「不思議の国より不思議な国のアリス」
アリスのアイデンティティ(4)狂気 
Alice, Are you mad ?

アイデンティティの第二層目、蜜柑の中身は記憶だと述べましたが、それがどんなものか見てみたいと思います。

普通、心理学などで言われるのは、心は、意識されている部分と無意識の部分あり、それに対応するように自我(ego)と自己(self)があると言われています。自分だと思っている自我は、本当は自分の知らないもの(無意識)を含む自己の一部だというのです。そして、この無意識の中身を追求したのが精神分析や深層心理学で、その中には色んなものが住んでいるとされます。C.G.ユングによれば、アニマ、アニムス、老賢人、グレート・マザーなど、交流分析では子供、大人、親です。

アリスはもう一人のアリスを呼び出して必死にバランスを取ろうとしていますが、人により、まれには、ジギルとハイドのように全く別人格が同居し、交代で出てくるケースもあります。この場合は自我が2つあることになります。
例えば、家庭回覧雑誌「牧師館の雨傘」の冒頭のキャロルの描いた挿絵を見て欲しいのですが、このような複合したイメージがキャロルの無意識なのです。

自分というものが上手く統合されないため、自分が困る場合と、自分は困らないが人が困る場合があります。困る場合は神経症や精神病と言われ病気扱いされます。最近はその呼び方が変化していて素人の私たちにはわかりにくくなっています。例えば総合失調症(精神分裂)認知症(痴呆)解離性同一性障害(多重人格)・・・( )は古い言い方。

昨日の私と今の私は果たして同じものか?(連続性) 姿、形が違っても同じものなのか?(同一性) それは一つのものなのか?(単一性) 「アリスの物語」はこのいずれも扱っており、童話にしては大変珍しいといえると思います。この童話を楽しむには、自我の目覚めが必要です。

そのため、幼児のためのアリスNursery Aliceからは、この「お前は誰か?」という問題をキャロル自身が省いています。

アリスは、体は飴のように伸ばされたり縮められたりされ、記憶も危機にさらされながら、金太郎飴のようにどこかアリスを温存し、かろうじてアリスという意識を持ち続けます。

外側が変わると中身も変わり、中身が変わると外(皮)の方も普通は変わることが多いものです。「ハウルの動く城」のソフィーは顔かたちがすっかり変わりますが、テニエルの描くアリスもデズニーのアリスもサイズは変わってもほとんど姿かたちが変わらない金髪の目のくりくりした可愛い少女です。アリスという1個の統一された正常なアイデンティティを保証して、見るものに安心を与えています。

キャロルが「不思議の国のアリス」を書いた時に関心のあったのは、心が統一されたまとまりをもって正常に動いているか、何が正気で何が狂気なのかという問題でした。正常なアイデェンティティというものがそもそもあるのか?正気と狂気は区別できるのかと言う問題になります。

(もう一つこれに絡む問題は何が夢で何が現実かという問題ですがこれは第3層目の問題として後に触れることにします。1856年2月9日参照)

平倫子先生の最近の論文「19世紀英国の近代化と狂気―ルイス・キャロルの身体文化論」(北星学園大学部文学部北星論集42巻2号(2005年3月)は彼が「不思議の国のアリス」を出版するとき書き加えた、6章豚と胡椒と7章ときちがいお茶会の章に、どうして狂気が密接に結びついているのかを追求した興味深い論文です。
当時の精神病院などの状況と描き出すと共に、キャロルが写真で縁のある叔父のスケフィングトン、医学生で友人のサゥジーとともに何度か精神病院を訪れ、狂気への関心を示したことを述べておられます。

もし、アリスの物語をアイデンティティの確立の物語とすれば、これらの狂気からの独立でなければなりません。

アリスのことに入る前に、周りのキャラクターを見てみましょう。

この物語で。アリス以外にまともなキャラクターがいるでしょか?

白兎、ネズミ、ドードー、トカゲのビル、公爵夫人、チェシャ猫、キチガイ帽子屋・・・まともなキャラクターがいたら教えて欲しいのですが、皆一風変わっています。アリスの物語はノンセンスの愉快な話の連続ですが、見方を変えれば気違いばかり出てくる物語で、そのことはチシャ猫が指摘しています。
しかも、皆、自分のアイデンティティに疑念をもっていないようです。ちょっと意識朦朧気味のドーマウスなどいますが、皆、それなりに安定していて、彼らにはアイデンティティの危機はありません。しかもアリスよりも上位に立っているのが大半です。

正常とは何かと言うことはきわめて相対的なものであることは、歴史を見ても現在回りを見てもすぐ気付くことです。チョンマゲを結っているのが当たり前の時はチョンマゲが正常、髪を赤く染めることがはやれば赤い髪が正常なのです。キリストを信じるのが普及するとそれ以外は異端・・・という風にその時代、その地域の社会的コードに合致しておれば正常、外れておれば異常、狂気というわけです。

そしてそれを社会がどの程度許容するかも、時代、場所により異なりますが、私は、キャロルが、笑い内に、この許容される狂気の幅を限りなく広げる事にしたことは大変大きな功績だと思っています。これは、英国の伝統でもあり、チェシャ猫の笑いでも触れましたが・・・

学生の頃習ったことなので今の学問の世界でどういっているのか知りませんが、自分がどこかおかしいと思うのはノイローゼで、自分がおかしいのにそう思わない人は精神病だと聞かされましたが、この基準でいうとアリスは精神病ではありません。

これをアリスのアイデンティティといってよいか分かりませんが、変な人を相手に渡り合いながら生きていくところにアリスのアリスらしいところがあると思うのです。

このようなナンセンスな人に取り囲まれながら何とか無事に不思議の国でやりおおせたかと言えば、学寮長の娘アリスの持っているコモンセンス無垢の裸のアリスなのです。

狂気か正気か分からない者に取り囲まれ、しかも、自分も狂気か正気か分からないアリス(私それともあなた?)が何とかやっていく姿、そこにアドネンチャーの主体としてのアリスが浮かび上がり、私は感動を覚えます。

こんなことを教えてくれるのも「不思議の国のアリス」であり、かの大英帝国を築き上げられたヴィクトリア女王も楽しまれたのですから、日本のキャロル・ファンももっと大胆に狂気を楽しまれていいのかもしれません。

[ お断り: 私の一連のアイデンティティ論は厳密な議論が出来ていません。それは自分、自我、自己、心、意識、記憶・・・と言ったものの定義を十分せずに進めているからです。しかしそれらを定義することはおそらく出来ないのではないかと思います。 さらに人格、性格といったものとアイデンティティの差異も触れておりません。「私は誰か?」という問いは、「答えのない謎々」ではなく、答えはあるのですが、言葉では言えない類の謎々ではないかと思うのです。青虫の態度にも表れているように思います。 ]

05・4・11

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