アリスとチェシャ猫の対話(47)

152 猫:
 「<潜在意識に入っている観念を捨てる>ことに絞ってお話いただけませんか」とは、切実なご質問ですね。私も「開けごま」的な呪文を唱えるとパッと観念が消えてくれるような方法があれば、どんなにいいかと思います。もっとも「うっかり人間」のすることですから、消さなくてもよいものを消してしまって、逆の意味で苦労するかも知れませんね。

 さて、冗談はさておき、潜在意識の観念を消す方法というのは、まさに人間が霊性を取戻すためのただ一つの道であり、あらゆる宗教がそのための方法を開発してきました。ある意味では、潜在意識の観念を消す方法は無数にあるといってもよいと思います。逆にいえば、そんなにたくさんの方法があるということは、どれ一つとして、決定的にすべての人に効果のある方法というのはないということです。私自身もいろいろな方法を試して見ましたが、どれ一つとして容易なものはないし、相性もあるようです。あるひとに簡単にできることが別の人にはまったくできなかったりします。また解消したいものが、感情の記憶なのか、知的な観念なのか、感情と観念の結合したものなのか、といったことによっても、方法がわかれるような気がします。結局、自分でいろいろな方法の中から探すほかはないのではないかと考えています。

 これらの方法は、大きく分ければ、心理学的な方法と宗教的(特に密教的)な方法とがあるように思います。心理学的な方法とは、カウンセリング、夢分析、箱庭療法、催眠療法といったものです。宗教的な方法というのは、瞑想を基本としたもので、仏教の座禅はもちろん、カトリックの黙想、観想などという方法、私が習ったヨガ系統の瞑想など、これもさまざまなものがあります。

 これ以上の一般論は私にはできかねますし、もしできたとしたら、これだけで本が10冊書けるほどの内容になるでしょうから、一般論はここまでにして、私自身の体験を少しお話したいと思います。

 

 私は43歳のとき、TM Transcendental Meditation 超越瞑想)というのを習いました。TMでは、人間のこころ(TMでは神経系統といいますが)には、さまざまなストレス(これもTM用語です)がたまっているといいます。TMでは、ストレスは実際に体の変形として体の中にたまっていると教えます。TMをすることによって、このストレスが緩んで、やがて浮き上がってきて消えていきます。それは汚水に空気をぶくぶく吹き込んでやると、次第にふわふわしたカスのようなものが浮き上がってきて、水がきれいになっていくようなものです。ストレスが消えていくときには、瞑想中に突然昔の出来事を思い出したり、理由もなく強い感情を体験したりすることがあります。ひどいときは、頭痛や肩こりや下痢などの病的な症状が出ることもあります。このようなものをすべて一括して、TMでは「ストレス解消」と呼んでいます。

 私は、昔は、自分の過去を振り返ることが嫌いでした。それは、私が自分の過去を受け入れることができなかったためだと思います。私は「済んだことには興味はない。おれは未来しか見ないんだ」とかっこいいことを言って、絶対に過去を振り返ろうとしませんでした。それがTMをはじめて3年くらいしたころ、かなりひどいストレス解消の症状が出た時期がありますが、それを過ぎたあたりから、過去を振り返ることへの抵抗がなくなったのです。何が消えてなくなったのかわかりません。けれども、潜在意識の中の何かが消えてなくなったのだと思います。TMでは「消えていくストレスの中身に注意を払う必要はありません」といいます。「あなたたちは、大掃除をするときに、部屋の隅から出てきたごみをいちいち拾い上げて、これはあのときの紙くずだとか、これはだれそれの髪の毛だとか、調べますか。誰もそんなことはしないでしょう。こころのごみも同じです。」したがって、私の場合も、何が消えたのか、自分でもわかりません。けれども、私のこころに何かの変化があったのは確実です。

 二つ目は、心理学的なカウンセリングの話です。それは数人のグループでいっしょにやるものでしたが、たとえば、自分の親とか配偶者とか子供とか、そういう身近な人を象徴的な絵に描きます。それをみんなで見せ合って、それに対して感じたことをみんなが言い合うというような形で、自分の心の中を外に表現していきます。すると、自分でもまったく気がついていないものが現われてくることがあるのです。私はカウンセラーから「あなたはお母さんに対する怒りがありますね」と言われました。これは、私にとっては、まったく晴天の霹靂でした。私は母と難しい関係になったことは一度もなかったからです。けれども、人間のこころというのは微妙なものです。あまりにも良すぎる関係を続けることが、こころの裏側に怒りをため込む結果になることがあるということを、そのとき初めて知りました。それは晴天の霹靂でしたが、考えてみれば納得がいくものでした。そして、その隠された怒りのために、私のこころにはっきりとした症状が出ていたことにも気づくことができました。

 このように、いろいろな方法があり、それらが潜在意識の中身に少しずつ作用するように思います。あらゆるごみを一気に吐き出してしまうような万能薬はないのではないでしょうか。

 ただ自分で潜在意識に取組むことを自覚して何らかの方法を講じていこうとするのであれば、いくつかのモデルプランのようなものが考えられるように思います。次回は、そのようなことについてお話ししたいと思います。

 

153 アリス:猫さんの体験を具体的にお話くださいまして有難うございます。これは理屈ではなく体験の世界ですから、何としてもやってみなくては分りませんね。

 私は典型的な「うっかり人間」ですから、<消さなくてもよいものを消してしまって、逆の意味で苦労する>のを怖れます。ですから、本だけではなくパソコンのデータもたまる一方でそのくせ、必要な時に上手く取り出せません。

 今思っていることは、一度意識に取り込んだものは永久になくならないのではという気がしますが、一方、スープを作る時にアクを取ることができるのですから、意識の中のアクをとる方法もありそうな気もします。猫さんのお話の続きをお聞かせください。

 

154 猫: <一度意識に取り込んだものは永久になくならないのではという気がします>とおっしゃったので、ここでアカシャの記録について一言述べておきます。アカシャの記録というのは秘教的な教えの中で伝えられているもので、霊的世界のどこかに、すべての人間のすべての思考・感情・行動が詳細に記録されているというものです。その記録のことをアカシヤの記録といいます。それには、そのひとの現在の人生の記録だけでなく、過去世も未来世もすべてが書かれているといわれます。未来世が書かれているというのは、私たちの時間感覚からするとたいへん奇妙な感じがしますが、霊的世界においては時間というものが、私たちがふつうに感じている時間とはまったく異なっていることを示しています。未来が書かれていても未来が決定しているわけではなく、未来のあらゆる可能性が書かれているといった方がよいかもしれません。世の中には、アカシャの記録を読むことができるという人も時々いますが、このような人が必ずしも未来を確実に予言できるわけではないというのは、このような事情によるものと思います。私は、アカシャの記録は普通の潜在意識よりもっと深いところにあるものではないかと考えています。アカシャの記録についてはとりあえずこれだけにしておきます。また必要が生じたときに戻ってくることにしましょう。

 潜在意識に取組むために重要なことは、自分の周りの外界が自分の意識を映し出しているのだということに気づくことです。夢が自分の意識の反映であることは、多くの人が知っていると思います。夢の中に出てくる人物は、すべて自分の人格の一部分であるといわれます。たとえば、私は弟と喧嘩をした夢を見たことがありますが、それはわたしが実際に弟を憎んでいるということではなく、夢の中で「弟」がシンボリックにあらわしている自分の部分を拒否している、というわけです。夢の中では、弟と息子、妹と娘が一体化したような人物が現われることがあります。それは、自分を中心にして、自分より下位の男性性、下位の女性性というような役割によってシンボルが作られるため、シンボルの融合が起こるのだと思います。

 このように、夢は潜在意識の中を象徴的に表わすシンボリックな言語であると言われていますが、実は私たちの外界全部がシンボリックな言語なのです。私たちは外界を自分とは独立の客観的な存在であると考えていますが、外界はすべて自分の意識の反映なのです。そのことに気づくまでは、私たちはいつまでも外界に起こる出来事に振り回されつづけることでしょう。

 けれども、夢が自分の内面を映し出すと言われるのは理解しやすいと思いますが、外界が自分の潜在意識を映し出すというのはそれほど受け入れやすいことではありません。それは、外界には自分以外の人物がたくさんいて相互にからみあっているからです。

そこで一つの事例をお話ししたいと思います。

 二人の女性がいます。AさんとBさんにしましょう。二人は大の仲良しでしたが、あるとき、AさんのことをBさんが中傷するという出来事が起こりAさんはすっかり落ち込んでしまいました。Aさんは外界が自分の意識を反映するということは知っていましたが、どう考えても原因になるようなことが思いあたりません。そこで自分の指導霊に尋ねたところ、次のような答えが返ってきました。

 「あなた(Aさん)にこの出来事が起こったのは、あなたがあまりにうまく行き過ぎていて幸せな自分に対して、罪悪感を持っているからである。私はこんな幸せに値するようなことは何もしていない、という不安と恐れを持っている。だから、この事件があなたの人生に入り込んだのだ。

 といっても、あなたが彼女(Bさん)にこの事件を起こさせたわけではない。彼女はあなたの将棋の駒ではない。彼女には彼女の理由がある。彼女は他人を不当に中傷するというこの事件の『原因』であり、あなたはこの事件があなたに関して起こるということを『許した』のだ。」(『ラザリス』、山川紘矢・山川亜希子訳、新人物往来社)

 この話は、いろいろな人が絡んでひとつの事件が起こるからくりの一端を垣間見るのに役立つのではないでしょうか。

 

155 アリス:私は総て自分の意識の反映だという方が単純で分りがいいのですが <彼女は他人を不当に中傷するというこの事件の『原因』であり、あなたはこの事件があなたに関して起こるということを『許した』のだ。>となると、ちょっと複雑ですね。登場人物が二人でも大変ですが、多くなると収拾がつかなくなりませんか?

対話46へ   対話48へ  トップへ  Alice in Tokyo へ