「不思議の国より不思議な国のアリス」      
誰がタルトを盗んだか?(1) Who stole the tarts? (1)  

『不思議の国』での裁判の場面は、詳しく書かれていて、大変面白いのですが、ここでは裁判の核心だけを取り上げます。

囚人は鎖に繋がれ、両脇を兵士にはさまれて、王と女王の前に、引き出されています。白兎が告訴状を読み上げます。

  ハートの女王
  タルトをつくった
  ある夏の日 一日かけて
  ハートのジャック
  タルトを盗った
  そっくり みんな持ち去った

この裁判は前に引き出された男のタルト窃盗事件の裁判のようです。
この男を罰するには次のプロセスが必要です。

@タルトを盗んだのはハートのジャックである。
Aここにいる者のはハートのジャックである。
Bゆえにここにいる者がタルトを盗んだ。
C陪審員がこの男を有罪と評決する。
D王が量刑して判決を言い渡す。
E判決を執行する。

@の「タルトを盗んだのはハートのジャックである」という命題は、裁判のポイントですが、これは白兎の読み上げる訴状にあるとおりを正しいとして話を進めないややこしくなります。というのは、このライムは「ハートの女王」で取り上げていますが、ハリウエルやオピーの集成本をたどっても、物語絵本系をたどってもハートのジャックがタルトを盗んだことは疑いありませんし、特にキャロルやアリスが親しんだと思われる物語絵本に方は裁判の場面があり、王の巧妙な大岡裁きで、ハートのジャックが犯人と認定しています。とりあえず@を正として進めましょう。

もっとも、盗んだタルトを返したのか、食べてしまったのかによって後の量刑に影響がありそうですが、どうやら大半は返されたようで、法廷に持ち込まれています。

そこで問題としたいのはAなのですが、鎖の繋がれて、法廷に引き出されたジャックは果たして「ハートのジャック」なのかという点にあります。当然、皆さんは「ハートのジャック」と思うでしょう。

ところがこれを疑った人がいます。Dr.John Tufailという人が、その人です。『不思議の国』の裁判の被告は「ハートのジャック」ではないという愕くべき結論を出しているのです。人が当然としていることを疑うのは、きわめて高い知性で、コペルニクス、ガリレオ、ニュートン・・・・世紀の大天才でなければできません。ちょっと大げさななりましたが、この人の主張は「ハートの女王(1)」でも触れたように、http://www.megabrands.com/carroll/knave.htmlで詳しく見ることができますが、要約しますと次の通りです。

@テキストにthe Knaveと書いてあるだけで、the Knave of Heartsとは書いていない。
A挿絵(巻頭の)の囚人はクラブの文様の衣装を着ている。
Bキャロルは挿絵についてディケンズやサッカレーのようにコントロールしている。
Cキャロルは犯人はハートのジャックだという思い込みを利用して、人違いの被告を裁判するというノンセンスを表したのである。

まず@についてですが、手元の訳本を見てみますと、不思議なことに、吉田健一、高杉一郎、中山知子、高橋康也、楠本君恵、村山由佳の諸氏がthe Knaveを「ハートのジャック」と訳しておられます。(あなたの手元の本はどうでしょうか) 原文にない言葉を添えるのは訳者にそれなりの理由があるのだろうと思いますが、Tufail博士の指摘を知っていれば、「ハートの」という言葉を補わなたったかもしれません。

Aの文様ですが、これを根拠にハートのジャックで無いというのはこの限りでは説得力がありますが、これには問題があります。前にも触れましたが、テニエルの挿絵を深く研究したハンチャーがハートの女王がスペードの文様の衣装を着ていることを指摘います。*1 これとの整合性をどう取るか考えなければなりません。ジャックは巻頭の挿絵と裁判の場の挿絵は、明らかにクラブの文様の服を着ていますが、アリスが最初に出会う第8章での挿絵ではジャックの衣装の文様ははっきりと分りません。テキストでは、皇室の子供は10人ともハートの衣装を着ているとありますが、10人ということはジャックは入っていません。王冠を運んでいるのは「ハートのシャック」と書いてありますから、文様のいかんにかかわらず、この挿絵の男が「ハートのシャック」であることは間違いありません。そして、被告として法廷に立たされている
人物は、顔つき、体型から同一人物と考えて間違いなさそうです。(他人の空似ということもありますが)

『不思議の国』とはなれて、ナーサリーライムの「ハートの女王」はどうかといいますと、既に挙げた、1840年頃の物語絵本を初めとして、クリックシャンクル*2、コルデコットの挿絵は女王もジャックもハート文様の衣装を着ています。その点、キャロルーテニエルの挿絵は何だか怪しいと思わなければならないと思います。

一方、楠本君恵訳『不思議の国』はブライアン・パートリッジの挿絵が使われていますが、裁判の場のジャックは明らかにハートの文様を身につけていますから、訳者はそれを支援する意味で「ハートのジャック」とされたのかもしれません。各種挿絵を比較するのは皆さんの楽しみに残しておきましょう。

私の結論は、この人物は、クラブの文様の衣装は着ていますが、アリスが見た、王冠を運ぶ「ハートのシャック」と同一人物と思われます。しかし、皆が前提としているナーサーリーライムの「ハートのジャック」とは全く別人と考えます。この点ハートの女王も衣装はちぐはぐで、皆が前提としているナーサーリーライムの「ハートの女王」とは全く別人と思います。第一、『不思議の国』の女王がタルトを作るようなタイプではありません。
キャロルは、皆の中に既にあるナサーリーライムや絵本の「ハートの女王」の物語の強い先入観をからかっているのだと思います。パロディの一種なのです。これはTufail博士の視点の拡大ですが、キャロルとテニエルは、皆の錯覚を大いに楽しみながら、ノンセンスを出現させ、親切にも、ちょっと衣装の文様を変えることによって、そのヒントを残したものと思われます。ここまで分って見るとこのシーンは一層面白さが増します。

その意味では、私はこのジャックはタルト窃盗と無縁だと思うのですが、有罪を主張する人もいます。
先のハンチャーです。彼が言うには、キャロルは彼を有罪とも、鼻が赤いとも書いていないが、挿絵は赤鼻で描かれている。ところが、公爵夫人の料理番の証言によりパイ(タルト)は主として胡椒からできていると言っている。胡椒入りのパイを食べると鼻が赤くなる。よって彼は有罪である。*3

私はハンチャーに対してこの男を弁護しておきます。
赤鼻は「酒さ」とも言われるように大酒飲みに見られる現象です。私は、若い頃、焼酎をいつも飲んでいると鼻が赤くなると聞いたことがあります。現在のようにお湯やサワーで割らずに飲んでいた時代です。以来、私は原則として焼酎は飲みませんので、結構お酒は戴きましたが、未だ鼻は赤くなっていません。もうすぐ発症するかもしれませんが・・・一方、おそらくこの男はジンのようなきつい酒を愛飲してのでしょう。酒飲みは甘いものには食指を動かさないものです。もちろん例外もありますが、甘党ならいざ知らず盗んでまで食べようとはしないと思います。鼻が赤い故に無罪と思います。

胡椒が鼻を赤くする可能性を否定するものではありません。日ごろ、胡椒たっぷりの料理を食べている公爵夫人や料理番の鼻も気のせいか少し赤いように見えます。
しかし、この男が鼻が赤くなるほど胡椒でできたタルトを食べていたとしたら、法廷に持ち出された沢山のタルトは一体何なのでしょうか? タルトは果たして盗まれたのでしょうか?

これは作り話ですからいいようなものの、皆の思い込みを前提に国家規模このようなことを行われたら、ノンセンスと言って笑っておれませんね。でも、こんなことが現に起きているように思いませんか?


つづく

06・6・11


*1  『アリスとテニエル』M・ハンチャー  石毛雅章訳 1997 東京図書 p98〜
*2  前掲書 p115 
*3  前掲書p58、p282 参照

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