「不思議の国より不思議な国のアリス」
アリスのアイデンティティ(1)
Alice’s Identity (1)
Be what would seem to be.

きのこの上に大きな青虫がいて、ゆっくりと水キセルを吸っていました。
青虫とアリスはしばらく、黙って見詰め合っていたのですが、ついに、青虫は口からキセルを離して、けだるそうな声で「おまえはだれかね?」と言います。
アリスは、会話のはじまりにしては、余りぱっとしないなあと思いうのですが、答えます。

この後の会話は本文を読んでいただくことにして、「不思議の国のアリス」の名場面の一つです。この物語をアリスのアイデンティティの物語と考える人が多いのですが、その点では、ここは一つのピークをなします。
アイデンティティといえば何だか難しそうな議論になりそうなので、こんな詩はいかがでしょうか?

はるが きて
めが さめて
くまさん ぼんやり かんがえた
さいているのは たんぽぽだが
ええと ぼくは だれだっけ
だれだっけ

はるが きて
めが さめて
くまさん ぼんやり かわにきた
みずに うつった いいかお みて
そうだ ぼくは くまだった
よかったな

これは熊のプーさんの詩ではありません。まど・みちおの詩です。(まど・みちお童謡集「ぞうさん」1975年国土社に収録)
もし、熊が沢山いて、同時に川を覗いていたら、この詩の熊さんは混乱して、今度は更に熊の誰だっけと考えなければなりません。

鏡などに映る姿をみて自分を確認することは、よくあることですが、最近、こんな例を見ました。宮崎駿の「ハウルの動く城」で、ハッター帽子店(何だかキャロル的ですね)の18歳の娘、ソフォーが荒地の魔女の呪術によって、90歳に変えられてしまいます。そして、初めて鏡を見た時の驚きは凄いものです。

「ほんとに私なの・・・・落ち着かなくちゃ・・・慌てるとろくなことはないよ、ソフィー。
 なんでもない、なんでもない。落ち着かなきゃ。」


今のわたしは本当にソフィーなのだろうか?でないとしたら、わたしは一体だれ?これはアイデンティティの危機の例です。
アイデンティティ問題は普段は余り問題とはなりません。アイデンティティに関する変化があった時、アイデンティティの危機として意識されるのが普通です。

アリスにとって「私は誰か?」という問題は、青虫に聞かれる前から悩んでいたところでした。2章で白兎の残していった扇で仰ぎながら、「おや、まあ。今日はなんと変な日なんでしょう。昨日までは普通だったんだわ。夜の内に変わったのかしら。まず、朝起きた時はもとのままだったのかしら?もし、元のままでないとしたら、次の問題は『一体、私はだれか?』 ああ、これは大きな謎々だわ!」といって、自分を点検し始めます。自分はメイベルではなかろうか?メイベルはアリスの家とは一段低い家柄で、出来の悪い子ですが、アリスの階級意識をちょっぴり窺わせます。更に計算が出来るか、記憶は確かなのかチェックしています。このことは既に述べましたが、結局アリスは自分が誰なのか分りません。

アリスとしてはこの問題は避けて通りたい問題であったわけですので、青虫から最初に「Who are you?」と聞かれた時、uncomfortable(居心地の悪い)だと思う訳です。勿論、初対面で会話をこんな形で始めるのは紳士的ではなく、そのことを含めてアリスはuncomfortableと感じたのでしょうが、この青虫は最後まで社交のルールを無視します。

アリスは朝から大きくなったり、小さくなったりで、一体自分は何ものか分からないと答えます。もう、アリスは既に5回も体が伸縮しているのです。青虫はどうしてかね?と切り返します。
アリスが「おまえはだれかね?」と聞かれた時の、いや予感が的中して、なんだか深みに引き込まれそうです。

「あなたはだれ?」と聞かれたら、あなたならどう答えますか?
私はA大学の学生、落語研究会のメンバーです。私はB会社の課長、家族は3人です。私は主婦で3人の児の母・・・こんな風に答えるのが、普通です。さらに、いろんな修飾をつけて、例えば「アリス」のファンで、「アリス」に関することなら何でも集めています。このよう階級制度がはっきりしていたり、日本のように終身雇用の行き渡った社会では、所属する階級や組織、その中での地位と関連付け、自分を認識しており、人にも言えることが所謂アイデンティティです。定年退職して、帰属するものを失うともの関係によるアイデンティティの確認が困難になります。何処かで書きましたが私が自分を「アリス」と感じたのはまさにこんな時でした。皆さんもやがて遭遇されることでしょう。良く見かけることはかっての関係の復元で、同窓会、元の職場の仲間との交流、趣味の仲間の新たな関係の形成です。社会の中でのアイデンティティ確保はそれだけ大切だということです。
先日、石原東京都知事の「ババアは不要」という発言が波紋を起こしたのも、これに関係します。家庭の中で子育てという役割にアイデンティティの根拠を持っていた者が、それがなくなると、必死に、社会の中にアイデンティティを求めます。出来ればこの問題に関わりたくないと思いながら過ごしているので、知事の発言はuncomfortableです。これは「ババア」だけではなく「ジジイ」も同じであり、これからの社会の課題となります。

しかし、アイデンティティ問題はもともと青年のものでした。これには色んな側面がありますが、その一つは、この社会的関係があります。将来、色んな可能性を秘めているこの時期に、将来を含め自分がどうあるべきかについて悩みます。できれば、そんなに早く自分を限定したくない。これがモラトリアムと言われているもので、学校の卒業を引き伸ばそうとします。だれも同じ思いなのでしょうが、実行できる環境が必要です。最近は、学校を卒業しても、特定の会社、職業に付かず、所謂「フリーター」も増えています。一種のモラトリアム現象化も知れませんが、さらに学校も行かず、職業訓練も受けない青年の層も増えていると聞きます「ニート」というそうです。アイデンティティのはっきりしない人が増えています。

青年期のキャロルもこのアイデンティティ問題を抱えていたと思われます。
楠本君恵先生は「アリスの物語」は、ヴィクトリア朝社会の階級性の中でのキャロルのアイデンティティ問題を反映していると見ておられます。つまり、「学寮長の娘アリス」との対応で、自分の社会的立場を確認していく過程が、この物語に反映していると見ると、この物語の登場人物がよく分かるというわけです。[『不思議の国のアリス』作品論――あなたはだれ? 〔MISCHMASCH No.6日本ルイス・キャロル協会2003年3月15日発行 所載――英文サマリーの拙訳。 MISCHMASCH No.7 2004年12月15日発行 ではさらに英文で論述をされておられます。〕*1

再び「アリスのアイデンティティ」に話を戻します。
アリスにとって「学寮長の娘のアリス」は最大のアイデンティティかもしれませんが、それに尽きるものではありません。社会、階級に位置付けられたアイデンティティの奥に、更にいくつかのアイデンティティ問題があります。アイデンティティという問題の提起者、エイック・エリクソン自身もアイデンティティには明確な定義を与えず、さまざまな次元の問題を扱っています。レベルや切り口があると言うことです。

この「私は誰か?」という問題は、我々の持っている最大の問題であって、宗教、学問を含むあらゆる人間の営為は、この問題に関わっていると私は思っていますので、大変書きにくいのですが、*2 今、議論を簡単にするため3つの層に分けて考えて見ます。

第一層は、これまで述べた、社会的な関係の中の私です。蜜柑にたとえると外側の皮の部分です。以前、公爵夫人の教訓で、「見えるでありたいようなものでありなさい」を取り上げましたが、この領域なのです。まあ、蜜柑に見られたいのなら、蜜柑のようにしなさい、ということでしょうか。これは大切なことで、アリスならずも、我々みながこれによって生活しています。オックスフォードの先生という立場にいるキャロルにとっても大問題で、自分だけではなく、親戚やグランディ夫人のような人を含む周りの目も気にしなければなりません。このことについてはまた触れますが、第一層のアイデンティティに問題がない場合、次の層の問題は生じないのが普通です。

第二層は中の実の部分です。外から見えないの部分です。先ほどの熊さんやソフィーが問題とした私です。アリスのアイデンティティの問題もこの領域に属するものが多いです。第一層より更に複雑な問題を持っています。私の書きたいことの中心です。

第三層、これは第一層、第二層とは全く次元の異なる世界で、先ほどの蜜柑の例でいいますと、果たして蜜柑(私)は存在しているのか?という領域で、アリスが赤の王様の夢に過ぎないと言われえ泣く場面がありますが、これもキャロルにとって大きな問題でしたが、通常これはアイデンティティの問題とはしません。

これから第一層目の大切なテーマ、名前について触れますが、よく引かれる宮沢賢治の詩(「春と修羅」序)の一節を読んで中休みとしましょう。

わたくしいう現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い証明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せわしく明滅しながら
いかにも確からしくともりつずける
因果交流電燈の
ひとつの青い証明です
(ひかりはたもち 電燈は失われ)


*1 一言、私の感じを先走って書きますと、アリスとの階級差を乗り超える方法ととして、キャロルが編み出したのは「鏡の国のアリス」の終わり近くに出てくる白の騎士(ナイト)だと思うのです。二つの物語の中ではじめてアリスと心通う人物、それが白の騎士ですが、多くの人はこの騎士はキャロル自身だと見ております。西洋の中世以来の強い伝統、女王、貴婦人と身分を越える者の恋を、騎士道物語に還元し、自分を騎士の位に就けたと言えなくもありません。

アリスが王冠を得る手助けをする騎士に関して、私はこんなことを思います。それはキャロルの生誕100年を記念して、コロンビヤ大学が、モデルのアリス(ハーグリーフ夫人)に名誉博士号を贈ることになった時、アリスは快く受け、ドジソンさん(ルイス・キャロル)がこのことを知ったら喜ぶと思うと言っています。現実のアリスも2人の息子を戦争で奪われるなど、様々な出来事に遭遇するのですが、博士号授与式の王冠のような角帽を被ったアリスの写真を見ると、アリスの物語がこんな形で現実したのだとある種の感動を覚えます。

*2 私の模索の中間的な報告は野口慊三さんとの対話「自分を探すアリス」をご覧ください。(全部で350ページ以上あります。)部分的に覗きたい方はこのあたり(55)へどうぞ。

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