不思議の国より不思議な国のアリス  
第4章 涙の海 The Pool of Tears

ケーキを食べ終わって、そのあと急に体が伸び始めました。

“Curiouser and curiouser”「奇妙れてきつ!奇妙れてきつ!」(柳瀬尚紀訳)とアリスが叫びます。どうしてcuriouserなのかと言えば、先ほど、瓶の中身を飲んで、体が縮んだ時に”What a curious feeling! “「なんと奇妙な気持!」と言うのに対応して、それよりもっと奇妙な気分と言いたかったのですが、more curiousとい言うべき所、間違って、curiouserと言ってしまいます。アリスはすぐ間違いに気付くのですが、この間違いの可笑しさは、英語を日ごろ使っている人でないと分らないのではないでしょうか?日本人には分りませんから、ここをどう訳すか翻訳者が腕を競うところです。あなたの本ではどうなっていますか?*

しかし、この間違いは、あまりにも有名になって、辞書にも出ています。例えば、研究社の新英和大辞典。これを集録する編者はきっとアリス・ファンでしょう。私もこれにあやかり、HPのタイトルの中にwonderouserという英語を作りました。

言葉遊びの一つに新語を作ること(coinage)にあります。「アリスの物語」全編を通じて、たくさん出てきますが、私は何かキャロルの創造力のほとばしりのようなものを感じます。シェイクスピアもたくさん新語を作ったと言われています。

何故、より奇妙な気分になったかは次第に分りますが、先ず、アリスが始めたのは一人遊びです。遠ざかる自分の足に、さようならと別れを告げたり、今や、遥か下に見える足に新しい靴を送ることを考えます。使いに持たせることにして、その宛名書きは;

  暖炉囲い町 絨毯アガル アリスの右足様 (アリスより愛をこめて)

アリスは自分でもノンセンスなことを言っていることに気付きます。そのとたん、頭がゴツンと天井に当たります。なんと、3メートル近い大きさに成っているではありませんか。でも、アリスのしたことは、先ず、テーブルの鍵を取って、花園へ出るドアへ向かいます。やっと開けますが、片目で覗くのが勢いっぱい、通ることなど思いもかけません。

アリスは声を挙げて泣きます。滂沱たる(この表現は最近ではなくなりました)涙を流すのです。人は涙を流して泣けるのは幸せですね。その涙があたりたまり十数センチ、涙の海となります。(翻訳家の先生はPool of tearsを涙の池、水溜りなどと訳されますが、私は敢えて涙の海としました。それはすぐ後のアリスの言葉によるのですが、先生方もPool of bloodと言えば血の海と訳されると思うのですが・・・)**

〔*楠本君恵『翻訳の国の「アリス」』未知谷2001のp148から151に、この箇所の22の訳例が年代順に掲げられています。
その内、比較級の意味合いまで訳出しているのは6例です。03・6・12追記〕

〔**大西小生さんから、さくまゆみこ訳の絵本(永田萠画、小学館〈世界の名作A〉、1997.)に「なみだの海」という章題があるというご教示がありました。
精しくはここをご覧ください。 03・5・25追記〕〕


例の白兎が現れたので声を掛けると、驚いて、手袋と扇子を落として逃げていきます。ひとりぽっちで、寂しいやら、意思に無関係に体が変化するので、泣き続けますが、次第に、精神まで変化が現れます。部屋が暑くなってきたので、兎の扇子で扇ぎながら考えます。今日は何と変な日なんだろう。夜の内に自分は変わったのだろうか?何時からそうなったのだろうかと綿密に考えていきます。もし、自分が変わっていないとして、次の問題は「私って、一体誰だろ?それが大きな謎だわ!」と思います。この疑問は「アリスの物語」の最大のモチーフですので、繰り返し出てきます。キャロルはこの問題を深く考えたからですが、古今東西、あらゆる思想・文藝の根底にあるテーマでもあるのです。私も最後までお付き合いすることにします。

自分が誰か分からなくなったら、あなたならどうしますか?アリスのしたことは、先ず、友人のエイダやメイベルに変わったのではないかと点検します。メイベルに成るくらいなら穴から出たくないと思うのです。それから、記憶を確認しています。九九を言ってみたり、首都の名を言ってみたり、しますが、見事に間違います。よく知っている「けなげな小さな蜂の子・・・」を唄います。声も何だかこれまでに自分ではないようです。中身はすっかり変わってしまい、蜂の子が鰐の子になってしまいます。歌を唄うとやり方は結構普遍的な方法かも知れません。

昔、よくMさんと飲んでいた頃、かなり、お酒が回ると、「Mさん。『水師営の会見』をやりましょう」と促します。この唄は小学校唱歌で、1905年日露戦争で、乃木大将がステッセル将軍の守る要塞を陥落させたときの唄なんです。「旅順開城約成りて・・・」で始まり、9番まであるのですが、それを、間違わず全部唄えると、唄う方も聞くも、まだ酔っ払っていないと思い、拍手と笑い声がとよめきます。(実際はもう酔っ払っているのですが)

ジギルからハイドに変化したように人格が変容したのではないかのチエック。覚えているか記憶のチエック、計算ができるのかの論理のチエック。つねって痛いかの感覚のチェック。色々な方法がありますが、決め手になる方法はありますか?

そうこうしているうちに、アリスは、ふと白兎の手袋をはめている自分に気づきます。何時の間にか小さくなっていたのです。60センチぐらいになったでしょうか、まだまだ、小さくなります。その原因が兎の扇子で扇いでいたことにあることに気付き、慌てて、その扇子を投げ出します。もう少しで消えてなくなるところでした。

間一髪、消滅から免れたアリスは例のお庭に出ようとするのですが、今度は鍵がテーブルの上にあり取れません。(そのちぐはぐなこと、意のままにならぬことが、これも繰り返されるテーマです。別のところでお話しましょう。)

こんなに小さくなったことはありません。こりゃ、まずいと言うべきだと思った瞬間。水の中に落ちてしまいました。

アリスは泳げたのでしょうか?

【このThe Pool of Tearsの章は木下信一さんの上方落語風の翻訳が「なみだ池」としてあります。
わにの子の歌も楽しめます。ご一読をお勧めします】

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アリスのアイデンティティ(1)