アリスとチェシャ猫との対話(92)

452 猫: <この創造の秘儀は、二元論的な思考の及ぶ所ではなく、それに触れるには、ある意味で、修行(あるいは信仰)が必要ではないかと思います。>

 まったくその通りだと思います。最近、ある出来事により、私自身が自らの意識をさらにクリーニングする必要があることを痛感しました。出来事の内容については今お話する時期ではありませんが、この「意識のクリーニング」という意味を少しお話したいと思います。

 以前からお話しているように、私は、霊的存在は結局のところ「自分の意識を体験する存在である」と考えています。448でお話した「雪の結晶」のたとえのように、私たちは核になる「自分という意識」の周囲にたくさんの「観念」(非常に広い意味で考えてください。他にあまり適当な言葉がみつからないので。)を集積させて「自分」というものをつくりあげて行きます。この観念の集積が私たちの意識の中身であり、その中には物質世界の構造や自然法則から霊的な悟りにいたるものまで、あらゆる知識や観念や信念、それに思考や感情の断片や体系がおびただしく積み重なっています。そのような意識をもつことによって、私たちは物質世界に生きているアリスやチェシャー猫という自分を体験しているわけです。

 私は、いま霊性を回復するということに注目していますが、それは、このような観点から見れば、結局自分の意識の中身を入れ替えて行くということに他なりません。そのための方法は無数にあるといってよいのですが、その方法に関する知識をいくら仕入れても意識の中身は変わりません。意識の中身を変えるためには、自分の意識の中身について、いるものいらないもの、残すもの捨てるものを識別して、それを整理するという作業を実際に行なわなければなりません。これが「修業」になるわけです。

 「修業」の方法については、古今東西の様々な宗教が様々な方法を開発し、教え、伝えてくれました。私もそのような方法に精通しているわけではありませんが、どのような系統の教にも共通の要素があるように思います。同時に、同じことでも、それをどう表現し、どう理解し、どのようなエクササイズによって身に付けてゆくかということについては、無限のバリエーションがあると思います。

それはゴルフの練習に似ています。一応の理論や標準的な教え方はあるでしょうが、結局のところ、すべての人が、一人一人、自分で納得し、自分でマスターした道をつくりあげて行かなければならないのです。まったく同じ体格と体質とメンタリティを持った人は世界中探しても一人もいません。地上に止まっているボールを打つという簡単なことであっても、結局のところ、ゴルフをする人の数だけ打ち方もあるのです。

霊性回復も同じです。いくつかの原理原則を述べることはできますが、意識の中身がまったく同じという人は一人もいませんから、結局のところ、意識の整理の仕方も人間の数だけ存在することになります。

 私が今回自分の心の整理に取組んでみてまず感じたことは、「自分で取り組む」ということがいかに大事かという、まったく当たり前のことでした。教科書をいくら読んでも、そのとおりにはできません。けれども、教科書に従うつもりで取組んでいると、そのうちに自分なりのやりかたが自然に思い浮かんできます。教科書を参考にしながら、自分だけの道を作り出してゆく以外に方法はないのではないかと思っています。

 次回以降には、その自分の道を発見するための参考データをすこしお話することにします。

 

453アリス: ゴルフの練習の喩えはよく分ります。私はゴルフは余り上手くなりませんでした。練習方法がよくなかったのか? 熱意が足りなかったのか?

お話の続きをお願いします。

 

454 猫: 参考データとしては、次のようなものがあげられると思います。

 (1) 沈黙または思考停止

 (2) 「今ここ」への集中

 (3) 常識的知識の破棄

 (4) 内面の気づきと癒し

 (5) 愛と統合

 ここに上げた五つの要素がすべてを網羅しているというつもりはありませんが、いろいろな方法が、これらの要素の全部または一部を、独特の表現を用いて語り、独特のエクササイズの方法によって習得させようとします。以下に各要素を簡単に解説していきますが、私たちは結局これらに対し、自分の表現と自分のエクササイズを発見し身に付けていかなくてはならないと思います。

(1)沈黙: 沈黙というのは、単に言葉を発しないだけではありません。頭も心も沈黙させます。別の言葉でいえば「思考停止」です。

禅をなさるアリスさんにはおなじみだと思いますが、人間の心はほとんど休みなく何か考えています。考えを止めると「あ、何も考えていないな」と考えます。私たちの心は一刻も休まずに動きつづける時計のように、思考を生み出しつづけています。

この思考機械を制御するのに、呼吸を使うことができます。深く息を吸い込んで呼吸を止めると、しばらくのあいだ思考機械が止まっている状態を経験できます。なれてくると、ゆっくり呼吸を続けながら思考を止めていることができるようになります。そのうちに雑念がわいたときに雑念を観察しているもう一人の自分に気づくようになります。本当の自分は観察している方の自分であって、思考機械は自分がもっている心の機能の一つに過ぎないということが分かるようになります。

このように、「自分」を「思考」から切り離すことが、心の内面を自覚するための第一歩だと思います

(2) 「今ここ」への集中: 「感情は過去にとらわれ、理性は未来にとらわれる」と言った人がありますが、人間は、絶えず過去や未来に注意を向け、現在の瞬間から注意をそらしています。それは、絶え間なく働きつづける思考機械に振り回されているからです。けれども、人間が本当に生きているのは「現在の瞬間」だけです。そこに注意を向けるのが「今ここ」への集中です。

その方法として、身体の内的感覚に注意を向ける方法や、聴覚に集中して、いま聞こえている音を残らず拾い上げるというような方法があります。私たちは、ほとんど無意識のうちに、必要な音以外を聴かないようになっています。意識してあらゆる音を拾おうとすると、いかににたくさんの音を無視しているかということが分かるようになります。

このような訓練をすると感覚が研ぎ澄まされてきて、物質世界以外のところからの音や光を見ることができるようになってきます。このようにして、物質世界のなかだけに閉じ込められていた意識が、それ以外の領域に対しても開かれて行きます。

 (3) 常識的知識の破棄: 私たちの心は、物質的世界の構造から人間社会の渡り方にいたるまで、様々な常識によって埋め尽くされており、何か情報がはいってくると、ほとんど瞬間的にそのような常識に基づいて判断し、反応するように条件付けられています。自分では、しっかり考えて結論を出したつもりでも、このような既存の思考回路にそって自動的に結論に到達していることが多いのです。

 このような自動思考装置に縛られなくするために、常識と違う様々な知識を与えたり、常識でいくら考えても答えが出ないような問題に取組むことによって、自動思考回路の呪縛を振りほどこうという努力がなされます。禅者や西洋の神秘主義者の不可解な言語表現もその一つです。また、言語的には理解できるけれども、物質世界の常識とは真っ向から衝突するような知識をもたらす情報もあります。私が「物質世界は幻想である」という話を一生懸命するのもその一つです。

 重要なのは、常識は捨て去るべきものであるということを受け入れ、実際にそれをする決心をすることだと思います。何を捨てるべきかということを本当に知ったら、おそらくたいていの人は躊躇するのではないでしょうか。それほど根源的な常識まで捨てなければならないのです。

 (4)内面の気づきと癒し: 常識的知識とは別に、私たちの心には、感情を中心とした過去の記憶が山のように積み上げられています。それは、今の人生におけるわずか数十年の記憶ではありません。いま地球の上に生きている人は、これまでに何百回も地球に生まれ、ありとあらゆる人生を経験してきているのです。そのような人生の中で、楽しい思い、苦しい思い、喜び、怒り、憎しみ、恐怖、絶望・・・ありとあらゆる感情を体験し、その記憶を心にとどめてきました。今、私たちを支配しているのは、一つは常識的知識であり、もう一つはこの感情の記憶なのです。

 心の内面に入り、研ぎ澄まされた感覚でそれを見ることができるようになると、自分の心の中でどんな反応が起っており、その原因はどの知識やどの感情であるかがわかるようになります。これらの記憶を解消し、中和し、癒してゆくための方法が、いろいろ提供されています。そのための一つの方法が、愛を注ぐという方法です。

 (5) 愛と統合: 心の中に愛を注ぎつづけると、物質世界にとらわれた常識的知識と感情の記憶が癒され、それまでこれらを癒すために消費された愛のエネルギーが心の中に蓄積されるようになってきます。すると「心の温度」が上がってきます。

 現代物理学によれば、宇宙は生まれたとき、無限に温度の高いエネルギーの塊でした。それが膨張するにつれて単位体積あたりのエネルギー密度が減少し、温度が下がって行きます。そうするとそれまで一種類であった力が四つに分解して、重力や電磁気力などといった現在知られている力が生まれます。さらに温度が下がっていくと、様々な種類の素粒子が生まれ、光と物質が分離し、様々な種類の物質原子が作られるようになっていきます。温度が下がるにつれて、あらゆるものが細分化され、分離していくのです。

 心の面においても同じです。心の温度が下がるにつれて、自他が分離し、敵味方という概念が生まれ、愛憎、好悪、損得などいう二者対立的価値観が生まれてきます。霊性を取戻す過程は、このプロセスを逆にたどることです。心の温度が上がるにつれて、対立的概念がなくなり、敵味方がなくなり、自他の分離が消えて行きます。

愛はすべてを統合に導く究極のエネルギーです。心の温度が上がってくると、一即多、多即一、自即他、他即自の奥義が自然に分かるようになります。それが本来の姿であり、もっとも自然なあり方であることが、身をもって体験できるようになります。

無限に温度の高い霊的エネルギーの塊である「神」に向かって帰っていくのが霊性の回復なのです。

 

455アリス: 心身を挙げて、いずれかの方法を実践する以外にないと思うのですが、もう少し修行について理解を深めたいと思います。

先ず、修行の目的ですが、これをはっきりさせること自身が大変難しい。つまり「霊性を回復する」という目的を心底願うことは我々にとって大変難しくなっています。これについてはどう思われますか?

いずれのプロセスもどこかで大きな壁、絶望という関所を通らなければならないと思うのですが、温度が上がるようにいつの間にかその域に達しているのでしょうか?

 

456 猫: ふたつの質問をされましたが、どちらもおっしゃるとおりで、何気ないようでありながら、私たちが目覚めるための大きな障害になっています。もっとも、もしそうでなかったら、地球人類はとっくの昔に全員解脱の境地に到達していたでしょうが。

<「霊性を回復する」という目的を心底願うことは我々にとって大変難しくなっています。これについてはどう思われますか?>

まず自分が本当に望むもの、本当に満足するものは何か、ということを執拗に追及してください。たとえば、アリスさんは絵を描かれますが、「自分はなぜ絵を描きたいのだろうか」「絵を描くことによってどのような満足を得ているのだろうか」「それは本当に自分が求めている満足だろうか」といった問いを通じて、自分の「魂の欲求」というものに敏感になってください。もし何かをすることによって得られる満足が一時的なもので、しばらくするとまた同じような心の飢えを感じるようになる、というなら、その手段は本当の魂の欲求から外れている可能性があります。

普通の人は、たいてい、この世の常識的な欲望を人間として当然のことと考えて、自分の魂が何を求めているかを考えようとしないのです。けれども、その気になって注意を向ければ、だれでも「魂の飢え」に気づくことができます。心のいちばん深いところで、どのような満足、喜び、達成感を感じているかということを道しるべにされたら、それほど大きく道を外すことはないと思います。

ただ、だれでも今すぐに霊性を回復することを目標にするわけではありません。今は別のことをする時期だという人もあると思います。けれども、どのようなことをしている人であっても、自分の本当の満足がどこにあるのかということを注意深く見守っている人は、それが時間と共に変わってくることに気づくはずです。今まで生きがいを感じて一生懸命やってきたことが、ある日突然どうでもよくなります。自分の求めることはここにはないんだということがわかるようになります。それは今までやってきたことが間違っていたという意味ではなく、卒業の時がきたということなのです。そのようなときには、過去に引きずられずに、自分の深いところの気持ちに素直に従ってください。人は毎日毎日変わってゆくのです。

<いずれのプロセスもどこかで大きな壁、絶望という関所を通らなければならないと思うのですが、温度が上がるようにいつの間にかその域に達しているのでしょうか?>

壁があるというのも、気づかぬうちに「温度が上がって」いるというのも、両方ほんとうです。それは山道を登るのに似ています。歩いても歩いても、ちっとも登っているように思えない。時には下っているのではないかと錯覚する。周りの景色も少しも変わらないように思える。・・・そんな時期が続くと、もう止めようか、何か間違っているのではないか、と思うときさえあります。

けれども、あるとき突然見晴らしのきく場所に出ます。振り返って見て、「いつのまにかこんなに高くなってしまったんだ」と思うときがきます。自分自身が昔の自分ではなくなっていることが分かります。「もうもとには戻れない」という思いをひしひしと感じます。昔のことを思い出せば、それは前世か前々世を思い出しているような気分です。

不精者の私は山登りもしませんが、山登りのコツは、一歩一歩足もとを確かめながらただひたすら歩きつづけること・・・ではないでしょうか。途中で挫折しないための心の支えは、「これを行けば必ず頂上に出られる」という信念以外にはないのではないでしょうか。霊性回復の道も同じです。

 

457アリス:<まず自分が本当に望むもの、本当に満足するものは何か、ということを執拗に追及してください。>と言うことですが、私はこの問題に30年ぐらい取り組んできました。つまるところよく分らない。やりたいことは今でも沢山ありますし、また、それをやることによっておそらく喜びも感じるでしょう。しかし、今となって、この限られた生の中で何をやればよいか分らない。山登りの例を取り挙げると、一つ選ぶとすれば、どの山に登って良いの分らない。エレベストなのか、カイラスなのか、あるひは東京近くの山なのか?

私には1つの山を決める時期に来ているように思っていますし、決めねばならないと思っています。

2つ目のお話は私の関心と焦点がずれています。コツコツ歩く山登りは、私は、日本の3千メートル以上の山はすべて、その他、かなり歩いた経験があります。一歩一歩いた経験が私の最大の財産と思っていますが、見性体験で味わったことは、この一歩一歩では届かないということでした。関所、絶望と表現したのはこのところです。勿論、この一歩一歩がなけれは、埒が開かないのですが、それだけでは足りない何かがありそうで、それが猫さんのプロセスでどうなっているのかというのが私の関心でした。

しかし、これは2次的な問題でしょう。何処に向かって歩くかが問題ですね。これまでは、とりあえずこちらの方へ行ってみようという具合に、いわば、つまみ食いしながら、暢気に過ごしてきましたが・・・・

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