不思議の国より不思議な国のアリス
鏡の前で Before the  Looking-Glass

  これから「鏡の国」へ入ろうと思うのですが、私はたじろいでいます。戦々競々、深淵を覗く気持ちなのです。鏡の持つ深い性質を知るに付け、容易に鏡の中へ入っていけません。7歳半のアリスと異なる所です。この章は少し早くから始め、助走期間をも設けたいと思います。
まず、簡単なことから:

Looking-glass 対 Mirror

「鏡の国のアリス」は原名がThrough the Looking-Glass and What Alice Found Thereですが、同じく鏡を意味するMirrorをどうして使わなかったのか?

■これについては、日本ルイス・キャロル協会会長の安井泉先生が同協会機関紙The Looking-Glass Letter(No.66 2002年7/8月号)に『なぜ「鏡」はThe MirrorでなくThe Looking-Glassなのか』という興味深い文章を書いておられます。

その結論部分を一口でご紹介すると、言語には、属する社会階層によって、使用語彙に差があるものであり、ヴィクトリア時代では、looking-glassは上層社会の人が用い、mirrorはそれ以外の人が用いたというものです。

■一方、mirrorの方がlooking-glassより上品という説もあります。何時の時代か書いてありませんが。(「英語類語辞典」井上義昌編)

■雑司が谷シェイクスピアの森でご一緒の高木登さんがLooking-glassとMirrorとの違いを語源に遡って、調べてくださいました。精しくはここをご覧戴きたいのですが、その結論部分をこれも一口で、ご紹介すると‘mirror’であれば「水鏡」であれ、「金属の鏡」であれ、「ガラスの鏡」であれ「鏡」の意味として広く使用できるが、‘looking-glass’は文字通り「ガラスの鏡」に限定される。

■     エリザベス朝のシェイクスピアでは、シュミットによれば、looking-glassは46回、mirrorは9回出るとあります。シェイクスピアの鏡の世界に遊ぶのも面白いことでしょう。

鏡の問題はこのレベルで楽しむのがよいのかもしれません。

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先ほどの安井先生の文が出ている号に前会長の高橋康也先生の追悼号になっていますが、私がたじろいでいるのは、「不思議な鏡の国 キャロル」(別冊現代詩手帖第二号1972年思潮社)があるからです。今から30年前、先生40才の時の文ですが、その考察の鋭さ、豊かさと学殖の深さに頭をたれます。私の思いつくようなことはほとんどこれに含まれそうだからです。先生の視点を少し掘り下げるだけで、余生は終わりそうですし、まして、先生が読まれた本をトレースすることは、不可能です。その5年後に出た先生の「ノンセンス大全」などを考えると私のやることは稚戯の類で、あとがきにも書きましたように、何も書かないのが一番なのです。

例えば、上の「鏡」の議論は高橋先生の表現ではこうなります。
「キャロルは、<looking-glass>を使っているが、<鏡>はもちろん<mirror>とも言える。ところでこの<mirror>という英語(また他の西欧語でも同じである)は平俗ラテン語の<mirare 見つめる>に由来し、これをさらに遡れば古典ラテン語の<mirari 驚異をもって見つめる・感嘆する>にいたる。つまり、ラテン語の一語にすでに<不思議(の国)>と<鏡(の)国>が双生児のごとく胚胎しているのだという次第である。わが国に定着したらしい第二作の訳名『鏡の国のアリス』は、原題『鏡をくぐり抜けて』に忠実でないけれど、故意か偶然か第一作ちのこの隠れた対称性をあらわしている点で、まんざら捨てたものでないと言うべきであろう。」
前掲現代詩手帖『不思議な鏡の国のキャロル』

凄い感じがするでしょう。
前掲 Looking-Glass Letter 66で、門馬義幸先生が、この@別冊現代詩手帖第二号によりキャロルへのめり込まれた様子が書かれています。もし、あなたが、学生なら、私のこのHPを見ることなど即刻止めて、この冊子を探して読んで欲しいと思います。

更に、高橋先生をピークの一つとして、数多く先人の探求に懼れをなします。それらを確かめる時間が私にはもうないのです。そのようなことを前にたじろぐのです。

A高橋康也「ノンセンス大全」1977 晶文社 
B種村季弘「ノンセンス詩人の肖像」1977 筑摩叢書
Cエリザベス・シューテル(高山宏訳)「ノンセンスの領域」1980 河出書房新社

@ABに付いている参考文献これらを見ればたいていの人はたじろぎます。それから30年この世界でどんなことが起きているか知りません。こんな状態で、「鏡の国」へ入りたくないというのが率直な感じなのです。  (最近、@Aは再版されています。)

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  さらに私が戸惑うのは、私の鏡についての概念が、最近大きく拡大していることです。

姿を映す鏡から、眼鏡、望遠鏡、双眼鏡、顕微鏡、潜望鏡と広がるのです。日本では、なぜこのようなものに鏡がつくか、自社の製品の名前の由来にはきっと精しいと思われるニコンに問い合わせしたら、

 「 ご質問の内容に関して、社史等を調査いたしましたが、なぜ「鏡」という字が使われているのかという起源については記されておりませんでした。それ以上のことは、こちらではわかりかねますので、語源辞典などをお調べになってみてはいかがでしょうか。」というお答えを戴きました。ご親切なお答えに従いまして調べました結果はこのHPの別のところに書かせていただきます。
(今のところ、17世紀に遡れますが、もし、精しいことをご存知の方があればお教えいただけないでしょうか?)

そして、映し出すもの、カメラ、映画、テレビ、プロジェクター・・・となりますが、このように拡大していくと、皆さんはそろそろついて行けないのではないでしょうか?
  更に、第2章でも少し注意を喚起しておりますが、thought Alice to herself やsaid Alice to herselfというときには、Aliceは鏡の中のアリスherselfに向かって言っていると見るわけです。更に言葉自身が何かを写し出しているとしたら、これも鏡(または鏡像)と見ると、鏡の世界は無限に広がります。高橋康也先生の圏外に出てしまう可能性もあります。私が鏡の前でたじろぐ気持ちがお分かりいただけるでしょうか?

          *  *  *

「鏡の国」に入るには、7歳半のアリスの後のついて行くのが一番のようですね。思い切って飛び込みましょう。

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