不思議の国より不思議な国のアリス   
チェシャ猫の笑い(3) ’pig’ or ‘fig’?

「みんながキチガイだ」と言うチェシャ猫に、アリスは、どうしてあなたは自分がキチガイだとわかるのですか?と反撃します。猫の答えを簡潔に言えば。

犬はキチガイでない
      犬は怒った時、唸り、嬉しい時には尾を振る。
      私はうれしい時に唸り、怒ったときに尾を振る。
      故に、私はキチガイである。

これに対して、アリスは猫は唸るgrowlではなくゴロゴロとのどを鳴らす(purr)だと反論しますが、猫はそのことは取り合わず、話題を変えてしまいます。

この進め方は、論理学の先生らしい三段論法で、似たような問題を学生に出して、正誤を論じさせていたのではないかと思います。この推論の誤謬はともかくとして、一見論理的なものの運びの中に、前章で触れた英国人の楽しみがあるようです。

話題は女王のクロッケーの試合になり、そこで会おうと、猫は消えますが、また、すーっと現れて

チェシャ猫:とこで、あの赤ん坊はどうなった?うっかり聞くのを忘れるところだった。

アリス豚になったの

チェシャ猫:そうだろうと思ってた

と、また消えます。アリスはまた現れるのではないかと期待するのですが、今度は、現れないので、行き先を三月ウサギのところにするか、帽子屋の方にするか考えていると所に、また現れて来て

チェシャ猫:pig(豚)と言った?それともfig(イチジク)?」

アリス:pigと言いましたよ。もう願いだから、そんなに突然現れないで!まったく目が回るじゃないの。

チェシャ猫:わかった。

と、最初は尻尾の方から消えていき、最後に笑いで終わりました。他の部分が消えた後も笑いはしばらく残っていました。「笑わない猫はよく見たことがあるけど、猫なしの笑いとはね!これはわが人生最大の珍事だわ。」とアリスは思います。樹の上のチェシャ猫に出会ってから、ここまでの運びは実に見事で、読者をぐいぐいと惹きつけます。

「猫なしの笑い」についてはまた別の所で触れることにして、ここでは“Did you say ‘pig’ or ‘fig’? ”について少し考えて見たいと思います。

チェシャ猫が、また現れて、pig or fig?と聞き返したのは、キャロルと同様、難聴だったからでしょうか?

結論から言いますと、私は、キャロルはアリスたちと言葉遊びをよくしていたので、それを思い出させて、アリスたちを喜ばそうとしたのではないかと思うのです。

その言葉遊びとは、一種の「しりとり遊び」で、言葉の一字を変える遊びです。例えば豚を猫に変える。

    Pig―Fig―Fog―Dog―Dot―Pot―Pat―Cat

だから一字の違いを問題にして、この遊びに誘います。Cohenのキャロル伝には、この遊びは、1877年にキャロルが発明したとあります。これはキャロル自身がそう言っているのですが、私の説は、このゲームの発端を十数年繰り上げるものです。あくまでも推量ですが、最初、アリスがウサギ穴に墜落している時のことを思い出してください。飼い猫のダイナのことを思いながら独り言をいっています。猫catsは蝙蝠batsを食べるかな?が何時の間にか、蝙蝠batsは猫catsを食べるかな?と一字の置換えが起きています。日ごろからこんな遊びをしていたことが目に浮かびます。

この遊びは最初Word-Linksと呼んでいましたが、後(1879年)に、Doublets−A Word-PuzzleとしてVanity Fair*1発表します。HeadをTailに、WheatをFlourに、BlackをWhiteにと変換させるのですが、できるだけ最短のやり方で変換した方が勝ちというもので、 流行ったらしく、Vanity Fair誌上でもコンテストが行われ、更に、独立した本としても出版されます。このあたりのことは『ルイス・キャロル 遊びの宇宙』に詳しく書かれています。*2
実際やれるようにルールも書いてあって、使用する英語の語彙表ついていますからご覧ください。

一見なんでもない1字の変換ゲームですが、意外に深いものがあります。
例えば、言語学で語源や言葉の系統を探す作業も使われます。音韻変化(音韻転訛)というのでしょうか、「2」という言葉は次のようなWord-Linksになります。
   dva―dvo―duo―due―dua―…dos…tab…twei―two … nii―ni… *
   (サンスクリットーギリシャ語―ラテン語―マレーシヤ語(台湾語)…スペイン語…アッカド語・・・ドイツ語―英語…チベット語―日本語)

この事例は勿論私がでっち上げたものですが、言語の変化もおそらく1字変換の積み重ねで生じたのでしょう。

DNAの世界も同様ではないでしょうか?白いバラの遺伝子が、

   ATGCATGCCGATATGCATGCCGATAGCATGCCGATATTGCATGCCGAT……

と、こんな並び方をしているとして、これの一字を他に変換すると赤バラになるかもしれません。
遺伝子工学がどんなものか知りませんが、Doubletsでは猿(ape)を人(man)に変えるというのがあります。
畏れを知らぬ出来の悪い人間に言語も遺伝子も操作して欲しくないものです。

また、1字の置換はダジャレの源泉です。思わぬものが飛び出して、ノンセンスな笑いを誘います。頭の回転の速い人ほどダジャレを好むように思います。

1字の置換は、一方では進化を、一方ではノンセンスの可能性を秘め、両天秤の載って揺れる不思議な存在で、キャロルの付けたDoubletsという名前は、マクベスに出てくる3人の魔女が唱える呪文に由来するとのことですが、それだけに無気味です。*3

チシャ猫は、高い枝の上とか空から見下ろして話す超越的で、わめて論理的な存在です。ある時はpig or figとアリスや私たちを言葉遊びに誘い込み、ある時は、無機的な対応で、笑いを誘いながら、生き方の根幹に触れる問題を照らし出すというキャラクターです。
今もどこかでニヤニヤしているような気がしてなりません.。


 *1  Vanity Fairは1858発刊から現在も立派に続いていて2004年4月で524号。

  *2   『ルイス・キャロル 遊びの宇宙』 マーティン・ガードナー  門馬義幸・尚子訳 白揚社 199

*3 Macbeth 4・1・10
 Double, double toil and trouble
 Fire, Burn ; and cauldron, bubble. 
倍また倍 苦しめ もがけ:
燃えたて 大釜 煮えたぎれ  (木下順二訳)

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