不思議の国より不思議な国のアリス
冒険の始まり The Beginnings of Adventures

「不思議の国のアリス」Alice’s Adventure in Wonderlandは原題にも示す通り、冒険なのですが、日本では早くから冒険は無視されてきました。(タイトルの運命参照)ファンタジーの話と捉えられています。しかし、私はキャロルの意図通り、冒険の話として読んでいきます。冒険とは、勇気を持って、危険を冒して、未知のものに挑むことですが、「アリスの物語」は最初から最後まで冒険の話と考えられなくもありません。

DRINK MEの瓶の中身を飲む時、アリスは、先ず、毒薬でないかどうかチエックしています。毒薬の表示がないので敢えて、思い切って味見することにします。Alice ventured to taste it.となっています。このventureが冒険adventureの本質です。勇気をもってやるところが、私がアリスの好きな所です。手書きのオリジナルでは、Alice tasted it.となっていますから、印刷に向けて推敲している過程で、キャロルの中に、これは冒険だぞという意識が働いて、Alice ventured to taste it.という表現にしたものと思われます。

ventureもadventureも日本で考えられる程、大げさなものではないようですが、「アリスの物語」がadventureであることは、私が主張していることではありません。文中で、グリフォンもアリスもアリスのお姉さんも、アリスの経験を冒険adventururesと言っているのです。このことはアリス学序説でもう少し精しく書きます。

冒険でも何でもそうですが、やって見なければ決して分りません。経験したことしか分らないというのがこの年になって得た私の結論です。敢えてすることの重要性をいくら強調してもしすぎることはありません。これを端的に表しているのが食べ物です。いくら味の説明を聞いてもわかりません。食べてみることです。貴方がこの世に居るのもそのためではありませんか?しかし、無謀に行うのは勇気でありません。

勇気について、大変古い話ですが、私はこの話を思い出します。今から2500年前のことです。それは、ある時、孔子の弟子で最も勇敢な子路が、孔子に向かって、「大軍を動かす時、誰と一緒にしますか?」と暗に、自分が名指しされることを期待して尋ねたと所、孔子は「虎に素手で立ち向かい、大河を徒歩で渡ろうとするような、命の惜しくないような無鉄砲な男とは私は行動を共にしたくないね。よく計画を練って、ことを成し遂げる人間がいいな!」と応えています。しかし、余り慎重すぎては行動に移せません。同じく孔子の話ですが、魯の家老の季孫が3度考えてから、実行に移しているという話を聴いて「2度考えれればよい」と言われています。ハムレットのように慎重すぎるのも問題があります。

私は思うのですが、好奇心をエンジンに、慎重さをブレーキに、リスクを覚悟で運転しているのが勇気ではないかと思うのです。

こんな教訓めいたことを書くのは、「アリスの物語」に相応しくないかも知れませんが、この物語を冒険物語と読む以上触れないわけにはいきません。未知なものに、勇気を持って挑戦していく冒険の始まりが、このDRINK MEの瓶の中身を飲む行為だと思います。アリスはこの年にしては、こまっしゃくれたというか、しっかり者として、「アリスの物語」の最後まで、冒険者の役柄を勤めます。これはヴィクトリアという時代の精神とか、当時の女子教育の理念にも関係ありそうですが、(cf. Carroll’s Heroines as Ideal Women bv Chika Yamaji *)それについてはご専門の先生お譲りして、私は一種の理想タイプとして捉ええます。ハムレットと対比すると分りが良いと思いますので、別の所に書いて置きました。

アリスが思い切って瓶の中身を飲んだ結果は、急に体が縮みます。「不思議の国のアリス」では、身体の伸縮がひとつのテーマです。

このことで私が思うことは二つあります。一つは体の伸縮はアリスのような可塑性に富んだ少女に相応しい。男の子でも、成人の女の人でもグロテスクになります。

もう一つは、身体の変化は想像を絶するほどの変化だということです。もし貴方の小指が10センチ伸びたらどうしますか?アリスの体験はそのように小さなものではありません。

稲木昭子・沖田知子著「コンピュータの向こうのアリスの国」(英宝社)にはその後に起きる12回の体の変化が一目で分るよう挿絵を上手に使ったページがあります。

物語の主人公が大きくなったり、小さくなったり、動物に変えられたり、変身する物語はたくさんあると思いますが、私は、アリスのように体が大きく変化する物語を思いつきません。自分であれ、相手であれ、思いもかけぬ変化をするのが「アリスの物語」で、キャロルが文学史上大きな位置をしめるのはこのためではないかと思います。

このような体の伸縮によって、アリスのアイデンティティは確かめられていくのですが、昆虫や動物に変えられなかったのは幸せだったと思います。また、体の伸縮の方が、やがて少女達に起きていくであろう体の変化に対応していて自然であったのでしょう。

体の変化で、心の方もおかしくなっているアリスに、そのアイデンティティを問うのは、やがて蝶へと変身する青虫であることも面白いことです。

冒険の手始めが飲んだり食べたりすることから始まるのも、どこか根源的なものに触れる思いがします。赤ん坊がハイハイ出来るようになると同じ頃、何でも口に入れる時期がありますが、そのようにアリスも口に入れることから冒険が始まりました。

2度目の冒険はEAT MEと書いてあるケーキを食べることですが、今度は計算が入ります。大きくなった場合と小さくなった場合の両方を考え、いずれの場合も良いと判断します。

二つの変化を予測するのですが、変化しないという第三のケースは考えていなかったのですが、何も変わったことが起きないとなると退屈で馬鹿げていると感じます。キャロルの叙述は細やかだなあと感心する所です。変化、変化、変化・・・だれもが求めているものです。

私が前章で退屈がキーワードだと言ったのを覚えておられますか?可能性を秘めていて何もしないと人は退屈と感じるようです。

アリスは、ケーキを全部食べてしまいます。

何か起きました。原文第一章は例の***マークで終わっています。

*LEWIS CARROLL STUDIES no.1 1999  日本ルイス・キャロル協会刊

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