不思議の国より不思議な国のアリス  
5.2章 発見の喜び       The keen pleasure to find it

ちょっと不如意の話が続きましたので、それだけではなく如意現象もあることを書いておきたいと思います。

話の最初から思い出してみましょう。

ドアが皆閉まっていると鍵がみつかる。小さなドアから出られないと思っていると、DRINK MEの瓶が見つかる。体が小さくなり過ぎるとEAT MEのケーキが見つかります。体が大きくなり過ぎて困っていると扇子を・・・といった具合に、好都合なことも次々と起こっていますね。あなたもこのような現象に出会いませんか?私は欲しいと思っている本が目の前に現れる現象がよくあります。お金なら良いのですが、それはめったにありません。

先日、こんなことがありました。竹の子が食べたくて、竹の子を買って帰る途中のことです。竹の子には山椒の葉が要るなあと思った瞬間です。横を向いたら、生垣の間から、山椒の若葉が伸び出しているではありませんか! これには驚きました。少し失敬したことはいうまでもありません。

しかし「アリスの物語」と同様、現実の私たちの生活ではどうやら不如意現象の方が如意現象より多いように思います。これは不思議なことと言わなければなりません。

もう少し、細かく見て見ましょう。例えば、アリスはテーブルの上に小さな瓶に気付きます。(She found a little bottle on it)「確か前にはここになかった」とアリスは言います。

不思議の国ですから、無から有が生じてもおかしくはないのですが、私のような凡人は、小さな瓶は最初からテーブルの上にあったのだが、アリスが庭に出たくて、何とかしようと思ったことによって、はじめて気付いたのだと思います。「心ここにあらざれば、見れども見えず」の逆のケースです。少し理屈を言えば、「あるか、ないか」は、客観的な事実ですが、気がつく(発見する)といえば主観的事実で、アリスを生き生きとさせるためには、この気付くということが必要なのです。この小さな瓶は、手書きオリジナル本では、there was a little bottle on itとなっていたのですが、印刷本にする時、キャロルがShe found a little bottle on itと変えたものです。先程のventureと同様にキャロルの考えの深化が伺えます。第一章を例にとるとfindという動詞は9回出てきますが、その内の3つは印刷本で加えらたものです。

今から40年ぐらい昔のこと、友人とテントを担いで、紀伊半島大峰山系の沢を何日もかけて遡行していた時のことです。そこは深山幽谷そのもので、時々、大きな滝に出会います。轟々と音を立てている滝ですが、何時の間にか意識に上らなくなります。ふと気付くと、また、滝は轟々と音を立てます。滝は昔から同じように音を立てて落ちていると思うのですが、私が気付いた時だけ私の意識に姿を現すのだと、その時、思いました。

キャロルはこの気付くfind(見つける。発見する)という動詞をよく用います。
「アリスの物語」全体で、95回出てきます。多くは自分の置かれた状況に気付くというものが多いのですが、お暇な方は研究してみてください。私が注目したいのは、そのうちの11例はアリスの喜びの感情を伴った表現になっていることです。例えは、第5章でアリスの首がどんどん伸びていくシーンで、その首がどちらの方向にも簡単に回せることに気付いて喜んでいます。(delighted to find

勿論、いやなことに気付いて悲しむこともあるのですが、「アリスの物語」に関しては、喜びケースが多いと思います。

どれどれといって、思い切ってやってみて、おやまあ!と結果を喜ぶといった日常的なことから、好奇心に動かされて、冒険し、何かを発見するといった類まで、気づくということが、人生の喜びは大半ではないでしょうか?

この宇宙にはすべてものがあらかじめ存在していて、気付いた時に、立ち現れるという仕掛けをDRINK MEの小瓶が示しているように思えてなりません。大きな発見は、その鋭い喜びが、全身を駆け巡ります。「ユリイカ!見つけた!」と言って、裸でアテネの町を駆け廻ったアルキメデスをはじめ、お釈迦さまの覚醒の悦びなどどんなに強烈なものだったでしょう。その人の器に応じた喜びがあるように思います。

ちょっと話が大きくなりましたが、アリスの見つけるものは、さしあたり、鍵、小瓶、ケーキ、扇子と手袋、出口、・・・といったものです。それが冒険の旅を続ける大きな誘引となっています。

私も「アリスの物語」から、色々な発見をして喜んでいます。今のところ、次に、何が見つかるかを知らずに、この「不思議の国より不思議な国」を旅しています。

あなたもご一緒にどうぞ!

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