「不思議の国より不思議な国のアリス」      
アリスのお姉さん Alice's sister

『不思議の国のアリス』には初めと終わりにアリスのお姉さんが出てきます。なんとなくやさしそうな感じがするお姉さんで、この物語の額縁のような役割を果たしています。特に、終わりの所は

「・・・話し終わると、お姉さんはアリスの頬にキッスして、「変わった夢だったのね。ほんとに。さあ、早く走っていってお茶になさい。遅れてしまうわよ」と言いました。それで、アリスは起き上がって、走っていきました。なんて素晴しい夢を見たんだろう思いながら・・・」

これで、物語が終っているとごく自然な終り方ですし、私ならここで筆を擱いたところです。

デスニーのアニメでもそうですが、すらりとしたやさしいお姉さんが物語の最初と最後にいてくれて、アリスはどれだけ安心できたことでしょう。ウサギ穴に落ちて以来、アリスはずっと孤独で、緊張のうちにアドベンチャーを続けますが、ここでアリスはその孤独から開放され、家族の居るお茶が待っていることを知らされます。これでアリスと行動を共にしてきた読者もほっとするわけです。このお姉さんさんが、「不思議の国」と現実の日常世界へつなぎとめる大きな役割を果たすだけでなく、その両方を輝かしいものにする力をもっているのです。

通常の読者、アリスの衣装を着て楽しんだり、フィギャーを集めている世界は、このお姉さんさんによって守られているといっていいでしょう。お姉さんのお陰で、アリスは、そして私達も、伸び伸びできたともいえます。

ところが、話はさらに1ページ以上続きます。子供の読者には、不要と思われ、少し複雑なのですが、こんなことが書かれています。

@お姉さんは夕日を見ながらアリスやアリスの不思議な冒険のこと考える。
Aお姉さんは夢を見る。

 A−1  自分に甘えるアリスのこと。
 A−2  アリスの見た夢に出てきた登場人物とシーン。
 A−3   目を開ければ現実に帰ることを意識している。
 A−4  その現実とは日常の変わり映えのしない世界が次々出てくる。

Bお姉さんはこれからアリスはどうなっていくだろうかと考える。

 B−1  大人になっても子供時代の純で(simple)やさしい心をすっと持ち続けているだろう。
 B−2  子供達に面白い話をしてやっているだろう。不思議の国の話もしているだろ。
 B−3   子供達の純な(simple)悲しみ、喜びを共にしながら、自分の子供時代、楽しかった夏の日を思い出すだろう。

わずかな行数の中に盛り沢山なことが書かれています。これは、物語を書き終えたキャロルが物思いにふけっている内容を表していると見るのが自然です。お姉さんを私(キャロル)と置き換えればよく分ります。@の部分ではキャロルがアリスと共に描いた物語を定着させて、その中のアリスをAでいつまでも維持して欲しいというキャロルの願望を表しています。この部分は普通なら「あとがき」として書かれるのが普通ですが、キャロルは地続きに書いているのです。急に子供の本らしくなくなっています。

このことは『地下の国のアリス』にもっと素直な形で出ています。

まず、太い二重線が置かれ、ここからは本文ではないことが示されます。
A.お姉さんは夕日を見ながらアリスやアリスの不思議な冒険のこと考える。
B.お姉さんは夢を見る。

 B−1  町の傍に、蛇行する川が平野をゆっくり流れる
 ゆっくりと漕ぎ上る舟、舟の中には陽気な子供達がいて
 その話し声や笑い声が音楽のよう響く。
 B−2  その中にアリスがいて、お話を眼を輝かせて聞いている
 その中身はさっきの話
 B−3   明るい夏の日差しの下をゆっくりと進む。
 子供達の話し声や笑いが音楽のように聞こえる。
 B−4  舟はある曲がり角でふと消える。

C.お姉さんはこれからアリスはどうなっていくだろうかと考える。(まるで夢の中で夢を見ているように)

 C−1  大人になっても子供時代の純で(simple)やさしい心をすっと持ち続けているだろう。
 C−2  子供達に面白い話をしてやっているだろう。不思議の国の話もしているだろ。
 C−3   子供達の純な(simple)悲しみ、喜びを共にしながら、自分の子供時代、楽しかった夏の日を思い出すだろう。

Bの部分が大きく書き換えられたことがわかります。この部分は『不思議の国のアリス』の巻頭の詩に吸い上げられているからです。つまり、この物語が最初に語られた7月4日の黄金の昼下がりは、さらに輝きを増し、詩へと昇華したことになります。

では、どうしてキャロルは自分自身のことをお姉さんとして登場させたのでしょうか?この世の男女関係を持ち込みたくなかったと言えます。つまり、「性に目覚める前」の、根源的状態にキャロルは関心があってので、「性に目覚めた後」の、男と女のレベルで考える以前のシンプルな状態こそ、いつまでも保持して欲しいものだったのだと思います。これが、キャロルがお姉さんの姿で登場する理由ではないかと私は考えます。 キャロル(おじさん)とアリス(少女)の異性関係として表現しては不具合なのです。*1
ところが、「不思議の国のアリス」に、あるいは、キャロルの中に性的なものを何とかかぎだそうとするのが、後世の大方の解釈だったのではないでしょうか。ある意味で、デスニー的アリスの愛好家と、性的、精神分析的、シュールリアリズム的アリス解釈の間には大きな隔たりがあるように思います。アリスを面白いと思った子が、例えば、高橋康也編「アリスの絵本」:*2を手にしたとして、難しい、舌足らずの、理解不能な詩や文章や詩や絵に出合ったらおそらく戸惑うことでしょう。
キャロルはお姉さんとて登場して、男女の世界に持ち込むのを避けているのに、後世の人が、自分の性的幻想を展開するよすがをこの作品に求めているのはある意味で滑稽な気がします。
もちろん、パロディはキャロルの得意とするところですから、後の読者がアリスをデフォルメして、なにやらおどろおどろしいものを作り出したとして、その一半はキャロルに責任があるとも言えます。何しろこの物語はデフォルメの宝庫でもあるのですから。

アリスーキャロルの関係はどんなものであったかが、キャロル論の最大のテーマなので、ここで、論じつくすことはできませんが、その関係は異性の親子の関係に近いのではないかと思います。
このような状態を大変上手に描いているのは、森茉莉の「私の中のアリスの世界」*3です。これによると森茉莉は、彼女を溺愛した父鴎外との関係で、また息子との関係で見出したものがその関係なのです。その文の結びの一部を紹介しますと、「息子といふものは無意識の中に遥か遠い、目に見えない、自分の生まれた世界へ、再び還りたい希ふような気持ちを(それは現実の世界のエロティシスムとは全く異質である)抱くものではないかと思っている。(中略) この父親と私、息子と私との柔(やさ)しい世界が、私の中での「アリスの世界」である。私はこれ二つ以上の恋愛が信じられない。」特に最後の「恋愛」という強烈な言葉を使っていますが、本人も言っているように、現実の世界のエロティシスムとは全く異質であります。
一方、塚本那雄が同じ本に寄せた文に次のように書いています。
「『不思議の国のアリス』を女流作家の手になった童話と信じて疑はない読者もかなりいるという話も、聞くが、この錯覚は必ずしも錯覚や軽率を意味しない。残酷な直感であり真相を鋭く抉ってゐると言へよう。作中人物アリスは彼の熱愛する現実のアリス・ディデルもしくはエレン・テリーであったかも知れないが、同時にそれ以上に彼自身であり、彼の少女嗜好は結果的な一現象で実は徹底した自己恋着症、これも彼キャロルの内なる女性との同性愛ではなかったろうか。」
少しおかしなところもありますが、さすが、この歌人の直感に愕きま。私もこのことを「プロスペローとしてのキャロル」で触れていますが、ユング流の考え方なのです。男にとってはアニマ、女にとってはアニムスが根底のあるとしたら、キャロルにとって、いつまでも保持したいのは自分の中の少女性ということになります。森茉莉が言っている世界もこの世界だと思いす。極言すれば自己愛ということになります。

男女のエロシズムが価値の低いものといっているわけではありません。キャロルの思いはその種のものではなく、その世界に入る以前の世界、キャロルが繰り替えし、シンプルという言葉を使っていますが、そんな原初の世界に留めて置きたいと願いが、キャロルがお姉さんとして登場している理由ではないかと思います。だから、子供も大人も安心して楽しめるのだと思います。

06・7・4  目次


*1 『鏡の国』ではお姉さんがでてきません。物語の構造が違っているのです。キャロルは白の騎士として登場していると言われますが、性的色合いは薄く、あるとしても両者はお祖父さんー孫娘ほどの関係です。

*2 『アリスの絵本』ドーマウス協会編 牧神社 1972
*3 前掲書