アリスとチェシャ猫の対話(46)

148 猫:
 二つのご質問がありますので、順番にお答えします。

<物質の次元でそれなりに完結しているのでしょうか>

 普通の科学者たちは、そう思っていると思います。けれども、私はそう思っていません。以前にお話ししたように、私は、脳は霊的世界からの意識の波動の受信機だと考えています。それは物質世界をパソコン上の仮想世界ゲームにたとえれば、自分のキャラクターを動かすための指示を与える入力窓口に相当する部分です。肉体に相当するキャラクターの側から言えば、指示をもらう入力ルーティンに相当します。

鳥でも人間でも、意識の世界は物質世界をはるかに越えて広がっています。意識の世界の方が本当の世界であり、物質世界はそのごく一部の特殊な領域なのです。

 世の中にはさまざまな超能力を持った人がいて、鳥や昆虫や植物の霊と話をしたりする人がいますが、そういう人の話を総合すると、鳥や小動物や植物になってくると、個体ごとの意識があまり発達していなくて、群や種などの集団としての意識が主な役割を果たしているようです。人間でも、ユングなどは集合無意識というようなことをいいましたが、集合の意識と個体の意識とのバランスが、人間と小動物では違うのかもしれません。

<エゴと自分という意識の違いは、言葉を定義しないと混乱するのでは・・・>

 まったくその通りです。心に関しては、エゴ、セルフ、ハイアーセルフ、パーソナリティ、魂、霊、心、意識などさまざまな言葉が氾濫しています。しかも、エゴもセルフも「自分」という言葉から来ています。けれども、言葉が混乱するのは理解が混乱しているからだともいえます。まだ、心や意識について、共通の言葉が使える段階に来ていないのです。

 私が、エゴと「自分という意識」が違うといったのは、次のような意味です。エゴというのは、これまでにお話したように、人間の心のサブシステムであって、特定の目的を達成するように作られた自動化装置の部分です。

 これに対し、私が「自分という意識」というのは、「これが私だ」と感じる部分、意識の主体を自覚する部分という意味です。この「自覚」という部分がなかったら、意識の問題は単に精神世界におけるさまざまな機能の働き方の問題に過ぎなくなります。自分で「自分という自覚」を持つところが意識の問題の中心なのだと、私は考えています。

この自覚を私は、スポットライトのようなものだと考えています。このスポットライトは、焦点を絞って非常に狭い領域だけを照らすこともできれば、逆に広い範囲を照らすように光をひろげることもできます。そして、このスポットライトが照らしている部分を、私たちは「自分だ!」と感じるのです。

 たとえば、スポットライトがエゴを照らしていれば、エゴが自分であると感じます。セルフを照らせばセルフを自分だと感じます。両方を照らせば、エゴもセルフも自分だと感じます。いま、人間の意識は非常に狭い領域に絞られています。そのために、意識の大部分が潜在意識になっていて、自覚されていないのです。

 この「自分という意識」は、「自分だ」と感じる以外には、何の働きもしません。いろいろな働きをするのは照らされた部分です。そして、人間が霊性を取戻すというのは、いまエゴやその近辺の狭い領域に集中している私たちのスポットライトを、ぐっと広げて、意識の中のすべてを照らすようにすることだと、私は考えています。

 

149 アリス: 最初の方のお答え分かりました。この先、私自身もう少し考えてみたいと思います。人間と動物と植物にどんな差があるのか分かりません。差があると言う人が多いようですが・・・

後の方ですが、スポットライトの喩は面白いですね。

<この「自分という意識」は、「自分だ」と感じる以外には、何の働きもしません。>ということですが、スポットライトの照らす範囲を調節するのも「自分という意識」ではないでしょうか?

ここでの「自分」は対話(12)http://www.alice-it.com/noguchi/alicecat12.html出てくる I am who I am.のIと同じものでしょうか?

また、照らす範囲を広げるという喩もよく分かりますが、具体的にその方法をお教えいただけないでしょうか

 

150 猫: <スポットライトの照らす範囲を調節するのも「自分という意識」ではないでしょうか?

おっしゃるとおり、スポットライトが照らす範囲を調節するのは「自分という意識」だと思います。

<ここでの「自分」は対話60

(ホームページでは対話(12)http://www.alice-it.com/noguchi/alicecat12.html

に出てくる I am who I am.のIと同じものでしょうか?>

 この問題はおもしろい問題だと思いますので、すこし丁寧に考えてみましょう。

 対話60 I am who I am という言葉が出てきますが、その直前(対話58)に、不思議の国のアリスが青虫に I am not myself といいます。この言葉には、「私は気が転倒している」という普通の意味と、「私と自分は違う」という別の意味がかけられているというお話しを対話58でしました。

 アリスが I と言っているのは、大きくなったり小さくなったりする肉体(とそれに付随する意識)で、いわば小さく絞られたスポットライトに照らされた領域です。これに対し myself というのは、いわばそのスポットライトを照らしている者、スポットライトを絞ったり広げたりして「自分」という意識の部分を調節している者といえます。けれども、このスポットライトに照らされた狭い領域を「自分」だと思い込むのは、スポットライトを照らしている者ですから、話がややこしくなりますね。

 別のたとえを一つ入れましょう。「熊のプーさん」の絵本を読んだ男の子が、自分はプーさんだと思い込んだとしましょう。この男の子に「君はだれ?」と聞くと、「プーさん」と答えます。けれども、男の子が熊になったわけではないことは、まわりの人には分かっています。いくら男の子が「自分は熊だ」と思い込んでも、人間が熊になるわけではないのです。この男の子に「プーさんってなに?」と聞くと「熊だよ」と答えます。「あなたは人間でしょ」といっても「熊は人間じゃないよ」と答えます。この「熊は人間じゃない」という答えが、アリスの I am not myself ではないでしょうか。

 I am who I am I は、「自分は何にでもなれる」といっているのですから、スポットライトを照らす者、すなわち「自分という意識」であるといえます。けれども、この「自分という意識」がスポットライトを狭く絞って、その領域を「自分だ」と思い込んだ瞬間から話がこんがらかってきます。狭い領域を自分だと思った瞬間に、スポットライトをコントロールする力を失ってしまうからです。

 「長靴をはいた猫」の物語ではなかったかと思いますが、猫が悪い大男につかまって殺されそうになったとき、猫は大男にこういいます。「大男さん、あなたは何にでも化ける力があるそうですね。私が死ぬ前に、ちょっとだけその力を見せてくれませんか」。すると、大男は得意になって、ライオンに化けてみせます。猫はまた言います。「象に化けられるかな」。「何でもできるさ」と大男は、象に化けて見せます。「でも、もともとからだが大きいんだから、ねずみに化けるのはむりだろうなあ」と猫が言います。大男は「なあに、ねずみなんてわけないさ」といってねずみに化けます。とたんに猫は飛びかかって、ひと口で大男を食べてしまいます。

 人間の「自分という意識」は、この物語の大男のようなものです。物質世界の肉体という非常に限定された存在に化けるところまではうまくいったのですが、元の世界へ戻る力を失って苦労しているのだと、私は考えています。

<また、照らす範囲を広げるという喩もよく分かりますが、具体的にその方法をお教えいただけないでしょうか。>

 そこで、スポットライトを広げる方法はなにか、という問題になります。これは、いずれは深く取り上げなければならない問題ですが、ここではごく一般的な話をとりあえずしておきます。

 その方法は、これまでさまざまな宗教が独自の方法をつくりだしてきました。仏教系、キリスト教系、ヨガ系などさまざまな方法があります。アリスさんが最近お受けになった禅宗の接心というようなものもその一つだと思います。

 それらは、ひとことで言えば、人間が持っている潜在意識の中身を根底から変えるための手段です。変えるというためには、持っている観念を捨てるというのと、新しい観念を入れるというのとふたつありますが、持っているものを捨てる方が格段に難しいのです。新しい観念を入れるほうはそれほど難しくないし、また、そんなにたくさんの観念を入れる必要はありません。それは、仏教で言えば、南無阿弥陀仏の六字だけでよいといわれるくらいです。けれども、いくら念仏を唱えても、潜在意識に入っている観念を捨てることができていなかったら、その効果は非常に制約されたものになります。これが、人間が何度も生まれかわって来る理由なのです。

 

151アリス:I am who I amのところ、丁寧に説明してくださったので、よく分かりました。このところで、昨年亡くなった猫「アビ」のことを思い出しました。15年くらい家で飼われていて、猫を見たことがありません。「アビ」は自分が猫だということを知らずに死んだのではないかと家人と話しあったことでした。

I am who I am Iは、「自分は何にでもなれる」といっているのですから、スポットライトを照らす者、すなわち「自分という意識」であるといえます。けれども、この「自分という意識」がスポットライトを狭く絞って、その領域を「自分だ」と思い込んだ瞬間から話がこんがらかってきます。狭い領域を自分だと思った瞬間に、スポットライトをコントロールする力を失ってしまうからです。>

これが、後段のスポットライトを広げるほう方法へと話題が移りますが、その前に、<潜在意識に入っている観念を捨てる>ことに絞ってお話いただけませんか?

私は長い間、潜在意識に入っている観念を捨てる方法は無いものかと思っていました。

丁度、現在、私の部屋が本やらなにやらガラクタで一杯のように、私の潜在意識も一杯ガラクタが詰まっていることは間違いがありません。惜しくて捨てられないし、また時にはガラクタが役に立つので、累積するのです。部屋もそうですが、潜在意識を掃除する方法があればどんなに良いかと思うことが度々です。

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