「不思議の国より不思議な国のアリス」
海亀もどきのため息(2)
韻律か?意味か?
The Mock Turtle sighs deeply. (2)
Rhyme?and Reason?

原文を海亀スープとして、海亀もどきスープである翻訳は、見た目もさることながら、味わいが似ていなければなりません。
味わいとは、意味内容が似ているほかに韻律、律動が似ていることです。
先程の句読点の問題は、海亀もどきスープにとっては飾りに浮かせたパセリのようなもので、これがあるからといって、本物に近づく訳ではありません。

普通の文章でも 詩でも意味内容と韻律は表裏一体となっていているが、詩においては後者に重きが置かれていることは言うまでもありません。Rhyme (韻律)か?Reason(意味)か?はキャロルにとっても大変心を使ったことのようで、1883年の彼の詩集は、有名な「ファンタスマゴリア」や「スナーク狩り」が再録されてのですが、その題名はRhyme?and Reason?です。キャロルの詩は、すべて韻律の整ったものですし、アリスの物語も美しい響きを持っています。

ここでは詩を中心に話を進めましょう。

これやこの ゆくもかえるもわかれては しるもしらぬも おふさかのせき (蝉丸)

これが、行く人も、帰って来る人も、知っている人も知らない人も、ここで別れ、また、ここで逢うという逢坂の関なのなのだなあ。

後者は前者の意味の解釈だとすれは問題ないと思いますが、現代語訳だとしたら、前者の香り、味わいを失っています。
落語の「寄合酒」で、トンマな男が鰹節の出汁を取ることを頼まれて、出し殻を残し、出し汁の方は不要なものとして、もったいないので手足を洗い、褌を洗うためにそれに漬けておくという場面がありますが、訳詩の場合、そんなことを平気で行っているケースが時々見られます。

原詩が、深い詠嘆の響きをもって詠まれているのに、訳詩は無感動な腑抜けた散文では困ります。
韻律は国によって異なり、漢詩では五言、七言、平仄といった決まりがあり、英詩では強弱、脚数、頭韻、脚韻・・・とありますが、日本語の場合はどうでしょうか?余り詩の韻律について論じられないは不思議ですが、 韻律論が発達しないからといって、日本語が韻律の乏しい言語ではありません。日本語の韻律は美しいはず、源氏物語といった古文を読めば明らかですし、俳句の17文字にも韻律を感じる稀有な国民かもしれません。

ただ、韻律構造の異なる言語間の詩の翻訳は大変厄介です。例えば、英詩や漢詩で普通の脚韻を揃えるということは日本語では大変問題があります。大体、日本は放っておいても同じ文末になります。・・・だ。・・・ます。・・・です。・・・る。・・・た。  これを続けると小学生の作文になりますので、これをいかに変化を持たせるかが文章修行の一つのポイントですが、英語では(おそらく中国語も)放っておけば、文末はばらばらになりますが、これを無理してそろえるところに散文にない詩歌の味が出るような言語なのです。相反する性格ですから、始末に負えない訳です。また、日本語は母音で終わるので、押韻の効果が少なく、むしろ音数をそろえて調子を出す音数律が中心となると言われています。

これに関連して、定型か非定型かの問題もあります。定型詩がなんだか前時代の遺物のように扱われ、自由律の詩が普及して五,六十年になるでしょうか?しかし、定型性は俳句と和歌にしっかりと生き残っており、何度も同じ旋律を繰り返す唄の歌詞は自ずと定型性を保持します。特に演歌の歌詞は色んな意味で日本の詩歌の伝統を受け継いでいると思います。一方、若者の歌う唄もなんだか日本語らしくないものが耳につき、これが逆に日本語を破壊するのではないかと思うほどです。

韻律の問題を考える時、本来その意味が余り問題のならないキャロルやリアのノンセンス詩を取り上げると面白いのですが、どうしても意味をこじつけようとして事態が紛糾しますので、逆に意味が全く明白なThe Old Woman.というマザーグースを取り上げてみましょう。まず読んでみてください。

A
There was an Old Woman,
Liv'd under a Hill,
And if she 's not gone,
She lives there still.

B
おばあさんがいた、
丘のふもと住んでいた、
そしてもし去っていなければ、
そこにまだ住んでいる。

C
あの丘のふもとに
おばあさんがござった。
もしも去(い)なんだら
まだ住んでござろ。

D
ばあさんがひとり
 おかのふもとにすんでいた
もしもどこかへいってないなら
 いまでもそこにすんでいる

E
丘のふもとにばあさんが
 住んでいたよ じっと
どこかに行ってしまわなきゃ
 まだ住んでいるよ きっと

F
おかの ふもとに
ばあさん ひとり
しななきゃ いまでも
すんでいよ

B:意味のみを伝える原文直訳 C北原白秋  D:谷川俊太郎 E:和田誠 F中山克郎

Aが海亀スープ、B、C、D、EfFが海亀もどきスープですが、あなたのお口に合うのがありましたか?

これは「自明の理」の可笑しさを歌っているマザーグースの一つですが、 どうしても、意味や背景を知りたい方は夏目康子著「不思議の国のマザーグース」(柏書房)などをご覧ください。

さて、韻律の問題に戻りますが、原詩を口の中で転がせて見るとわかるのですが、この詩は1,2行と3,4行を一口に弾みをつけて言って、つまり;
  There was an Old Woman, liv'd under a Hill,
  And if she 's not gone, she lives there still.
Hillとstillの押韻を響かかせる所に面白さがあることがわかります。言葉遊びと言っていいかも知れません。そのことを一番意識しているのは、この中では、和田誠訳だと思います。しかし、その分、意味の方は原詩から離れていますし、まだ詩の原詩の調子を十分捕らえていません。中山克郎訳は調子を良く写しているが、この詩のポイントの押韻を考慮していない。拙訳を示すと、

G
ばあさん 住んでた 
   丘の 底に
逝って しまわにゃ
   いるはず そこに
丘の底という表現は「鏡の国」で赤の女王が使いそうな言葉で、アリスにノンセンスと言われそうですが、これだとシラブル数も原詩11・9に対して訳詩は13・14とだいぶ近くなってきています。ちなみに和田誠訳は21・22、中山克郎訳は14・13です。

韻律の方は諦めて、あるいは不可能と考えて、意味の方だけでも移そうという態度も良く見られますが、、これも一理ある態度で、その場合は意訳と表記して欲しい感じです。

問題は直ぐ諦めず何処まで近づくかにありますが、これについて吉川幸次郎と大山定一の論争があります。
「洛中書問」は翻訳論ですが、詩に関して、大山はギリシャ彫刻はそれが断片であっても、ギリシャ彫刻の味わいがあるといっています。詩は一行でも詩で、詩として訳せと言っています。上田敏など訳詩者が苦労した所です。
永遠に満足することがありません。

この不可能性が多くの人にチャンスを与え続けると言うわけで、海亀もどきスープにはこれからも多くのバリエーションを生むことでしょう。「アリスの物語」が次々の翻訳されるのもこんな所に原因があるのですが、不思議なことに詩集の方には余り、バリエーションがないようです。訳詩は困難な上、余り需要がないからかもしれません。

バリエーションの問題は、優劣の問題より、好みの問題といえるかもしれません。お前の好みはどうかと問われれば、やはり本物(の海亀スープ)を味わいたいのです。

私は、実は、海亀スープも海亀もどきスープも食したことがありません。
本物の海亀スープについてはどれだけ高価で美味しいものかは「バベットの晩餐」という映画や本で想像がつきます。舞台は19世紀 の後半、バベットという名前のフランス革命から逃れた天才料理人と村人との物語ですが、 これを食した人は人生観が変るほど感動します。
別の料理ですが、「ヤンソン氏の誘惑」というスエーデンのジャガイモ料理があります。おそらくコストは海亀スープに較べ1000分の1以下でしょうが、味とはどんなものかの消息を伝えます。19世紀、エリク・ヤンソンという厳格な宗教家がいました。信徒引き連れてアメリカにコロニーを作り、そこで菜食主義を実践していたそうです。 しかし、この料理があまりにおいしので食べてしまい、それを弟子が見つけて、指導者に幻滅した弟子達は皆離れていったといったことをどこかで読んだことがあります。ウソか本当かわかりませんが、そんな逸話もうなずけるほど本物の味は凄いと思います。
詩も本物は一行で人生を変える力があります。

海亀スープにも多少のバリエーションがありますが、海亀もどきスープはその何十倍ものバリエーションがあると思われます。ひっとしたら、本物をしのぐものが出てくる可能性もありますし、国情、時代にあった形に進化しますので、もう本物を忘れてもかまわない場合もあります。日本のラーメン、カレーライスはその域に達したものです。
お好みはあなた次第なのですが、こと詩に関しては、私は元のものに憧れてしまいます。

海亀モドキはここで大きな目に涙をためて、ため息をつきます。

06・4・17(改4・20)(改4・24 中山克郎訳追加)

【追記】
09・1・31 野口慊三さんのメールから引用
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昨日、パトスだけあってロゴスがない言葉の極限は「詩」だといいましたが、それも「ナンセンス(ノンセンス?)詩」が本当の極限です。そういう意味では、「ナンセンス詩」と「数学」が真に対極にあるわけですね。そして、この「飾り言葉」をいっぱいつけた日本の詩は、かなり極限に近いのではないかと思います。
最後に、「おばあさん」の詩の私訳をつけておきます。日本語の詩は拍数でリズムを作るべきだという立場にたって・・・。

 あそこにいたな おばあさん
 おかのふもとに すんでいた
 どこかにいって いなければ
 いまもあそこに いるだろう
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