アリスとチェシャ猫との対話(91)

446 猫: やっと話がかみ合うようになりました。

 あとのご質問からお答えします。

 <昼の世界に返らないのは、夜の世界がまだまだ面白いということになりますね。>

 その通りです。実際に、昼の世界に帰りたくない人たちもたくさんいると思います。

 それに関する地球の現在の状況をここでお話しておきます。これは、今すぐ取り上げる必要はありませんが、以前にも別の表現でお話したことがありますので、ここで昼と夜のたとえによって、もう一度お話しておきます。

 いままで、地球は自らの上に「夜の世界」を展開することに合意し、私たち人類が暗闇を体験するのに協力してきました。アリスさんがお信じになるかどうか分かりませんが、いま地球自身が「昼の世界」に帰りたいと思ってその準備をはじめています。昼の世界に帰りたい霊たちは、喜んで一緒に帰ろうとしています。

 では、昼の世界に帰りたくない霊たちはどうするのでしょうか。無理やり連れ戻されることになるのでしょうか。そうではありません。ここでも自由意志が尊重されます。昼の世界に帰りたくない霊たちは、夜の世界を創ることに合意するほかの星に移住(転生)することになるでしょう。

 これまでは、地球は夜の世界を続けることに合意していましたので、昼の世界に帰りたい霊たちは自分だけで地球から去っていきました。

 この仕組みを見れば、地球にも、その上に住む霊たちにも、それぞれに、自由意志が最大限に尊重されているのがお分かりいただけるのではないかと思います。

 前の部分に戻ります。

 <盲人であることも不昧因果ではないでしょうか?444でその答えの一部があります。猫さんも因果の流れの中での説明は癒しを妨げるものとされるのでしょうか? それとも不落因果で、因果を超越した世界なのでしょうか?>

 多分、アリスさんと私のあいだに不落因果、不昧因果の解釈の違いがあると思います。

 狐の公案に戻りますが、狐になった老人は、昔僧であったころ、弟子の一人から「仏道修行を完成した人でも、やはり因果の法則に落ちて苦しむものでしょうか(『無門関』岩波文庫)」と聞かれて、「いや、因果の法に落ちることはない(同上)」と答えて狐にされてしまいました。この老人は、悟りを得た人は、因果の法則によって苦しむことはなく、悠々と人生を生きて行ける、と言いたかったのですが、それを「因果の法則に縛られることはない」と答えたので間違ってしまったのです。不落因果とは、アリスさんもおっしゃるように、因果の法則を超越する、という意味です。

 これに対し、百丈和尚は「不昧因果」と訂正しました。これは因果の法則を明らかにして、それに従う、ということです。「不昧=暗くしない=明かにする」という点が大事だと思います。凡愚は、因果の法則に疎いので、絶えず法則違反をして苦しむのです。悟りを得た人は、因果の法則に明るいので、法則に外れたことをせず、かえってその法則の働きを利用して、人生を優雅にわたることができるのです。

 狐になった老人が、「悟った人は因果の法則によって苦しむことはない」と言おうとしたのは正しいのですが、それは法則を超えることによるのではなく、法則にしたがうことによるのだということを正しく表現できなかったのです。

 <盲人であることも不昧因果ではないでしょうか?>

 私は、不落因果、不昧因果を上のように理解していますので、盲人であることは不昧因果ではなく、因果に落ちた状態だと考えています。因果に落ちたということは、この盲人の意識の中に盲人になる原因があり、しかも、そのことに自分自身が気付いていなかったということです。もし、盲人が因果の法則に通暁していて、それを利用して自らの意志で盲人になる道を選んだのであれば、それは不昧因果となります。

 <猫さんも因果の流れの中での説明は癒しを妨げるものとされるのでしょうか? それとも不落因果で、因果を超越した世界なのでしょうか?>

 私は、キリストの奇跡も因果の法則を超越したものではなく、因果の法則にしたがってなされるもの、すなわち、不昧因果であると考えています。

 私は、ここでいわれる因果の法則とは、物理的な因果律ではなく、「すべての人は自分の意識状態を体験する」という法則だと考えています。イエスは、この盲人に「お前はこういう意識を持っているので盲人になったのだ」と説明することはできたでしょう。けれども、説明を受けても盲人の目が開くことはありません。なぜなら、原因を知ることによって目が開くのではなく、原因を取り除くことによって目が開くのだからです。ところが意識の中にある原因を自分の意識で取り除くのは至難の業です。原因は何か何かと過去に遡っていっても限りがなく、原因を探す心そのものが、私たちをその原因となる意識状態に縛り付けてしまいます。

 それは、両手についた泥を落とそうとして、泥のついた両手でいじくりまわすようなものです。いくらいじくりまわしても、なかなか泥は落ちません。泥はあちらこちらに移動するだけです。泥を落とすためには、手でいじくり回すのではなく、水の流れに手を差し出せばいいのです。何もしなくても、水が泥を洗い流してくれます。イエスの場合には、水の役割を果たしたのが信仰でした。イエスは、盲人に原因についての知識を与える代わりに、直接的に原因となる意識状態を変えさせることをしたのです。

公案のようなものも、そのような働きをするのだと思います。だから、公案の答えを思索的に出すことに、あまり意味がないのだと思います。思索ではなく、もっと「原始的」なものに直接働きかけること、それが公案の役目ではないかと思います。

 

447アリス: 公案についてはおそらく猫さんの仰る通りでしょう。私はこれ以上立ち入る力はありません。絶えず原点に戻りたいと言う私の気持に沿って、話を進めさせていただきます。この対話は意識ということから話が始まりました。途中、霊という言葉に置き換わったと思います。そこで、大変シンプルな質問ですが、猫さんの霊、アリスの霊・・・といった具合に霊は個性を持つのでしょうか? また、一つ二つと数えることが出来るのでしょうか? もし個性があるとして、それは一過性のものなのでしょうか? それともある程度持続するのでしょうか?

 

448 猫: たいへんむつかしい質問です。「むつかしい」というのは、私も完璧な答えを知っているわけではないという意味であり、また知っている(と私が思っている)ことも人間の言葉にするのが非常にむつかしい、という二重の意味です。現在私が理解していることを、できるだけわかりやすくお伝えするよう努力します。

 まず、個性について話をする前に、私たちにとって「自分」とは何か、霊にとって「自分」とは何か、ということを考えてみる必要があると思います。

 私は148で「自分という意識」というお話をしました。私は、「自分」というものは、「自分が自分だと自覚する」という点が核心であり、外部から客観的に「お前の自分はこれだ」というような具合に定義することはできない、と考えています。それで「自覚する意識」を「自分」というものの中心においているのです。

 「雪の結晶」のたとえをお話したかどうか忘れましたので、もう一度、ここでお話しします。ご承知のように、雪の結晶は上空の冷たい空気の中で凝結した水蒸気がくっつきあって成長して出来上がったものです。そのとき、最初の水蒸気がくっつくために核になるものが必要であり、上空の小さなごみ等が核になるといわれています。ひとたび、核に水蒸気が付着し始めると、次第にそれが大きくなり、それにさらに次々に水蒸気が凝着して大きい結晶に育ってゆきます。

 私は、「自分」というものは雪の結晶のようなものである、と考えています。結晶の核になるものが「自分という意識」です。これにさまざまな観念が次々に付着して、観念の結晶が出来上がります。これが私たちの持っている「自分」というものです。

 このたとえの意味は、私たちの持っている「自分」というものは、観念の集積に過ぎない、ということです。自分という「確たるもの」があるのではなく、私たちが「これは私自身の一部だ」「これは私の一部ではない」というようにして選別してつくりあげた観念の集積が、私たちの持っている自分であり、私たちの個性である、ということです。

雪の結晶は暖めればたちまち融けて消え去り、あとに目に見えない核だけが残ります。私たちの「自分」というものも、それと同じように、ある条件が整えば融けて消え去る性質のものです。そして核である「自分という意識」だけが残ります。

 仏教も同じことを言っていると私は考えていますが、そうではないでしょうか。仏教と私の違いは、中心に「自分という意識」という核があるかないか、だと私は考えています。仏教では、「自我」は観念の集積以外に何もない、したがって、観念の集積が融けてしまえば何も残らない、としているのではないかと私は理解していますが、私はこの核は「神の火花」であり、神の分身であり、決して消え去ることはないと考えています。これが、神が人間を生み出したとされるときに創り出したものなのです。つまり、神は人間の核だけを作り、その核が自分の周りにどのような観念を集積させて「自分」をつくりあげて行くかは、各自に任せてあるというわけです。

 霊の「自分」というものも本質的には同じだと思います。中心に「神の火花」があり、その周囲に「観念」を集積させて「自分=個性」というものが作り上げられるという構造は、霊においても、人間においても、変わりはないと考えています。けれども実は、人間が集積させる「観念」と、霊が集積させる「観念」はまったく違います。

 私は、何度かお話したように、神が霊を生み出し、霊が人間を生み出すという二重の存在階層を考えていますが、このため霊が集積させるのは霊の世界の観念であり、人間が集積させるのは物質世界の観念です。したがって、構造は同じでも、出来上がる個性というものはまったく違ったものになります。それはたとえば、地球では水蒸気が凍った雪の結晶ができるけれども、火星では炭酸ガスの雪が降り、木星ではメタンガスの雪が降る、というようなものです。周囲に存在する素材が違えば、違うものができるというのは当然の事ですね。

 これだけの準備運動をしておいて、ご質問の答えに入ります。

<猫さんの霊、アリスの霊・・・といった具合に霊は個性を持つのでしょうか? また、一つ二つと数えることが出来るのでしょうか? >

個性というものが、他と違う特色という意味であるならば、個性はあります。ひとりひとり核の周りに集めた「観念の集積」が違うからです。けれども、霊を一つ二つと数えることはできません。霊にとって、個性は意味がありますが、個体という概念は意味をなしません。

物質世界でものを数えることができるのは、すべてが空間によって分離されているからです。けれども霊の世界には空間がありません。したがって霊が自分の核の周りに集める観念の中にも「分離」という概念がありません。すべては一体です。自分と他人、あなたと私、みんな一体です。これがおそらく私たちにとって霊の世界の一番理解しがたいところではないでしょうか.

 <もし個性があるとして、それは一過性のものなのでしょうか? それともある程度持続するのでしょうか?>

 霊の世界には時間というものがありません。したがって、持続とか一過性ということ自体が私たちが理解するものと異なっていると考えなければなりませんが、そのことを横において言えば、持続するものもあれば一過性のものもあります。個性というものは「観念の集積」ですから、一部はすぐに変化するし、長く持ち続けている観念もあると思います。そして、絶対に消滅しないものが、中心にある核の「自分という意識」です。

 時間がない世界での持続と一過性の違いは、おそらく、霊が自分の個性のその部分をどのくらい重要だと見なしているかということではないかと思います。

449アリス: 猫さんはたとえ話の名人ですね。お考えかなり理解できました。特に「神の火花」という表現はユニークですね。

<仏教も同じことを言っていると私は考えていますが、そうではないでしょうか。仏教と私の違いは、中心に「自分という意識」という核があるかないか、だと私は考えています。仏教では、「自我」は観念の集積以外に何もない、したがって、観念の集積が融けてしまえば何も残らない、としているのではないかと私は理解しています> 私も概ね同じように理解しています。この中で「観念」「何も残らない」という言葉には若干の抵抗がありますが、猫さんの仰っておられるようなことを目下探求しているところです。

猫さんのお話をもう少し延長させていただきます。

核すなわち「神の火花」、「自分という意識」は山や鳥や花にもあるのでしょうか? またこれらには自由意志があるのでしょうか?

450 猫: お褒めにあずかりましたが、「神の火花」という表現は、私の発明ではありません。ある本の中で見つけました。

 「自分という意識」はあらゆる存在の中心ですので、あらゆるものにあると思います。自由意志も同じです。

 ある情報では、原子や素粒子のようなものにも意識があると伝えています。ということは、これらにも「自分という意識」があり、記憶や自由意志があるということです。

 また、私たちは自分が考え出した観念や想念、感情のかたまり、などについて、「それらも生命をもっており意識がある」などと言われても信じられないと思いますが、ある情報によれば、「あなたたちは、あなたが生み出した想念の創造主なのです」というような言い方で、生み出したものに対しての責任がある、と教えています。つまり、これらの想念や感情もまた、それ自体が意識をもち、記憶や自由意志をもっているということです。

 このように見てくれば、存在するすべてのものは神の意識の中に存在しているわけですが、神の意識の中でおこなわれる創造のプロセスというのはすべて同じであって、ただその中に大きいものや小さいもの、二重三重に階層をなしているものなど、さまざまな形態があるということではないかと思います。

451 アリス: 花や鳥や星も <創造のプロセスというのはすべて同じであっ て、ただその中に大きいものや小さいもの、二重三重に階層をなしているものなど、 さまざまな形態があるということではないかと思います。>とあって、何だか安心しました。
よく人間だけが特別の存在と説かれますが、私は猫さんのように理解する方が、好みに合います。
  ただ、この創造の秘儀は、二元論的な思考の及ぶと所ではなく、それに触れるには、ある意味で、修行(あるいは信仰)が必要ではないかと思います。「愛のエネルギ- を注ぐ」というのもその一つなのでしょう。他にアドバイスがあればお教えくださ い。


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