アリスとチェシャ猫との対話(7)

46 猫: 私が結論を急いだのは、対話を進めて行く上で、合意できるところはできるとして確認していかないと、いつまでたっても同じところをうろうろすることになってしまうと思ったからです。合意といっても、論理的なプロセスに対する合意であって、必ずしもその内容に賛同することを求めているわけではありません。
 
 最初のご質問は科学の位置付けについてですが、科学というものが感覚を通じて外界をより詳細に認識しようとする努力である、という点については異論はありません。ただ、認識するということと、その実在を証明するということは同じではありません。科学がどれほど詳細に外界の性質を研究したとしても、それによって外界が実在であることを証明することはできない、というのが結論1の意味するところです。
 
 一つのたとえをお話しましょう。
 
 いまパソコンの画面に赤い点と緑の点を描き、赤い方を太陽、緑の方を地球とします。パソコンにソフトを入れ、地球が太陽の周りを万有引力の法則にしたがって公転するようにします。そこへパソコンのことを何も知らない宇宙人がやってきてその面をしばらく観察したあげく、「この赤い点と緑の点の間には、距離の2乗に逆比例する引力が働いている」と結論したら、この結論は正しいでしょうか、誤りでしょうか。
 
 それは「正しい」という言葉の意味によります。もし「正しい」という言葉が、観測から導き出した結論がそのものの性質を常に正しく予測する、という意味なら、この結論は正しいといえます。 万有引力による運動法則によってこの緑の点の運動を予測するなら、その予測は常に正しいでしょう。したがって、二つの点の間に距離の2乗に逆比例する引力が働いている、という結論も正しいと見なされます。
 
 けれども、もし「正しい」という言葉が「そのものの実体をしめす」という意味で使われるのなら、この結論は正しくないのです。二つの点は、万有引力が働いていると見えるようにプログラムされているだけであって、二つの点の間には何の力も働いてはいません。
 
 科学がやっていることは、まさにこういうことなのです。そして、そのことは物理学者自身が認めていることです。量子物理学がしめす量子の性質は、実験結果と信じられないほどの精度で一致しますが、その性質は常識的な物質の性質とは途方もなくかけ離れています。物理学者は、量子がどのように振舞うかということは確信を持って予言することができますが、量子が何であるかについてはほとんど何の概念も持てずにいるというのが実態です。そして、大多数の物理学者は、こういいます。「われわれは量子について計算式を作り、それが正しい予想を与えるならそれでいいのだ。量子が何であるかを考えるのは、哲学者に任せておけ。」
 
 
 結論2の目的は、外界が実在であると考えることも、意識の描く幻想であると考えることも、論理的には何の不都合もない、ということを確認することです。そして、その裏に隠された意味は、この二つのどちらかが正しく、他は誤りである、という証明は論理の世界ではいつまでたっても得られないだろう、ということです。
 もちろん、私は、その一方を正しいものとして採用しています。そして、それについての私の考えをこれからもお話するつもりです。けれども、それは論理的な証明ではありません。それは私の主体的な判断による選択です。判断の根拠は、繰り返しますが証明ではなく、直観と体験です。以前に、アルベルト・シュヴァイツァーの言葉をお話したと思いますが、真理に向かって進むためには、どこかで主体的な選択をする必要があるのです。
 
 現在、私はほとんど直観だけによって思考を進めて行きます。論理は、それが論理的な矛盾を含むか、破綻しないか、というチェックのために使います。論理的合理性は、無から何かを生み出すことはできませんが、生み出されたものが混沌であるか、新しい秩序であるかどうかのチェックには使えると思っています。

対話(6)をお送りしたあと、別の目的のために International Standard Bible Encyclopediaという百科事典(ISBE) Gnosticismというのを調べていたところ、面白い記事に出会いました。
 Gnosticismというのは、ノスティシズムと発音するようですが、日本ではグノーシス主義と呼ばれていて、2世紀頃のキリスト教の一派、それも正統派からは異端とみなされて激しく攻撃される一派です。ISBEの記事も同じ調子で異端であると決め付けていましたが、「現代のグノーシス」という項目の中で、Fichte "There were no external realities at all, they were the mere objectivity of the subject or creation of the inward eye "といっているとありました。そして、フィヒテに続き、Schelling "Then this creating eye is God's own eye"といい、そのあとに Hegelが来て "God and man are one , and God all men, and all men God , and whole univers God eternally thinking in the process of development"と言った、このようなものがHegelianismである、と書いてありました。これを見ると、私の考えはまさに Hegelianismであるということになるようですね。

7 アリス:丁寧なご説明ありがとううございました。お蔭さまでだいぶすっきりいたしました。二つの結論を共有することには、異議がありません。これから先は、直感と経験(これも直感の一種なのでしょうか)に導かれながら進むことになりますが、その前に、私たちが日ごろ抱く、悲しいとか嬉しいとか、いろいろな感情と直感とどう違うのか、猫さんの考えをお教えいただけませんか?

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