「不思議の国より不思議な国のアリス」
海亀もどきのため息(1)
ああ!句読点
The Mock Turtle sighs deeply. (1)
Alas! Punctiation marks..


文章の最後には必ず句点(。)が来ると誰もが思っています。

私は日本人です  では日本文ではなく、必ず、私は日本人です。と書かなければなりせん。このようなことは学校で厳しく叩き込まれるようで、最近は短い広告文にも句点が打たれてるものが目立ちます。「飲み放題。食べ放題。4千円。」「。」がないと気持ちが悪い人が増えているようです。文章は、特殊な場合、読点(、)や!、?、」などで終わるとがありますが、これらの代表選手として句読点(マル、テン、ピリオッド、カンマ)を中心に、これから、話しを進めます。

英語など欧米の言葉を学んだ人は、ピリオッド「.」がない文章は許せなくなっています。深く勉強をした人ほどそうなるのは、カンマやピリオッドの有無や位置で悩まされてきたからです。例えば、シェイクスピアは版本によって句読点が異なるがものがあり、どれがよいかの議論に多くの時間を使います。

日本も中国も、おそらく西洋でも古い時代は句読点がありませんでした。
我が国では、源氏物語は勿論、江戸時代まで句読点はありません。今でも日本の文章は句読点のないのが正式という意識は表彰状や挨拶状に句読点を付さない形で残っています。

文章はその言葉を知っている人がは読めば、終わりはどこか分かりますし、分からないときはそれはそれで面白いものです。逆に、よく分からない言葉で書かれている文章を読むときは、どこで終わるか分かりません。昔の人は、句読点のない中国の本(白文)を読む時、一字一字なんとなく分かるのですが、どこで切るのか分からず苦労しました。句読点を入れることは理解したことを意味します。学者は、白文に朱筆で句読点を入れることによって、ようやく理解したという喜びを得て来ました。吉川幸次郎の蔵書(神戸中央図書館蔵)の中に、先生が朱を入れられたおびただしい跡を見ることができます。今でも白文に朱を入れることを楽しんでいる漢学者がおられるかもしれません。ところが、このようなことは一般の人にできることではないので、そこで普及したのが訓点本です。句読点と返り点ををつけますと一挙にやさしくなります。寺子屋の教科書である四書五経をはじめとしてとしておびただしい種類と量の中国古典の訓点本が出回りました。訓点本は翻訳の一種と見ることができますので、いわば、江戸時代は翻訳黄金時代と言っていいかもしれません。

私は、日本人が西洋文化の摂取が早かったのは、この翻訳黄金時代を経ているからだと思うのですが、問題を小さく絞って、西洋の句読点についていいますと、幸いなことに、訓点本の素地がありましたので、抵抗なく受け入れられました。
文章によって、物事をできるだけ正確に表現するために、主語をはっきりさせるとか、能動・受動を明確にするとか、文章表現上、色んな努力なされましたが、その中で最大のものは句読点であったのではないかと思います。今ではすっかり日本に溶け込み、句読点のない文は許せないと思うほどになったのです。

ところが、今でも、句読点を付けない世界があります。それは詩歌の世界です。
和歌、俳句は原則として、句読点は付いてませんし、文の塊を示すための句読点はその必要性もないのでしょう。
詩は、統計を取ったわけではありませんが、7,8割は句読点なしといった感じです。*1 詩では、分かち書きや改行を細かく行うことによって イメージを積み重ね、文章を完結させないで、色んな含みを持たせると言うこともありますが、本質的なことは、古い言語や中国語や日本語がそうであったように、言葉は口に出して言えば、その音の響きで理解できるものということを意味します。特に韻律を主とする詩歌の世界では、句読点は無用なもの、言葉の純粋性を損ねるものと受け止めるられるからです。

一方、英語の詩は句読点が付いています。句読点は、 古英語、中英語期では使い方は気まぐれで、18世紀になって今のようになったそうですが、先ず、理性中心の理屈で理解する世界(散文の世界)で、普及し、詩歌に及んだのではないかと思われます。
強弱、長短、韻などによって、その響きによってあるものを伝えようとするのが詩ですから句読点は本質的なものではありません。私は、これらは、朗誦のために付けられた符号して働き、意味を理解させるためのも便利なので、詩にも句読点が定着したのではないかと思っています。
この分野をほとんど勉強していない私のあくもでも推量ですが・・・

問題は、英語の詩を訳すときはどうするのか、ということになります。

つまり、詩歌にも句読点を付けることがが定着している西洋の詩を、詩歌は原則として句読点をつけない日本の詩歌として翻訳する場合どうすれば良いかということになります。もともと句読点のない中国の詩を訳す時にはこんなこんなことは問題にならなかったのですが・・・・*2

外国のものは可能な限り、外国流にすべきた、という考えと、翻訳は自国の文化の上にたって表現すべきだ、それがこなれた翻訳というものだという考えの、どちらに加担すべきかということになります。

訳詩の大家はどうしたのでしょうか?
明治の「新体詩抄」(1982)、「御母影」(鴎外)には句読点はありませんが、有名な「海潮音」(上田敏)、「珊瑚集」(荷風)は句読点をつけています。「月下の一群」(大学)は両方が併用されています。例えば「ミラボー橋の下にセーヌは流れ/われ等の恋は流れる・・・」これは句読点なし。「目をとじると/私は景色が見える、/目を閉じると/お前の顔が見える。」ちょっと変わった句読点の使い方です。上田敏の影響もあってか、英語の詩は、8割以上は句読点つきのように感じられます。

我が「アリス」の翻訳者はどうなのでしょうか?古いものは持っておりませんので、手元の「アリス」の中で、その訳詩がどうなっているか見て置きます。
句読点なし 福島正実、矢川澄子、柳瀬尚紀、高橋康也、芹生一、高杉一郎、中山知子、楠悦郎、石川澄子、藤沢忠枝、安井泉・・・
句読点あり 高山宏、岩崎民平、北村太郎、多田幸蔵、吉田健一、岡田忠軒、生野幸吉、高杉一郎・・・・

訳者によって、必ずしも、原則を貫いていない人もいますし、版本により異同もあることでしょうから、厳密なものではありませんが、少し、一般の傾向とは違っています。マザーグースの翻訳を当たるとまた異なる傾向が見えるかもしれません。

いずれにしろ、これは、訳者がどれだけ日本の詩歌の伝統を重んじるか、日本の古来からのパトスを重んじるか、あるいは、合理的な国際的コードを取り入れ、ロゴスを優先させるかの問題とも言えますし、大げさに言えば、民族主義と国際主義の対立とも言えます。一方、印刷紙面の小さな豆「。」や胡麻「、」を目障りに思うか、また、ないと、だらしなく思えて許せないと思うか、かなり個人の好みの領域でもあります。

ここで、海亀もどきである私は大きくため息をつくのです。

ちょっと話は変わりますが、海亀スープは大変美味しいが、高価なものだそうです。それを牛の頭など用いて、その味を出したのが偽海がめスープまたは海亀もどきスープ(海亀もどきの方が響がよさそうなのでこちらを使いますが)なのだそうですが、私はどちらも食べたことはありません。すっぽんは何度か食べましたが・・・・この海亀もどきスープからスープを差し引いて、キャロルが生み出したのが私、海亀もどきなのですが、見かけは海亀、出は牛で、心情的には限りなく、海亀に近いのですが、言葉は牛で、体にも一部、牛の痕跡を残すといった、きわめてアイデンティティがあやふやなのが私、海亀もどきなのです。

さて、句読点は、実はその裏には大変な問題が横たわっていて、そのことに比べると、句読点は豆粒、胡麻粒ほどのささやかな問題かもしれません。
それは何かと言えば、「詩とは何か」ということです。キャロルが51歳の時に出した詩集はRhyme? and Reason? 「韻?そして理?」という題がついていますが、まさに、この問題に触れることになります。

翻訳するというのは、外国の国の文化(海亀)をこちらの国の文化(牛)に移すかというかとですが、それを行うのは我々、海亀もどきだということです。

美味しい海亀スープ(原詩)を素材を変えて海亀もどきスープ(訳詩)として提供せざるを得ない海亀もどきにとってはため息が出るばかりです。

先ず、美味しい海亀スープ(原詩)の味を知らなければなりません。ああ!

キャロルの思いがけない句読点
『不思議の国のアリス』も『鏡の国のアリス』も初版の中表紙は次のように句読点が打たれている。いかにもキャロルらしい。
            ALICE'S
    ADVENTURES IN WONDERLAND.

   THROUGH THE LOOKING-GLASS,
     AND WHAT ALICE FOUND THERE..

初版以降、キャロル生前中の半はこのようになっているのではないかと思う。句読点が省略されるようになったのは
いつごろからであろうか?こんなことの検証をやれる人は木下信一さん以外にいないと思うが、やるだけの価値があるかどうか?
(The Lewis Carroll Handbook Ed. by S. H. Williams and F. Madan (Revised by R. L. Green) Further Revised by D. Church  1970 参照)


05・3・20(13・7・16補)

海亀もどきのため息(2) −Rhyme? and Reason? 



*1 日本の詩人の句読点
(これは大雑把な分類で、同じ詩人でも例外はたくさんあります。又、詩人の選択も恣意的です。あなたの好きな詩人が漏れているかもしれません。)
句読点なし 島崎藤村、室生犀星、佐藤春夫、宮沢賢治、中勘助、河井酔名、山村暮鳥、野口雨情、日夏耿之介、三好達治、西脇順三郎、まどみちお、石垣りん、白石かづ枝、寺山修司、大岡信、谷川俊太郎、田村隆一、茨木のり子、飯島耕二、和田英子、・・・
句読点あり 三木露風、北原白秋、西条八十、萩原朔太郎、草野心平、金子光晴 金子いすゞ・・・

*2 中国詩の翻訳
もともと句読点のない中国の詩の訳は、句読点をつけないのが普通ですが、岩波文庫の「中国名詞選」松枝茂夫編は句読点をつけ、見識?を示しています。私は組みしたくありませんが、あと、50年もすれば、漢詩の訳に句読点がつくような予感がします。我々は西洋合理主義にやがて屈すると見るからです。

(境武男「詩経全釈」汲古書院1984年は詩経に多いオノマトペをカタカナで表したユニークな本ですが、読み下し訳文にはこまめに句読点をつけてあります。原文は縦に連続して書かれるのか普通であるので、それに句読点を振るのは理に叶っていると思いますが、原文も読み下し訳文も分かち書き、改行もなされているのだから原文にない句読点は果たして必要だったでしょうか? 05・3・21追記)

上記は句読点についての雑駁な考察です。既に深く研究されておられる方がおられることでしょう。ご叱正をお願いします。


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