アリスとチェシャ猫との対話(12)

58 猫: 前回の返事を送った後、アリスと青虫の対話を眺めていて、もう一つ言葉の遊びが隠されているのに気が付きました。それはアリスの I'm not myself. という言葉です。
 この言葉はふつうは「私はどうかしている。」「めちゃくちゃなの。」という意味ですが、ここでは I と myself が別の言葉であるということにひっかけて,  I と myself は違うものだといっているのです。日本語にするとこんな感じでしょうか。「私が私自身について説明するなんてできそうにないわ。だって私と私自身は違うんだもの。」
 つまりアリスのことば自体に、Who are you? という質問に対して「なんていったらいかわからない。私、どうかしてるんだもの。」という普通の意味と、「私と私自身は違う。」という別の意味が重ねられているのです。そのために myself がイタリックになっているのだと思います。
 
 私の意識モデルでいえば、アリスがいう「私」は、外界映写スクリーンに投影された映像です。「私」はスクリーンの中にいます。けれども、「私自身」というのはスクリーンの中にはいません。そのスクリーンを見ている意識の方です。先日の絵でいえば、矢印で示されている意識の働きが「私自身」です。「私自身」は、スクリーンの中で「私」が大きくなったり小さくなったりするのを見ています。そして「私が大きくなったり小さくなったりしている」という観念を持つことができます。けれども、「私自身」が大きくなったり小さくなったりするわけではありません。それは純粋の意識ですから、大きさも形もないのです。
 青虫はアリスの「私」を見ずに「私自身」を見ています。それで、アリスが you see. と同意を求めたときに I don't see. というのです。これも翻訳不可能なかけことばだと思います。

 さて、青虫が  Who are you? とたずねたときに、アリスは何と答えればよかったのでしょうか。それは次回にお答えします。

 

59 アリス;お答をお待ちします。

60 猫: 私がアリスだったら、青虫先生の質問に対してこう答えます。  I am who Iam.  この答えをきいたら、青虫先生はきっと大笑いして消えていったことでしょう。

 青虫に Who are you?  という質問をさせたとき、キャロルの頭には聖書の中のある有名な場面が思い浮かべられていたのではないかと思います。 それは、映画にもなりましたが、モーセが神に名前を聞いた場面です。
 聖書に詳しくない方のために、少し解説をしておきます。キリスト教の聖典である聖書は一冊の本ではなく、たくさんの本の集まりです。ちょうど仏教でお経といってもたくさんのお経があるのと同じです。聖書は大きく分けると、キリスト以前にあった聖典である旧約聖書( Old Testament )  と、キリスト以後の聖典、つまりキリストとその弟子達の言葉や行動の記録からなっている新約聖書( New Testament ) に分かれます。
 旧約聖書も新約聖書もその中がさらに細かく分かれています。旧約聖書ははじめの方から創世記( Genesis )、出エジプト記( Exodus )、レビ記( Leviticus )、などと名付けられています。創世記には有名な天地創造とアダムとイブの物語、ノアの箱舟の物語などが含まれています。そして二つ目の出エジプト記が、エジプトの奴隷になっていたイスラエル民族を故郷に連れて帰る英雄モーセの物語です。
 青年モーセは、あるとき山の中で神に出会い、「イスラエルの子らをエジプトから連れ出せ」という命を受けます。このときモーセは神に言います。「私が民の所に行って、神から使命を与えられたといっても、皆は私を信用せず、その神の名はなんと言うのか、と聞くでしょう。その時に私はなんと言ったらいいでしょうか。」 そのときの神の答えが  I am who I am. なのです。 原文は次のとおりです。
  Then Moses said to God, "Indeed, when I come to the children of Israeland say to them, 'The God of your fathers has sent me to you,' and they say to me , 'What is His name?' what shall I say to them?" And God said to Moses, "I AM WHO I AM." And He said , "Thus you shall say to the children of Israel, 'I AM has sent me to you.' "(New King James Version, Exodus 3:13-14)
 
 アリスの話に戻りましょう。
 アリスは大きくなったり小さくなったりしています。どれが本当の自分かわからなくなっています。そこでアリスに代わっていろいろな返事をしてみましょう。「私は大きな女の子です。」「私は小さな女の子です。」 すると、アリスがどんな返事をしてもその中に含まれている共通部分があることがわかります。それは「私は・・・です。」という部分です。それが私を私として認識する主体を表しています。
 「私」というのは「自分を自分として認識する主体」です。主体といっても何か物があって、それが認識するという働きをもっているわけではありません。むしろ「自分を自分として認識する働き」そのものが「私」であると言えるでしょう。それは決して客体にはなりません。大きくなったり小さくなったりしているのは、「認識された私」です。認識された私というのは観念に過ぎません。けれども、認識する私は永遠に認識する私であって、決して客体化されることなく、観念になることもありません。
 I am who I am. の最初の I am が認識する私を表し、あとの who I am が認識された私を示しています。「・・・」の部分に何を入れても「私は・・・です」という構文が変わらないように、認識された私、すなわち私に対する観念、が どんなに変わっても認識する私は変わることはありません。
 前回の話では I  はスクリーンの中にいるけれども、 myself はスクリーンの中にはいないといいました。 I が認識された私で myself が認識する私です。認識する私は実在ですが、認識された私は観念に過ぎません。認識する私を認識することはできません。したらそれはまた一つの観念になってしまいます。認識する私はただ存在するだけです。それが I AM WHO I AM. の、そしてその次の文章で神が自分の名前を "I AM" といっていることの意味するところだと私は考えています。

 

61 アリス:お答えありがとうございました。メールでの対話なので、直接、お声でお聞きできないのが残念です。
I AMを一つとして扱うのは、(I AM has sent me to youのところで)もとのヘブライ語が1語だからのでしょうか?それとも、2語に分かれているのをあえて主語に使ったのでしょうか?
いずれにしろ、猫さんのお話はわかりました。ありがとうございます。青虫の出現で理解が深まりました。
[お答えを待つ間、臨済録を読んでいました。(赤肉団上に一無位の真人あり。常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。・・・・)]
そこで、前に私が躓いた所へ戻りますが、
「観念が自分を束縛するというのは必ずしも悪いことではありません。それがあるから「自分」という個性が生まれるのです。それに基づいて、まったく個性的な人生を体験することができるのです。けれども、自分の個性を選ぶのは自分です。」これが分からないのです。
I AMで十全なものが、なぜ、個性をもたなければならないのか?「自分の個性を選ぶのは自分」というと、猫さんの使い分けで、Iとmyselfをあてはめると4通りの組み合わせが可能ですが、この辺をもう少しお話いただけませんか?

小さなことですが、私の手元の聖書(1611年、1885年版のParallel Bible)では 両方ともI AM THAT I AMとなっております。意味の差ないのでしょうけれど)


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