アリスとチェシャ猫との対話(45)             

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猫: ヘッセを高校時代にお読みになったとは、相当の文学少年ですね。

エゴの話に入る前に「正しい」という言葉について、私の感じることをお話しておきたいと思います。

 <猫さんは、ハートにより正しいものがわかり、そちらへ呼び戻したいのですね>

私が「呼び戻したい」のは事実ですが、ここで「正しい」という言葉を使うと、呼び戻しに応じない人たちは「間違っている」ということになります。けれども、私はそうは考えていません。

 私は観光バスのガイドです。「素晴らしい場所がありますよ」という宣伝はしますが、そこに行こうとしない人が間違っているとは思いません。安らぎと喜びの満ち溢れる国は退屈で、この世の切った張ったの世界のほうが楽しいという人は、この世で遊んでいていいのです。「すべては神に赦されている」というのはそういう意味です。

 先週の土曜日から蓼科に行ってきました。私の兄弟がみんなで蓼科に集まって、そこから予定では立山に行くことになっていたのですが、天気が悪かったので行先を変更して、上高地に行ってきました。あいにくの小雨の中にもかかわらず大勢の観光客が訪れていましたが、連れの一人がそれを見ていて「年寄りが多いわね」といいました。なるほど言われてみると、大半が少なくとも50歳は越えていると思われるような人たちで、本当の若者たちはあまり目に付きません。「若い人たちは、こんなところより、ディズニーランドやユニバーサルスタジオの方がいいんだろう」という話になったのですが、それと同じように、霊的世界に帰るより物質世界で遊んでいたいという人もいると思います。

 これは善悪や正否の問題ではなく、選択の問題です。けれども選択をするためには、両方について十分な情報がなくてはなりません。この世で物質世界の情報は山ほど手に入りますが、霊的世界についての情報は不十分であり、しかも誤解に基づく情報が多いというのが、私がバスガイドを買って出る理由です。

 さて、自由意志の問題はしばらく先送りして、エゴについてお話ししましょう。

 一般にエゴというのは自己中心的な悪の代名詞のように考えられていますが、私はそうは考えません。私は、エゴというのは、一言で言えば、仮想世界の中のキャラクターである肉体人間を維持するためにつくられた自動操縦装置である、と考えています。物質世界に肉体を持っている人間にとっては、エゴはなくてならないものなのです。

エゴというのは、私たちの意識の中のサブシステムであって、肉体つまり物質的存在としての人間を維持することを究極の目的とし、その肉体と精神の状態を自己中心的な意味で快適に保つように無意識的に働きます。ご承知のように、人間の肉体には、さまざまな自動生命維持システムが組み込まれており、私たちが意識していなくても、肉体の状態を快適に保つようにできていますが、エゴというのは、この自動システムの中の心を担当する部分なのです。

 アリスさんは、エゴが形成される過程とおっしゃいましたが、私はエゴのような高度の能力を持った意識のシステムが、何もないところから自然に形成されるとは思っていません。エゴとして働く基本的なシステムは、霊的存在である人間が、物質世界という仮想世界の中に、肉体というキャラクターを登場させようと考えたときに、意図的につくられたと思います。ただ、一つ一つのエゴがどのようなエゴに育っていくかということについては、そのエゴが肉体人間としてどのような人生を送ったかということによって大きく左右されます。

それは、人間の工学技術者が作る学習能力を持った知能システムに似ています。私が現役時代に人工知能の研究にかかわっていたことはご存知の通りですが、人工知能の中心は学習能力をもったソフトウェアです。まさにエゴというのはそのような学習システムであるというのが私の考えです。

145 アリス: エゴが自動操縦装置である。しかも、学習能力を持ったシステムであるという説はユニークですね。人間が物質世界に肉体を持つ時に組み込まれたというわけですか。動物の行動を説明するのに「本能」ということが言われますが、これと近いですか?

自分というものを意識し、エゴが形成されると感じるのは学習機能の所為なのでしょうか?

この自動操縦装置以外にパイロットがいるはずですが、大抵の人はエゴがパイロットであると考えているのではないかと思います。もう少しエゴのお話を聞かせてください。

146 猫: 自動操縦装置のほかにパイロットがいるのは事実ですが、そこへ行く前に、もう少しエゴの振る舞いを見ておきたいと思います。

 聖書に次のようなエピソードが語られています。

 あるとき、ユダヤ人の律法主義者たちが、イエスの弟子たちの中に食事の前に手を洗わない者がいるのを見とがめて、イエスに言いました。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従わず、けがれた手で食事をするのか」。ユダヤの律法では、食事の前に手を洗い清めなければならないことになっていたからです。

 するとイエスは答えました。「外から人の体に入るもので人をけがすことができるものは何もない。人の中から出てくるものが人をけがすのである」。そしてイエスは、その例として、みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別などをあげています。

これらは、エゴが生み出す悪の代表例と考えていいと思われますが、これを分類すると次の三つに分けることができます。

  物欲:   盗み、貪欲、詐欺、ねたみ

  性欲:   みだらな行い、姦淫、好色

  攻撃性:  殺意、悪意、悪口、傲慢、無分別

傲慢や無分別が攻撃性に入っているのは奇異に思われるかもしれませんが、これらは自分中心で、目的のためには手段を選ばないということで、大雑把にこのように分類してあります。

これらを眺めてみると、分類された項目のすべてが人間にとって必要なものであることがわかります。肉体を維持するためには、食料、住まい、衣類、道具など、さまざまなものが必要です。もし人間に物欲がなかったら、人間は原始の生活の中ですぐに飢え死にしてしまったでしょう。もし人間に性欲がなかったら、人類は種としてたちまち絶滅してしまいます。攻撃性というのは、障害物を排除して目的を達成しようとするチャレンジ精神です。もし、攻撃性がなかったら、狩で獲物を捕らえることもできず、幾多の困難を乗り越えて、畑に作物を作ったり、社会を形成したりすることもできません。

つまり、ここにならべられている悪というのは、本来は個人および種族としての人間を維持するためになくてはならない精神の働きなのです。それがなぜ悪と呼ばれるようになったかというと、それは人間が社会を形成するにつれて、環境が自然環境から社会環境に変ったからです。

たとえば、盗みという行為は、狩猟や採集といった原始経済の手法と同じ行為です。ただ、手付かずの自然の中で森の中から果物を取ってくるのと、隣の八百屋の店先から取ってくるのとは違います。つまり、社会が形成され、社会のルールというものが出来上がっていったときに、もともとの自然的な機能そのままではそのルールにぶつかってしまうということが起きているのです。つまり悪というのはエゴ同士のニアミスなのです。

そこで、エゴをコントロールする必要が出てきます。飛行機の自動操縦装置は、パイロットが操縦桿を動かせば自動的に自動操縦が解除されるようになっています。それと同じように、自動操縦装置であるエゴに対して、パイロットである高次の意識が適切に介入しなければならないのです。

高次の意識については、別に取り上げたいと思います。

また私は、自分という意識とエゴとは同じではないと考えていますが、これについても後まわしにしたいと思います。

ここで、本能とエゴの差異について触れておきます。

私たちがふつう動物の本能と呼んでいるものは、学習した結果を含む動物のエゴだと思います。

エゴは学習機能を持っているといいました。そのため、エゴがどのようなものに育ってくるかということは、そのエゴがどのような人生を体験してきたか、これまでにパイロットがどのように介入したかということによって変ってきます。

ところが、学習機能はまったくのゼロから学習をはじめることはできません。ある程度の基本的な識別機能や価値判断機能を持っていなければならないのです。

一例をあげれば、私の家に猫が二匹いますが、その育ち方を見ていると、彼らが生まれながらにいくつかの判断機能を持っているということが分かります。猫は「動くもの」に対して非常に敏感です。玄関を通るとき、前回通ったときと同じ位置にある履物には見向きもしませんが、ちょっと位置が変った履物には必ず用心しながら近づいていって匂いをかぎ、検査をしてから、通り過ぎていきます。猫たちは生まれながらに、「動かないものは安全であり、動くものは危険である可能性がある」ことを知っているように見えます。本当の本能とはこのようなものではないかと思います。これに対し、いつも見ている具体的なものの中で「これは多少位置が変っても危険ではない」というようなことを覚えていくのは学習であろうと思います。

つまり、本能というのは学習装置の中にあらかじめプリセットされた機能やデータであり、エゴというのは、それをもとにして状況に応じた対応を蓄積してきた結果であると思います。

147アリス: 猫の話が出たところで、私は、常々鳥たちの動きを見ていて感じていることなのですが、あの小さな体にどう考えてみても鳥に必要な自動操縦装置を積み込めるとは思えないいし、積み込んでいたとしてそれだけではやっていけないように感じます。つまり、その鳥以外の力を借りているとしか思えないのです。生き物はみなそうですが、不思議なことばかりです。物質という次元でそれなに完結しているのでしょうか?

それから、エゴと自分という意識と異なるということですが、少し言葉の定義をしないと混乱しそうに思うのですが・・・

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