え、The Nursery Aliceでは省いています。

マーチン・ガードナーの注には、キャロルが1856年2月9日の日記に「夢か現実か」の問題に触れ、狂気は夢と現実が区別できない状態と言ってよいのではないかと記している箇所を引用しており、さらにプラトンの「テアイテータス」の中で、夢と現実、正気と狂気が区別できないと論じているところを長く引用しています。
ガードナーは夢と現実の問題と狂気と正気の問題を同一次元と考えているようですが、私は少し違っていると考えています。例えば、白ウサギや帽子屋の持っている時計は、夢として存在するのかどうかという問題とその時計の針が狂っているかどうかという問題は異なると思うのです。
夢と現実の問題は、比較的冷静に論じることができますが、(自分が正気と思っているので) もし、自分が正気か狂気かの問題を考えると、なんとなく落ち着かず、いやな気分になります。昔から、自分がどこか狂っていると思う内はノイローゼで、自分がおかしくないと思うのが気違いと聞かされてきました。

アリスの物語は夢の問題と狂気の問題と両方を含みますが、ここでは狂気が問題となっています。
チェシャ猫の言うとおり、狂っているのは帽子屋や三月ウサギだけでなく、物語に出て来るキャラクターはすべて狂人と言えなくもありません。児童文学としては、このことを強調しないようにするのが無難かしれませんが・・・

所で、イギリス人ならこの箇所でにやりと笑うのではないかと思います。「英国人はみんなキチガイ」とうジョークが行き渡っているからです。これはハムレットに始まります。**

クローディアスによって、英国に送られたハムレットは辛くもデンマークに逃げ帰って、ホレーショと墓場を通ります。墓堀り(道化)との対話の一部です。(5幕1場)

道化1 それがわからねえんで?どんなとんまでもそんなことぐらいわかるがな。王子のハムレットさまがお生まれなさった日じゃあねえですか、気が違って、イギリスに追いやられた王子様が。

ハムレット そうだったな。で、どうしてイギリスに追いやられたのだ?

道化1 どうしてって、気がちがったからでさ。あそこに行きゃあ正気にもどる、もどらなくたってあそこじゃ平気だ。

ハムレット どうして?

道化1 あそこじゃ気がちがっていても目だてねえからな、
なにしろみんな気ちがいばっかりだから。

(小田島雄志訳)

この箇所は当時の観客(英国人)に受けたらしく、ジョークとして、伝わったと考えられます。*
「われわれはバカだ」と言って見せるより、「われわれはキチガイだ」とにやりとする方がスゴ味というか、深みを感じるのは不思議です。
狂気は英国人にとってなじみが深いものであって、ハムレットは狂って見せ、オフェーリヤは本当に狂い、シェイクスピア劇の多くのキャラクターは狂人と化します。「イギリス人はみんなキチガイ」というジョークは浸透して行き、日常的になったのでしょう。
キャロルが遠慮なくキチガイの世界を書けたのもこのような伝統の上にたっているからではないでしょうか?。

Madを許容する風土はノンセンスを育てる土壌でもあります。もし、あなたが、このチェシャ猫のこの箇所を面白く思うようであれば、あなたはもうに立派に不思議の国の住人だと思います。

参考:Madについてのロンドン在住の鈴木真理さんのお便り → アリスの系譜


 あっちか?こっちか?どっちだ?

チェシャ猫の指す方向について、翻訳の多くは「あちら(の方向)」「あっち(の方)」と訳しています。in this directionではなく in that directionですから当然だと思われるでしょう。原文を掲げておきます。

 “In that direction,”the Cat said,waving its right paw round,“lives a Hatter: and in that direction,”waving the other paw,“lives a March Hare. Visit either you like: they're both mad.”

 thatとイタリックスしたのは、私ではなくキャロルその人です。イタリックスは読み手に喚起を促すためのものですが、「コンピュータの向こうのアリスの国」によりますと「不思議の国のアリス」には180語あるそうです。

アリスのファンには、翻訳することや翻訳比較を楽しむ人が多くおられますし、折角キャロルがイタリックスにしているのですからもう少し詳しく見てみたいと思います。

手元の本やホームページで見ますと次の3派に分けられます。

あっち派

吉田健一、多田幸蔵、岩崎民平、本田顕彰、柳瀬尚紀、矢川澄子、蕗沢忠枝、山形浩生、

あっちこっち派 

高橋康也・迪、芹生一、中山知子、北村太郎、飯島敦秀、大西小生,、楠悦郎

こっち派  福島正美、高杉一郎、まだらめ三保、生野幸吉

  あなたの手元の本はどうなっていますか?

あっち派は、オーソドックス派のようですし、あっちこっち派は、thatを右手はあっち(そっち)、左手はこっち(あっち)と訳語を使い分けるやり方です。分かり易い表現ですが、同じ印欧語族での翻訳ではちょっと起きない現象だと思われます。

こっち派は、thatを敢えて「こっち」と訳すので、ちょっとへそ曲がりで、少数派ですが、私もこの少数派に属します。他の方が何故こっちと訳されたか知りませんが、私なりに、少し弁護させていただきます。

thatは日本語の「それ、あれ、その、あの・・・」と少し離れた物、人、時間などを指す指示代名詞と教えられますし、大抵の辞書にもそう書いてあります。

日本語の「それ」は主として相手の支配下にあることを示すので、(背中を掻いて貰っている時、「そこ、そこ」というのもそのためです。)この場面のように、木の上からアリスに向かって「そちらの方向」と訳すとアリスの方向となって、意味を成しません。辞書にある訳語を採用するとすれば「あっちの方向」となります。したがって、あっち派になんら問題はありません。

しかし、thatが「これ、この」とthisのように訳した方が良い場合で出会います。

That's right.(これでいい) That's all.(これでおしまい) That's life for you.(これが人生というものさ) That's that.(これできまりだ) Take that(これでもくらえ)などです。To be, or not to be; that is the questionもTo be, or not to be,これが問題なのだと訳したいところです。
勿論、「これ」を「それ」としてもかまいませんが、「これ」とした方が自然に感じます。

言語は対概念で成り立っているように思うのですが、<this:これ>と<that:それ、あれ>と対応で理解されていて、私の知る限り辞書も文法書もその理解です。私はthatにはこの対概念に当てはまらないものあるというのが私の主張ですが、thatは話者のコントロールできない離れたところで指すのではなく、聞き手が今認識しているそのこと又はものを指してものがあると思うのです。そうでないとtake that(殴りながら、これでも喰らえ!(シェイクスピアの「テンペスト」3幕2場ステファーノの台詞、「じゃじゃ馬馴らし」4幕1場ペトローシュオの台詞参照)が成り立たないと思うのです。
チェシャ猫のこの場合これにあたると思うのです。

 もう一つ考えられることはtheを強めるためのthatかもしれません。方向は実は猫の手(足)で示されているのですからです。ちなみに,例えばドイツ語ではこのin that directionをどう訳しているかといえば、共に、in der Richtungで、 derは英語のthe (that)にあたる冠詞、代名詞、関係代名詞です。発音上は差があります。

いずれにしろ、猫の手に呼応しているはずですから、猫の動作に注目しましょう。猫は手首を内側折って、円を描くように振ったのではないかと思います。猫特有の動作です。招き猫の手先を思い出してください。猫は物理的に「あっち」を指すことが出来ないのです。あっちと指差せるのは人間か猿ぐらいです。しかも、この猫は長がぁ〜い爪the very long clawを持っています。(very をイタリックスしたのはキャロル)おそらく内側に反っていたでしょう。あちらを示すのは難しいと言わねばなりません。

 もし、チェシャ猫が日本語しか話せないとしたらなんと言うでしょうか?手首を曲げて、宙を掻くような動作で「こっちの方は・・・」となるのではないでしょうか?

猫が手ではthatと指差せないのに、敢えて、口でthatということのおかしさを強調しようとしたのだから、thatを「あっち」としたのだと仰れば脱帽するしかありませんが、訳者はそれを意識されたのでしょうか?

 キャロルは何故that をイタリックスで使ったのかわかりませんが、私は「あっち」と言えない猫の悲しさを共有して「こっち」と訳しました。「どっち」でもいいことかも知れませんが、翻訳比較を楽しむ方のために書いておきました。


**The Arden Shakespeare HAMLET Edited by Harold Jenkins 1982 p385
    Oxford School Shakespeare  HAMLET Edited by Roma Gill  1992 p116

05・9・26一部修正

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