アリスとチェシャ猫との対話(9)

50 猫: 外界というのは心の中か外か、というご質問にお答えします。
 外界というからにはふつうはこれを心の外にある世界と考えているわけですが、私の立場から言えば、これは心の内側です。
 このことを示すために、今日は二つの添付ファイルを送りました。
 まず、Mind and World(1)の方をご覧下さい。これは、私たちが通常持っている理解です。外界と呼ばれる物質宇宙の中に、肉体(絵には描いてありませんが)をまとった心が存在していて、感覚と呼ばれる窓を通して世界を眺めています。意識の中にある矢印が、外界からの刺激に反応する心のサイクルを示しています。無意識は暗い色に塗ってありますが、これは心のサイクルが使用するリファレンスファイルです。
 MInd and World(2)の方は、私の解釈を示しています。心が存在するのは、物質的な外界の中ではありません。それは「神が創造した世界」の中にあります。これが「実在」の世界です。神を信じない方は、人間よりもはるかに高次元の意識存在を想像されればよいと思います。実在は、高次元の意識存在の意識の中にあるのです。
 心の中は(1)と同じような構造をしていますが、感覚のあったところに「外界映写スクリーン」というのが置かれています。私たちが「外界」「と思っているのは、この中に映写されたいわば「映画」なのです。人間は映画を目と耳だけで鑑賞しますが、心の仕組みの中では、あらゆる感覚を使って鑑賞できる映画が上映されているのです。しかも、これは双方向映画であって、矢印は心がこの映画に反応して行動を起こすことを示しています。
 スクリーンの後ろから線が出て、「他の心に接続」と書いてあります。インターネットでする対戦ゲームを想像してください。プレヤーは、相手と戦っているように錯覚しますが、実は自分のパソコンの画面を見ているに過ぎません。私たちの心も、それと同じ構造をしています。私たちはみんな自分のスクリーンを見ているのです。
 私たちの心がインターネットに似ているなんておかしいと思われるかも知れませんが、そうではありません。人間は無意識のうちに、実在界にあるのと同じ仕組みを実現させるように動いているのです。技術が発達したので、ますます実在に近いイミテーションが可能になってきただけです。
 無意識は矢印の向きと逆の位置にあります。私たちの注意がスクリーンの方に向いているので、無意識はまるで自分の心の後方、あるいは奥の方にあるように感じられます。無意識のさら後ろに、ひげのようなものがあるのに注意してください。これは心の出入り口を示しています。人間の心には、本当の外界である実在界へつながるドアがあります。私たちは通常スクリーンの方を外界だと思っていますが、此処は行き止まりです。本当の出口は無意識のさらに奥の心の裏側にあるのです。
 このことは、さしあたってアリスさんには重要ではないかも知れません。この絵は、最近私がある小さな集会で話をした時に使ったものです。そこでは、人間が神につながるということ、信仰や宗教の本当の意味は何かということを話しましたので、このような絵になっています。もし興味がおありでしたら、そちらの方も追い追い話題に取り上げましょう。

51 アリス:これまでのところを少し整理いたしますと、
対話(7)で、「外界が実在であると考えることも、意識の描く幻想であると考えることも、論理的には何の不都合もない」、「この二つのどちらかが正しく、他は誤りである、という証明は論理の世界ではいつまでたっても得られないだろう」。それを選ぶのは「主体的な判断でによる選択」で、「判断の根拠は、繰り返しますが証明ではなく、直観と体験です。」ということでしたので、直観の意味をお尋ねすると、
対話(8)で直観(直感を含めて)について明らかにしていただきました。そこで、話が振り出しに戻る危険を感じながら、外界と心の関係をお尋ねすると、
対話(9)では二つの図式で、ご説明いただいたわけですが、「実在は、高次元の意識存在の意識の中にある」ということ「無意識のさらに後ろに、ひげのようなものがあるのに注意してください。これは心の出入り口を示しています。人間の心には、本当の外界である実在界へつながるドアがあります。私たちは通常スクリーンの方を外界だと思っていますが、此処は行き止まりです。本当の出口は無意識のさらに奥の心の裏側にあるのです。」という、私には衝撃的なご意見をうかがいました。まだ直観にこだわって恐縮ですが、この裏側の出入り口から入ってくるのが、直観なのでしょうか?また、出入り口を広く開ける方法はあるのでしょうか?


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