不思議の国より不思議な国のアリス  
5.1 章 不如意の海で In disappointment

不如意という言葉は最近あまり使われなくなりましたが、自分の意のままにならぬこと、自分の期待通りでないことを表す適当な言葉がないので、これを使います。あまり、章が進まない内に、ちょっとこれまで出てきた不如意なものを整理してみます。

1.オレンジ・マーマレードの瓶には中身が入っていない。

2.周りのドアはすべて鍵が掛かっている。

3.鍵が見つかるが、どのドアにも合わない。

4.カーテンの後にドアを見つけ、開けるが、小さ過ぎて出られない。

5.小さくなったアリスはそのドアから出ようとするが、テーブルに鍵を置いていて、開けることが出来ない。

6.大きくなったアリスはドアを開けるが、今度は通れない。

これは第一章ですが、不如意の連続ですね。このような出来事の不如意だけではありません。自分の体が意に反して伸びたり、縮んだりするのは大きな不如意といわなければなりません。人ごとだと笑って済ませますが、自分の身に起きたらパニックになります。

それだけではありません。不如意の最たるものは、人から愛されないことです。

先ず、これまで出てきた白兎は穴に落ちたアリスに取り合ってくれません。二番目に出会ったネズミもアリスに無関心で、アリスの話で敵意さえ示します。「アリスの物語」の中のキャラクターは、ほんの僅かな例外を除いて、友好的ではありません。悪意に満ちているというわけではありませんが、キャラクターの関心とアリスの関心はずれるのです。友情とか愛情が育ちません。怒りっぽく、つっけんどんなキャラクターに取り囲まれているのが「アリスの物語」の世界です。

普通、子供の本は、勿論怖い人、意地悪な人も出てきますが、少なくとも一人や二人は心の通う友達、愛情をもってくれる御爺さんなど、誰か見方になってくれるキャラクターがいるのはないでしょうか?

要約しますと、@出来事、環境の不如意 A身体の不如意 B対人関係の不如意(キャラクターは人間以外も多いの対人関係はおかしいのですが、良い言葉か見当たりません)

「アリスの物語」は、実は不如意の塊のような物語なのです。

この不如意の問題は、それを感じている自分は何かと問いかけます。裏を返せばアイデンティティの問題となりますが、「アリスの物語」では、更に、直接、「私は誰なのか」をアリスは自分でも問い、芋虫やチシャ猫や他のキャラクターからも聞かれます。つまり、不如意の物語であり、アイデンティティを問う物語でもあります。

私は、つっけんどんなキャラクターに取り囲まれたアリスというBの特徴は、これだけ愛される児童文学の中では異常と言う他ないと私は思っています。

常々そう思っていたのですが、2002年秋の日本ルイス・キャロル協会の研究大会で、楠本君恵先生がこの問題を取り上げられ、私の関心も独りよがりのものではないと思いました。

さらに、このことを先生はMISCHNASCH No.6(日本ルイス・キャロル協会発行。2003・3・15) に説得力ある形で発表しておられます。先生の長年のキャロル研究の上に立ってのお説で、今後「不思議の国のアリス」を読み解く上で、大きな主張となることでしょう。

ヴィクトリア時代の階級差の中でのキャロルの煩悶を踏まえての、12ページにわたる周到な論述を、私はそれうまく要約、紹介する力はありませんが、幸い、この論文には英文のサマリーがついておりますので、このホームページの読者のために、その拙訳を先生のお許しを得て、掲げておきます。(英文サマリーの拙訳

私は楠本先生にお説に、かなりのところで共感を覚え、また、異論をはさむには、私は余りにも未熟ですが、「アリスの物語」を誤解、曲解、早とちりを恐れぬ「不思議の国より不思議な国のアリス」の著者として、今の考えを少し、書いておきます。(良く勉強すれば、先生のお説になるのかもしれませんが・・・)

「アリスの物語」は愛するアリスにキャロルの捧げた贈りもであった。そのメッセージは「果敢で、物怖じしない、心から笑いこけるアリスよ。永遠なれ!」「好奇心に満ちた、くりくりした目で、周りを見、相手に適当な間隔を取りながら近づき、不如意を乗り越えていくアリスよ!永遠なれ!」ではなかったかと思います。これが、社会のモラルに縛られ始め、やがて身体上にも変化が現れる頃なると、階級という社会の網に掬い取られるであろうアリスに、また、同年代の多くの子供たちへのキャロルのメッセージであったと思うのです。

不如意により、また、問いかけにより、アリスのアイデンティティは確かめられていくのですが、そのアイデンティティとは、社会的関係によって形成される類のアイデンティティではなく、永遠の少女、アリスという一種の理想的な像がアイデンティティであろうと私は思います。ちょっと難しい言葉を使えば、「アリス本来の面目」というわけですが、思春期に入る少し前の少女の持つ自由さ、しなやかさの典型をアリスに見出し、その美点を永遠に留めて欲しいと願って書いたのが、「アリスの物語」であり、キャロルが求めたものと思います。キャロルが少女を写真に留めたかったのも、これではではなかったかと思うのです。

アイデンティティと何かということを言い出すと大変難しい議論になりそうですが、平たく、「本当の自分と思っているもの」と考えれば、我々の最大の関心は、この「本当の自分は何か」ということで、それを知りたいために、実に、いろんなことを試みます。いわば、物心ついてから死ぬまで、これを知るために生きていると言えなくもありません。その時々、自分はこうだと思いながら生きていくわけですが、自分がこうだと思う中身が問題です。これが大きくぐらつきますと大変な思いをするわけです。人によっては気の狂う人もあります。また、逆にぐらつかせないと中身が分らないという性質のものですが、キャロルはアリスにたくさんのハードルを設けて、それを飛び越させます。

その結果はどうなるかの問題は「アリスの物語」の作品論の要になるところですから、軽々に結論を出さず、作品を終章まで読み続けましょう。

キャロルのアイデンティティの問題に一言触れておきます。

この時期、キャロルにアイデンティティ上の大きな揺らぎがあれば、これだけのキャラクターを自在に操ることが出来なかったのではないかと私は思っています。勿論、キャロルにとってもWho am I? の問いは最大の問題ですが、終身をかけての大問題で、この時期のキャロルとってどうだったか、いずれ、日記や手紙でゆっくりとトレースしてみたいと思います。

ここで写真を見てみましょう。これが、キャロルが愛したアリスです。こちらはキャロルがそうなって欲しくなかったアリスです。社会の枠組みに捉えられ、時の流れに身を任せてしまったアリスの、暗くて深い世界をキャロルは大変よく表現していると思います。

この18歳のアリスの陰鬱なポ―トレイトには大変強い印象を与えますが、実は、これはキャロルとアリスの共同幻想のような気がします。私はむしろ2年後にキャメロンが撮ったこの写真が、アリスに近いように思いうのですが、皆さんはいかがですか?

(写真は高橋康也「ヴィクトリア朝のアリスたち」新書館1988より引用)

この問題はこの次、アリスが青虫に出合ったところで、また、話題に載せます。


***

   楠本君恵先生
           『不思議の国のアリス』作品論――あなたはだれ?――    英文サマリーの拙訳
                         〔MISCHMASCH No.6日本ルイス・キャロル協会2003年3月15日発行 所載〕

『不思議の国のアリス』はユニークな作品である。というのは、この作品が児童文学の古典の中で、最も有名なものの一つであることに誰も異論をはさまないが、他の優れた児童文学の持っているような特徴を備えていないのである。すなわち、ヒロインのアリスは、心を通わせる兄弟姉妹や同年代の友達を持たないだけでなく、彼女がどう生きていくかを啓発してくれる大人とも親しくならないし、冒険のあと、賢く成長したようにも見えない。地下の国で、彼女が出会うのは、怒りっぽく、奇妙で、高慢なキャラクターたちで、彼女を、不親切で、ほとんど、つっけんどんに扱う。これは、この作品が、キャロルがアリスやその姉妹にした話を、アリスその人の要求に応じて書かれた作品だということを考えると大変奇妙であると思える。

オリジナル『アリス』では、その片鱗が少し窺えるというものの、その皮肉な辛辣さは、お話がなされたときにはそれほど顕著ではなかったであろうと思われるが、出版された『アリス』では、その辛辣さが、物語の主要な特徴の一つとなっている。ヒロインが、つっけんどんで、不機嫌な、― 必ずしも魅力がないわけではないが ― キャラクターに次々と遭遇する。著者はなぜアリスのために、こんな本を書き、贈ったのであろうか?著者はこの本で、大好きなアリスに何を言いたかったのか?さらに問えば、その辛辣さが、出版された『アリス』では、なぜ、膨れあがったのか?

私は、キャロルがアリスに次のことをわからせようとしたに相違ないと思う。すなわち、アリスは学寮長の娘で、彼女は上流階級の人間だと思い込んでいるかもしれないけれど、ひとたび彼女のことを知らない所へ行けば、ただの普通の女の子に過ぎないのだ。これが、本の中でアリスが繰り返し、彼女のアイデンティティが問われている理由なのである。あなたは誰なの?公爵夫人の教訓「あなたがそうであると思われるものになりなさい」は私の論拠の一つである。

キャロルはアリスと親密な関係を続けたかったのだが、さまざまな障害があり、接近することができなかったのであろう。それは彼には耐え難いことであったに違いない。そのような自分を物語に託して表現せねばならなかった。彼女は彼の本意に気付いたかどうかわからないが、彼女はこれまでどおり彼に対応した。彼は彼女を本の中では、賢く、勇敢で、誇り高く、弱者に喜んで援助の手を差し伸べる少女、中流階級の積極的な性格を備えたヒロインとして描きだした。

しかし、著者がアリスのアイデンティティで追及したものは、実は彼自身のアイデンティティの追及であったと私は思う。「お前は誰か?」の問いは「キャロルよ、お前は誰か?」と読むことができる。皇室への忠誠、上流階級志向を持ったキャロルにとって、一段下の階級の人間として扱われるのは耐え難いことであったに相違ない。この割り切れない気持ちが本の中で、冷酷なハートの女王や醜い公爵夫人や愚かな陪審員のようなキャラクターを生み出させたのである。辛辣さが増幅したことによって、意図せずして、彼の内面の秘密を表してしまったのである。ヒロイン、アリスのアイデンティティ問題は、他ならぬキャロルのアイデンティティ問題であろうと思う。

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