54 猫: 感覚ー意識の構図の中で、自分というものが形成されるのではないかということですが、それは部分的には正しく、部分的には正しくない、とお答えします。
 正確にいえば、「自分」が形成されるのではなく、「自分とは何かという観念」が形成されるのです。それは無意識の中に蓄積されて行きます。そしてその無意識に蓄積された観念に基づいて次の行動をとろうとしますから、その観念が自分を拘束することになります。観念がなぜ自分を束縛するかということをお話します。将棋の駒を考えてください。将棋盤の上に5角形をした駒をおきます。もしこれを指でつまんで動かすならば、将棋盤のどこへでももっていけないところはありません。将棋の駒には本来的には何の制約もないのです。けれども、それではゲームになりませんから、制約を作ります。「この駒は一つ前の場所にしか動けないぞ」という制約を作り、その駒を「歩」と名付けます。別の駒には「前に進むのはどこまででも進めるが、横には動けないぞ」という制約を課し、その駒を「香車」と名付けます。このように、制約を課すことによって個性が生まれます。個性が生まれることによって、その個性を如何に組み合わせて働かせるかというゲームが生まれるのです。
 観念が自分を束縛するというのは必ずしも悪いことではありません。それがあるから「自分」という個性が生まれるのです。それに基づいて、まったく個性的な人生を体験することができるのです。けれども、自分の個性を選ぶのは自分です。自分の個性を変えたければ、無意識の中に蓄積された観念を変えればいいのです。 世の中にたくさんの心理療法がありますが、それらは一言で言えば、すべてこの無意識に蓄積された自分像を変えることを目指しているのです。ところが私たちは、無意識の観念を変えるのは難しいという観念も持っています。そのために個性を変えるのが難しいのです。

55 アリス:(長い沈黙)
正直なところちょっと分からなくなってきました。猫さんのお話は、心の中に、「自分」が形成されるのではなく、「自分とは何かという観念」が形成され、「自分」という個性が生まれる。それに基づいて、まったく個性的な人生を体験することができる。けれども、自分の個性を選ぶのは自分である。となりますが、これが理解しにくいのです。そのことが良いとか悪いとか、自分の個性を変える、変えないの問題に入る以前の所が良く分かりません。自分が堂堂巡りしているようで・・・

不思議の国では、青虫に”Who are you?"と聞かれて、アリスは、自分の体が大きくなったり、小さくなったりしているので、答えに窮しますね。

"I ca'n't explain myself, I'm afraid Sir," said Alice, "because I'm not myself, you see." "I don't see." said the Caterpillar."  これが原文ですが、キャロルはmyselfとイタリックスにしています。この青虫はなかなか人物?のようで、そのやり取りは面白いのですが、消えてしまいます。

猫さんの「自分」ということについてのお考えをもう少し続けていただければありがたいのですが・・・

56 猫:アリスさんの返事はいつも私の予想したことと違うので、とても面白いと思います。「自分」とは何かについて、一般論を述べる前に、本物のアリスと青虫が交わした会話について、私の感じたことを申しあげます。
 アリスは、自分が大きくなったり小さくなったりしているので答えに窮したということですが、どうして答えに窮するのでしょうか。自分が大きくなったり小さくなったりしていると感じている「何か」がいるわけで、その「何か」が自分であるのであって、大きいのが自分だったり、小さいのが自分だったりするわけではありません。
 アリスが you see. といったのに対して、青虫がそっけなく  I don't see.  と返すのも意味深長ですね。アリスが大きくなったり小さくなったりしている自分の外見のことを気にしているのに対して、青虫は私はそんなものを見てはいませんよ、といっているように思いますが如何でしょうか。禅問答のような感じがします。「アリスよ、あなたの中で大きくもならず、小さくもならないものは何か、さあ言え。」というような感じです。

57 アリス:それでは、猫さん。本物のアリスに代わって、青虫のWho are you ?という質問に答えてあげていただけないでしょうか?


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アリスとチェシャ猫との対話(11)