不思議の国より不思議な国のアリス   
退屈学と好奇心学

退屈学入門

アリスの物語が退屈から始まったことは既に述べましたが、少し後に出てくる、例の長い尾話の猛犬フェリーも、ネズミを捕まえて無理やり裁判する理由として、今朝は、何にもすることないのでFor really this morning I’ve nothing to do.と言っており、退屈しのぎに、事を起こしています。

あののんびり者の熊のプーさんもやはり退屈し、2作目の「プー横丁にたった家」The House at Pooh Cornerはでこんな風に始まります。
「ある日、何もすることがないから、何かしたいなと思いました。ビグレット(子豚)が何をしているか見てやろうとピグレットの家のほうに行きました。」
One day when pooh had nothing else to do, he would do something, so went
round to Piglet’s house to see what Piglet was doing.

元気な子供はすぐ退屈し、好奇心を発揮して探索行動を起こします。これが冒険の原型です。子供はそんな物語が大好きで、「プーさん」以外に沢山仲間がいます。例えば、4,5歳の子が好きな「おサルのジョージ」Adventures of Cuious Ceorge by Margret & H.A.Rey、もう少し年長向けの「熊のパディントン」A Bear Called Paddtngton byMichael Bond  Peggy Fortnum・・・

退屈、好奇心、冒険と?がる物語は大人も好きで、古今の名作の同じ構造をもつものが多くあり、「千夜一夜物語」もこの一例ですね。
この退屈というものが物語の中だけではなく、人生の中に意外と大きな役割をしていると皆さんも思われませんか?

 このように物事の発端となる退屈ですから、退屈学というものが存在していてもおかしくないと思い、少し探してみましたが意外とありません。
行き当たりましたものに、小谷野敦著「退屈論」(弘文堂2002年)があります。

この著者は、退屈の重要性に目覚め、退屈学を始めようと随分広範囲な分野に足を伸ばしておられます。文学は当然として、人類学、文化人類学、宗教学、哲学、精神医学、霊長類学などです。新進気鋭の学者らしく、守備範囲の広さに目を見張ります。
  退屈論からホイジンガやカイヨワの 祭儀論・遊戯論へ赴くのは自然の成り行きだと思いますが、森田療法への目配りはさすがだと思いました。ヒトに発情期がなくなったことの理由として、退屈を紛らわす遊びとしてのセックスの普及をあげておられ、文化の基底として退屈を捉え、唯退屈論を構築しようというものです。「大勢の子供を生んで育てるというのは、優れた「人生への退屈」を回避するシステムだったのではないか。」(同著P16)など興味深い話題が散りばめられていて、ご関心のある方はご一読ください。

ただ、私には同著は「退屈」そのものの掘り下げが食い足りない気がしました。

なぜ退屈が生れるのかについて著者は次のように言っておられます。「私は、脳が発達し、知能が高くなると、動物は「退屈」を知るようになるのではないかと考えているのだ。これは恐らく、進化というメカニズムが予測していなかった事態に違いない」(同書p116)また、別の所で、「脳が大脳化することによって、ヒトは他の動物に見られないような知的な活動ができるようになったが、その代償として「退屈」を覚えるようになった、というのが本稿の趣旨だった。」(P132)

話を食に例を取りますと、食文化、食談義、料理法などと盛んですが、これらのベースであるはずの空腹、食欲について余り論じられませんが、そのように、著者の場合、脳の胃袋が大きくなったので「退屈」と言う食欲が生れたという簡単な理由付けで終っているように思います。
私はこれに対して異をはさみませんが、もう少し掘り下げられないものかなあと思うわけです。そもそも退屈とは何かということから考えねばなりません

同著で知ったハイデッガーの退屈論は面白いものです。私が読んだのはハイデッガーの著書ではなく、同著が紹介している川原栄峰著「ハイデッガーの「退屈」説」(実存思想論集W 実存と時間 実存思想協会編)です。これは、ハイデッガーの「退屈」に関する1929年の発言以降、30年以上にわたるハイデッガーの考えを追跡しているものです。退屈の様相と人間という存在に横たわる退屈を現象学的に掘り下げたものですが、実存哲学に親しんだ方以外はとっつきにくいと思いますし、主著「存在と時間」を読んだことのない私には、皆様に分りやすく紹介する力はありません。

ここでは、アリス学序説の著者らしく、素人談義を続けましょう。

「退屈」は何か?

新解さんによると「何もすることが無かったり、単調だったりして、いやになる」とあります。

退屈が人生の中で意味を持つと私が思い始めたのは小学校の頃です。私は小さいとき病弱でよく寝込みました。しかし、何日か寝ているとやがて良くなり、退屈し始めます。
逆に、退屈し始めるとそろそろ病気も治ったのだと思うようになりました。つまり、
何もすることがないと、退屈するというのは、ごく健康なことです。何もしなくても退屈しないのはどこか病んでいるのかも知れないことに気付きました。

何もすることがないから、何かをするというのが遊びの本質ですが、人間だけでなくあらゆる動物がやっていて、そのような姿を見て心が休まるのは、私たちの持っている健康な本性が自然に現れているからでしょう。

エネルギーが溜まり、適当な捌け口が見出せない状態が「退屈」という状態だと思います。適当なはけ口がないということは、持っている時間が真っ白で、構造化されていないとということです。また、全く単純な繰り返しは、真っ白に近いものです。

構造化というのは私が勝手に使っている言葉で、後に詳しく述べたいと思いますが、時間の進行に伴い変化する事象があるルールに乗っているということです。仕事、家事、育児や遊びはこれに当てはまります。

我々はこの構造化されない真っ白の時間を持ち、それがある程度のエネルギーを持っているとき処置に困るのです。だからその生きのいい時間を構造化するか、殺す必要があります。退屈しのぎに何かすることを暇つぶし、英語で時間を殺す(kill time)と言います。

退屈は時間と大いに関係するので、恐らく時間を意識しないレベルでは退屈も発生しないのではないこと思います。

「アリスの物語」には「時間」が多く出てきて大変面白く、これについては、また別の所で考えたいと思いますが、時間の構造化に関して帽子屋のことに触れておきます。
彼の時計はいつも6時を指しています。これはお茶の時間ですから、彼の時間はいつもそのように構造化されています。だから、彼には退屈というものはありません。彼はお茶を飲み続け、食器を洗う暇さえないのです。最後の裁判所の場面でも彼はカップを片手に持って登場します。どうしてこんな事になったかといえば、ハートの女王のコンサートでキラキラ星の唄を間違ってしまい、女王から、「彼は拍子を外した!(時間を壊した)首をちょん切れ!He’s murdering the time! Off with his head! 」と言われるのです。彼に言わすば、それ以来、「時間」は彼の言うことを聞かず、いつも6時というわけです。Murdering the timeは日本の翻訳者の多くがkill time,時間を殺すという意味に訳していますが、ガードナーは、mangling the song’s meter歌の拍子を壊すと注をつけています。私はキャロルは両方の意味を含めたのではないかと思います。狂人とは時間を殺したり、狂わしたりする人のことのようです。

鏡の国では子猫ケティーがアリスの毛糸の玉にじゃれ付いている所から始まっているのも象徴的です。状況からいって、アリスとて退屈し始めていることがよく分ります。鏡の中へ入ったらどうなるのかと遊び心が働きます。

構造化さていない時間があって、それにエネルギーが溜まると退屈という現象が起きるというのが私の考えですが、ちょっと表現が難しいですね。
アリスもそろそろ退屈して、あくびすることでしょう。私も一息つきましょう。


私の言う「構造化されていない時間」というのは「混沌とした時間」と言うことですが、それを「私」が退屈と思うのです。

この事象を直接上手く説明できないので、回り道をして「構造化された時間」についてお話しましょう。皆さんは、例えば、音楽、演劇、小説などは時間の経過に連れて適当な変化が起きて、時間が構造化されていると思うでしょう。プログラムにそって進むお祭りや運動会もその典型です。
時間が構造化されているという私の概念は大変広くて皆さんが驚かれることになると思うのですが、最初に結論を言ってしまえば、(1)終りがある。(2)変化がある。(3)予期しないものがある。これだけで良いのです。

「不思議の国のアリス」3章で、ドードー鳥が提唱したコーサスレースも、円の周りを適当に走るという単純なものですが、終りも明確で、構造化された時間なのです。浜辺で寝そべって波の音を一日中聞くというのは一見単調で構造化されていないようですが、そこには得も言えない変化があり、何時までもそうしているわけではありませんから、終りもあり、立派な「構造化された時間」なのです。そこにある変化が起きるような何かがあり、終りがあるのが構造化の最少条件ですが、それらが無いと「時間が構造化されていない」といいます。「私」たちは大変いやなのです。

ここに生れる「退屈」を何とかしようとします。勿論、自分でプログラムを作って、つまり、構造化して行けば良く、身近では、今日一日、何をするか計画を立てることも、あるいはライフワークのように自分の人生というタイムスパンを構造化することも出来ます。一番簡単な方法は構造化された時間に身を委ねることです。仕事は構造化されている時間ですから、仕事があればそれをすれば良い。遊びも多くは構造化が進んでいて、そこに飛び込めばよい。今の子供たちはゲームをすることによって簡単に自分の時間を構造化できます。音楽を聞く、テレビを見る、観劇をする・・・人間の営みのほとんどは構造化されています。
社会・文化的事象を「退屈の回避」ということで説明しようというのが唯退屈論で、小谷野先生の提唱しようとされているものです。私もそれに近い考えです。

退屈の回避の要求は大変強いものですから、古来、権力者はこれを利用しようとします。ローマ皇帝はローマ市民の退屈を回避するために大変意を用いたことはよく言われることで、今に残るコロッセウム、浴場の跡を見れば分ります。演劇は退屈の回避の典型ですが、劇場もしばしば為政者のコントロール下に置かれました。娯楽の場合は「退屈」に関係していることが分るのですが、祭礼はやや隠微な姿です。これも時間の構造化の典型で、祭り事は政で政治そのものです。祝祭日を国家が決めるというのも権力が時間の構造化に関与する例です。数千年前、政治というものが始まった頃、暦を作る事が為政者の大きな仕事でした。また、真面目な退屈回避が工夫されます。例えば、道路を作る、橋を懸ける、城を築く、戦争をする、ロケットを打ち上げる・・・このようなプロジェクトが一度起こされると、何年にもわたり、何万という人の時間は構造化され、退屈は吸収されます。どれだけ巧みに人々の退屈を吸収する仕掛けを作るかが権力者の腕であり、また、人が待望するものなのです。江戸時代の参勤交代も見事な時間の構造化であったと思います。歴史の中で感心するものに、ピラミッドや巨大な教会や寺院の建設があります。これらを創ることによって、何十年、何百年の間、何万何十万という人の時間を構造化し、退屈を吸収し続け、その裏に、王や教会の権力が温存されました。また、人々もこれを支持したのです。

最近はパーホーマンス化が進んだ政治がワイドショー政治、劇場政治などと言われますが、昔から、退屈を吸収するように巧みに時間を演出(構造化)することは政治の本質なのだと思います。
多くの職業は時間の構造化が進んでいますので、その中に身を置くことは退屈回避のよい方法ですし、勤め人のリタイヤ後も様々な退屈回避の仕掛けが用意されています。

「構造化されていない時間」とはこれらが一切無い(have nothing to do)時間ですから、「私」たちは困るのです。なぜ困るかと言えば、「私」たちは何かするために生まれついている、いわばそのような「業」があるとしか、今の私には言いようがありません。
困るのは「私」ですから、「私」が形成されていないと困ることはありません。人間の場合、4,5歳くらいでしょうか?熊のプーさんも「私」が形成しているように思います。

「構造化していない時間」を前に、古来、2つの道があります。中国の例を取りましょう。
第一は何でもよいから何かする。これは孔子の選んだ道で、いわば世界の正道となっています。「さいころ遊びや碁・将棋というものがあるだろう。(あんな遊びでも)それをするのは、なにもしないよりましだ。」(論語,陽貨22 金谷治訳)もっともこのケースは、飽食して1日なのもしないでいる人間にたいして言っているので、退屈している人に向かって言っているのではありませんが。「小人間居して不善をなす。至らざることなし。」(大学)で何もしない事を嫌います。必ず不善をなすと言っているところが可笑しいですね。どんどん時間を構造化して、間(閑)居しない立場です。
これを読んでいるあなたも恐らくこの派に属すると思います。

第二は何もしない。つまり無為。老子の選んだ道で、徹底的に何もしない。退屈を感じるのなら、その感じている「私」を変化させて、まだ笑わぬ前の嬰児のようになる(老子二十章)ことだといっています。いわば「私」を消すのです。仏教にも同様の考えがあります。漱石の「去私即天」はどうでしょうか?
私があとがきで「何も書かないのが一番」といったのはこのことですが、私も第一のグループなのでしょう。

鏡の国7章に出てくる白の王様は、アリスが「道で誰にも会わなかった」`I see nobody on the road,' というと、「わしも、nobodyを見るようないい目を持ちたいもんだ」`I only wish _I_ had such eye ' the King remarked in afretful  tone.  `To be able to see Nobody!と羨みますが、nobodyを実体あるものの見てこれが面白いのです。もし、アリスが何もすることがない(I have nothing to do.)と言えば、彼は「nothingをすることが出来て羨ましい」と言うことでしょう。Nothingは混沌、無。Do nothingは無為、老子の理想でもあります。

第一の「何かをする」と言うのが私の「構造化された時間」を持つということですから、大変範囲が広く、これをここで詳しく述べることは出来ません。例えば、退屈が始まってからの後の話では、遊びではホイジンガ、カイヨワなど大著が沢山あります。小谷野先生の唯退屈論ではありませんが、驚くべき広範囲に及びます。

ただ、先の私の定義で(3)予期しないものがある、ということについて少し触れます。これは「構造化」とちょっと矛盾するようですが、例えは、パソコン・ゲームのようにゲームする側からすれば、予期しないことがあるから面白いのです。そのように構造化されています。波の音も繰り返しのようで予期しない変化、リズムの揺らぎがあります。あるパターンの100%同一のもの繰り返し(サインカーブのようなもの)は、つまり全く単調なものは変化とは言わず「構造化した時間」から私は除外しているのです。

退屈の本質、発生について、森田療法の「絶対安静臥褥」とか「完全無刺激実験」、精神病理学的に健常者で無いものの退屈を追究すれば何か出てくるかもしれません。

サル学では「退屈」をどう取り扱っているのでしょうか?

サルに退屈を感じる「私」があるかどうかで、こちらの方は大問題のようでが、最近読んだ水原洋城著「猿学漫才」(光文社:KAPPA SCIENCE)ほんの少し出てきます。
(ひとり猿になった猿に)

学者:退屈はせんか。

猿 :これは近ごろ異なことを承るなあ。わしらはもともと退屈に強いねん。

(関西弁の漫才仕立てのこの本は、サル学が好きで関西弁を解する方にご一読をお進めします。とにかく面白い。)

われわれ退屈に弱い人間は「構造化されていない時間」と「エネルギー」があると「私」がなぜか困ります。なぜかについては先に述べたように、「私」は何かするために生まれついている、いわばそのような「業」があるとしか言いようがありません。そして「  」の中のことはどれをとってみても、気の遠くなるような学問分野が広がっているようです。この素人のアリス学ではせいぜい「アリスの物語」の周辺で遊ぶことにします。

予期せぬものがあるという点では、わが「アリスの物語」は群を抜いています。

キャロルが何故、こんな話をアリスたちにしたかといえば、それは、アリスたちの退屈をいかに吸収するかあったと思うのです。

(続く。 好奇心学へ)

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