「不思議の国より不思議な国のアリス」      
ハートの女王(3) The Queen of Hearts(3)

私は、『不思議の国のアリス』の中で、ハートの女王が「首を切れ!」と叫ぶところを初めて読んだ時には本当に驚きました。子供の本の中で、「首を切れ!」と、のべつ間もなく(実は10回)も叫ぶとは!しかし、この強烈な個性こそこの作品を不朽のものにしている重要な要素であることは間違いありません。

しかし、ハートの女王は優しいというイメージがなければキャロルの表現は功を奏さないはずで、当時の物語絵本にはきっと優しく描かれていたと思われます。前回取り上げた中山訳原詩も1845年のDean &Co.'s SPLENDID TOY BOOKSの出版のGRANDMAMMA EASY'S シリーズでも女王は凶暴だというイメージはありません。年代は少し下りますがコルデコットのThe Queen of Heartsは実に品よくやさしく描かれています。何しろお客様を迎えるため自らタルトを作ろうする女王ですから。国際こども図書館の絵本ギャラりーをネット上http://www.kodomo.go.jp/gallery/index.htmlでも見ることが出来ます。
(このテキストは、ほぼ標準形と同じですが、ジャックがタルトを持ち去るところはand took them right awayとなっていますから前回のcleanとquiteにさらに新種が加わります。)

今だに人は Queen of Heartsと聴けば、優しく美しい人を描くようで、ダイアナ妃を形容するのに好んでQueen of Heartsが用いられることからも分かります。彼女の葬送の時の報道に Queen of Heartsが使われたことは鳥山淳子著「もっと知りたいマザーグース」(スクリングプレー 2002)にも取り上げられていますが、調べてみると、その発端は、2年前の1995年11月20日のBBCのインタビューに端を発しています。その時、ダイアナ妃が不倫を認めたことで大変有名ですが、その中で「私は人々の心の中で、a queen of people's heartsなりたいが、この国の女王Queen of this countryになるとは思わない」と述べたところから、マスコミはダイアナ妃をQueen of heartsと呼ぶようになったようです。(この丁度1ヶ月後にエリザベス女王はチャールス皇太子、ダイアナ妃に離婚を勧告しています。)現在でもダイアナ妃に捧げられた多くのHPに、このニックネームが併記されていますから、イギリス国民の中には、Queen of heartsは好もしいというイメージがあるようです。

多くのマザーグースの注釈書のQueen of Heartsがキャロルの『不思議の国』によって広まったとありますが、それなら、もっと悪いイメージが広まっているはずですから、この説は再検討する必要があるかもしれません。

私は長い間、キャロルが何故「首を切れ!」というような物騒な言葉を女王に言わせたか疑問でしたが、物語絵本系(中山訳原詩系)の最後が女王が死刑を要求していることがその発端ではないかと思うようになったことは前回触れた通りです。もう一つ考えられることは、次のようなことです。「首を切れ!」とは、血で血を洗った英国の歴史ではなじみの言葉で、シェクスピアのリチャード3世にも出てきますが、当時の子供達の遊びにも使われたのではないかと思うのです。当時の遊びの研究家にお教えを請いたいのですが、私たち子供の頃「死刑!」とか「はりつけ!」と言って遊んだような記憶があるからです。
「首を切れ!」についてはまた改めて書くつもりですので、ハートの女王の性格論に話を戻したいと思います。
前稿を読んでくださった木場田由利子さんからキャロルの演劇論のひとつAlice on the Stageのご自身の訳の一部をお送りくださいましたので、ここに引用させていただきます。

「ふたつの物語から王室の三人組---ハートの女王と、赤の女王、そして白の女王----を抜粋しよう。私のミューズに、三人の女王のことを簡潔に程よく、しかも各々の特質まで知ってもらうのは期待し難かった。三人の、其々に一貫した奇抜さの中にも、女王としての威厳は無論そなわっているべきである。そのことが重要なのだ。そして、特性を際立たせるために、ハートの女王を、納めきれない情熱の化身のようなもの---盲目的で、訳もなく怒り狂う女---であると想像した。赤の女王も同じく激怒する者として描いたが、タイプが違っている。彼女の熱情は冷めていて落ち着いているはずである。 堅苦しく厳格に違いないが、不親切では無い。すなわち、10等級の教条主義的傾向があり、あらゆる女家庭教師の要素が凝縮されている! 最後に、白の女王は、私の途方も無い空想の中で、やさしく、間が抜けていて、ふくよかで青白いように思われる。幼児のようにふがいない。ゆったりとあてもなくさ迷い歩き、うろたえている彼女の様子は、単におろかさを暗示しているが決してそうだとは決め付けていない。それらのことが、その他の点で彼女がかもしだすことになる、こっけいな印象を決定的にしたのだろう。ウィルキー・コリンズの小説『無名』の中に、不思議なまでに彼女とそっくりの登場人物がいる。一点に向かう異なった二つの道に導かれて、どういうわけなのか同じ理想にたどり着いた。ウラッグ夫人と白の女王は、双子の姉妹であったのかもしれない。」
(木場田由利子訳)*1

この文章にはキャロルの他のキャラクターについても、自ら解説していて、面白く、私も「白兎の正体」を書くとき引用したことがありますが、ここでは、ハートの女王に話題を絞りましう。
「女王としての威厳は無論そなわっているべきである。そのことが重要なのだ。そして、特性を際立たせるために、ハートの女王を、納めきれない情熱の化身のようなもの---盲目的で、訳もなく怒り狂う女---であると想像した。」とありますね。『不思議の国』で、アリスは最後にこれに立ち向かって、最終的に勝利を得るところで終わりを告げます。

これは、マザーグースでは標準形にしろ物語絵本系にしろ、予想していないタイプです。マザーグースではは王は威厳を表すので、裁判し、処罰する主導権を王が握っています。ところが『不思議の国』では、王は弱々しい控えめで完全に女王が権力をっています。これをキャロルが反転しているのです。あるいはキャロルの創造であって、そもそもマザーグースによっているかも怪しくなります。

前回参考としてお示ししたホームページはA Case of Mistaken Identity(人違いのケース)というタイトルなのですが、著者John Tufailはタルトを盗んだのはハートのジャックとは関係が無いと言っています。第一にテキストにThe Knave of Heartsとは書いてなく、ただのThe Knaveと書いてあるだけだ。第二に裁判の場を示す巻頭の挿絵を見ると囚人はクラブの服を着ている。(上の絵をよく見てください)だからマザーグースから取った起訴状は無意味で、そもそも人違いの、ノンセンスの話だといっています。挿絵はキャロルの厳格なコントロールに作られたことは有名な話です。そして、先のハンチャーの指摘するように第8章での女王の衣装はスペードの女王のものであり、登場人物のアイデンティティーは怪しいといわねばなりません。

これまでのところを要約しますと、『不思議の国の』の「ハートの女王」は、マザーグースの物語絵本の「ハートの女王」に親しんだ読者の思い込みを巧みに使いながら、読者をナンセンスの世界へ引き入れているものと思われます。

また、ハートの女王が、「首を切れ!」と叫んでいることの裏に、キャロル自身が言うように、その権威を表そうとしているのなら、アリスが「だだのカードじゃあないの!」とその権威に真っ向から立ち向かうところが、山場でもあり、キャロルの創造が発揮されたところだと思います。  

話のはじめに出た中山克郎さんのことなど書かねばならないことが残っていますが、ちょっと中休みさせていただきます。  つづく

06・5・10


*1 関連情報:木場田由利子「舞台に立つキャロル」 (MISCHMASCH No8 日本ルイス・キャロル協会刊 2006)

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