アリスとチェシャ猫との対話(90)

440 猫: 私は、「百丈野狐」の公案を次のように理解しています。

 狐になっていた老人は、昔お坊さんであった頃、「悟った人も因果の法則に縛られるのでしょうか」ときかれて、「不落因果」(因果におちず=因果の法則に縛られない)と答えたために、狐の生を500回も繰り返す羽目になってしまいました。

 これに対して、百丈和尚は、悟った人は「不昧因果」(因果をくらまさず=因果の法則にしたがう)と答えて、狐になった老人の目を覚まさせることができました。

因果の法則に「縛られる」のと「したがう」のと、どう違うのでしょうか。それは、私たち人間が自然を征服(「征服」という言葉は好きではありませんが)してきた過程を見ればわかると思います。人間が自然を自分の思いのままに活用することができるようになったのは、自然法則に「反する」ことによってではなく、自然法則を理解し、それに「したがう」ことによって、なのです。人間が自然法則をよく知らなかった時代には、人間は自然に振り回されるだけでしたが、法則を知り、それにしたがうことによって、人間は逆に自然からの自由を獲得したのです。

私たちの人生における「より広義の因果法則」についても同じです。悟りを得ていない人は、因果の法則をよく知らないために、因果の法則に振り回されて、苦しみの人生を送ります。けれども、悟った人は、因果の法則をよく理解しているので、それにしたがうことによって、もっといえば、因果の法則を「利用」することによって、自分の人生を思いのままに運ぶことができるのです。

これが、この公案の前半の趣旨だと思います。

後半の部分は、私は次のように理解しています。弟子の黄檗が「もし老人が正しい答えをしていたら、何に生まれたでしょうか」とたずねたのに対して、師匠の百丈は「ここへ来い、あの老人のために言ってやろう」と言います。黄檗は近づくなり、いきなり師匠の頬をひっぱたきます。そして、二人は抱き合って腹を抱えて笑うのですが、私は、黄檗が師匠をひっぱたいたのは「やめときな、あのじいさんががっかりするやろうが・・・」というくらいの意味だと考えています。なぜなら、百丈が言おうとしたことは「やっぱり狐に生まれたろうな」ということだからです。狐になっていた老人は、自分が間違った答えをしたために狐の身分におとされたと思っており、いま正しい悟りを得てやっと狐から解放されて喜んでいるのです。それなのに、正しい答えをしても、やっぱり狐になっただろう、というのでは立つ瀬がないではありませんか。

悟りを得ていない人は、狐より人間の方がよいと思い、しかも因果の法則を知らないために、「自分の意志に反して」狐にされてしまったと思って苦しみます。けれども、悟った人は、狐に「される」のではなく、狐に「なる」のです。狐より人間がよいという思い込みもありません。そして、500回の狐の生を悠々と風流な遊びのひとつとして過ごすのです。公案の最後に無門和尚が付け加えた文があります。

「『因果に落ちず』でどうして野狐に堕ち、『因果をくらまさず』だと何故に野狐を離脱しうるのか。もしこの大切な一点を見抜く第三の眼を持つことができるならば、あの百丈山の老人も何のことはない、実は五百生という長いあいだを風流の中に生きていたんだと分かるであろう」(西村恵信訳『無門関』岩波文庫)

 私が「ジェットコースターから降りたこどもたちが、また乗りに行くかも知れない」というのも、同じ意味です。いま、私たちはジェットコースターからの降り方を忘れたために、ジェットコースターに縛りつけられた状態です。けれども、ジェットコースターから降りることができたなら、再びそれに乗ろうと、違う遊びに向かおうと、自由自在なのです。この「自由」あるいは「主体性」が霊性というものの本質だというのが、私がお伝えしたいと思っていることです。

 せっかく番号をつけていただいたので、それにそって、私の考えを述べて行きます。

@すべての行為や出来事に理由があるわけではない、と私が申し上げたのは、そこに自由意志がはいってくるからです。自由意志には理由はありません。理由があったら自由意志ではないのです。

自由意志とは、アリスさんの言葉を借りれば「神の好奇心」です。霊が「物質世界」をつくったり、「人間というゲーム」を始めたのも好奇心です。霊というのは神の分身であり、神の好奇心を受け継いでいるのです。

Aアリスさんが絵のモチーフをお決めになるのも、そのときにうごめく「神の好奇心」ではないでしょうか。

B輪廻とか業という言葉は、因果律に縛られている状態を指していると思います。さきほどの「百丈野狐」の話でお分かりいただけるかと思いますが、悟った人は、因果律に縛られるのではなく、因果律を利用して自由意志を遊ばせるのです。

C<肉体を持つことに意味があるのなら徹底的にその意味を知りたいと思います。>

 肉体をもつことの意味は、ひとりひとり違うと思います。それはその人(の魂)が、この人生で何をしようと計画したかによるのです。

D<愛とは何かを味わうために、来たのではないのでしょうか>

そのとおりです。けれども、愛の表現、愛の体験には無限のバリエーションがあります。地球世界というところは、光と闇の対比によって光を描き出そうとした世界だと、私は考えています。そのために、地球世界にはたくさんの闇が作り出されたのです。

地球はいままで夜の世界でした。闇の中で輝く「愛」の美しさを求めてきたのが、いままでの地球世界でした。数年前のコソボでの戦いのとき、川をはさんで向かい合った両陣営から若い男女が走りよって橋の上で抱き合い、両方の陣営から銃撃されて死亡するという事件がありました。このような「悲惨な愛」が地球の上で山のように作り出されてきました。戦争のような暴力的環境の中での愛、経済的、社会的あるいは人間関係の逆境の中での愛、逆に物質的な富や名声や権力の誘惑の中で歪められてゆく愛・・・それらはすべて、闇の中に輝く光を描き出そうとした霊たちの命をかけた表現だったのです。

私はホームページをつくるときに自分のハンドルネームを「夜明けの見張り人」とつけました。それは「夜明けを今か今かと待ち望む者」という意味です。出典は聖書です。

いま、私が「夜明けの見張り人」を名乗るのは、地球の夜があけ初めている、と感じるからです。地球にいる霊たち(私たち人間のことです)は、地球自身の霊といっしょになって、闇を背景としない光一元の世界を作り出そうと考えるようになっています。そういう霊たちが着実に増えていると、私は感じています。けれども地球の夜が明けるためには、「上がったり下がったりする」ジェットコースターから私たちが降りなければなりません。それは、私たちが霊としての自由を取戻し、因果律に縛られるのではなく、因果律を主体的に利用して、新しい世界を生み出してゆくということです。

 

441アリス: 百丈野狐で因果の話題がかなりクローズアップしてきました。猫さんが最初から取り上げたくて、これまでその出番のなかった自由意志の問題も登場して、新しい局面を迎えたように思います。

百丈野狐の公案にこだわる気はありませんしが(下手をすると私も狐になってしまいますので)ま少し続けさせていただきますと、後半の問いが黄檗が発したものであることを考えると、猫さんの<私は、黄檗が師匠をひっぱたいたのは「やめときな、あのじいさんががっかりするやろうが・・・」というくらいの意味だと考えています。なぜなら、百丈が言おうとしたことは「やっぱり狐に生まれたろうな」ということだからです。>の解は私にはしっくり来ません。黄檗の問いを発したり、叩いたりという激しい行動とそぐわないと思うのです。(このところの私の解は、弟子の黄檗は不昧因果の念押しをし、さらに、師匠の答えの先取りをしたのではないかと思います。不落因果、不昧因果とはこういうものだ。と頬を一打したのだと思います。)

この公案について、イギリス人R. H. Blythという人の書いたものを読んでみますと、ヨハネ伝9章の生まれながらの盲人の話を引いていました。

1)イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。 :2)弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 :3)イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。

(そのほか、The Wisdom of Solomon 8,20も引いています)

さて、私が意味とか理由を探る最大の理由は、猫さんの霊、アリスの霊というものがある意味で多少は持続するものという前提に立ち、それが、因果の支配を受けるであろうから、その因果の流れの中に理解できないかということでした。カーテンがゆれているのは風が吹いているからだと理解するように・・・

この霊の持続性というものがなければ、自由意志というものも意味を失うと思うわけです。猫さんに階層をお聞きしているのもこれに関係します。階層によって自由意志の度合いが異なっているのではないか?六道輪廻とか業はそのレベルを指しており、悟れば、この因果から自ら自由になり、また他をも開放することが出来る、と考えたわけです。

=神と階層を無視すれば、もはや何事も神のみわざ、何もする必要はないということになります。また、理由を求めることも意味がありません。

夜明けを待つまでもない。もし、そうでないなら、なぜ?

442 猫: 私はいまだにアリスさんの「なぜ?」の意味が理解できていないようです。それは引用された聖書の中の「彼の目が悪いのは、親のせいですか、彼自身のせいですか」という弟子たちの質問と同じなのでしょうか?

443アリス: いいえ。そうではありません。イエスがそれが「神のみわざ」とされているのにもかかわらず、イエス自身も癒しの行動を取っておられますし、猫さんも「愛エネルギー」の密度を上げるとか、夜明けを待つとかされているわけでしょう。「神のみわざ」なら十全のはずですし、もう何もしなくてもよいのではないでしょうか?公案の狐も放置しておけばよく、済度する必要もない。

何のためにそうするのか?その結果どうなるのか?これは、他の私の一連の「なぜ?」に共通しています。なぜ絵をを描くのか?神の遊びで、それ以上追求することは無理ということが分かれば、この「なぜ」という疑問が止まる性質のものなのでしょうか?

存在の階層や因果や自由意志や色んな方便を介して、「なぜ?」を理解しようとしているのですが、私自身が十全でない証拠だと思っています。「達磨がインドからはるばる来たのは何のためか?」これがまだ分かっていないのです。

444 猫: まず聖書の話から入りますが、イエスは、この盲人の「目が見えないこと」を指して神のみわざと言ったのではないと、私は解釈しています。盲人の目が癒されることが神のみわざなのです。もっと言えば、目が見える状態が神のみわざであるのです。イエスは盲人を癒して、目が見えるようにしました。つまりイエスは、神のみわざが現われていなかったところに、神のみわざが現われるようにしたのです。

では、弟子たちの質問に対して「神のみわざがあらわれるためである」と言ったのはどういう意味でしょうか。神は、イエスに奇跡を演じさせるために、わざわざ盲人を作ったということでしょうか。もちろん、そうではありません。「この人の目がみえないのは、本人のせいですか、親のせいですか」という質問は、因果律の中での原因を尋ねています。それは過去を尋ねることです。けれども、イエスはそれに答えることを拒否しました。過去に原因を探るのではなく、その状態からどうやったら脱出できるか、という未来のほうに目を向けなさい、というのがイエスの返事の意味だと私は思います。「神のみわざが現われていないのはなぜか」ということではなく、「神のみわざをどうしたら現すことができるか」ということだけにに目をむけなさいということです。そのためには神を信じなさいというのがイエスが奇跡を通して教えたことです。

神を信じる者には神のみわざが現われます。なぜなら、神を信じる者は神のなさることも信じるからです。神を信じないものは神のみわざも信じません。だからそこには、神のみわざでない姿が現われるのです。人はすべて自分の信じるものを体験します。これが宇宙の大法則です。狐の公案が不落因果、不昧因果と教えた因果律もこのことだと私は考えています。

いま地球は神のみわざでない状態にあります。いわば地球は「夜」の状態にあります。これが私が夜明けを待つ理由であり、愛のエネルギーの話をする理由です。愛のエネルギーの密度を上げれば夜が明けることを、私は知っているからです。

 では、なぜ地球は「夜」の状態にあるのか。それは地球人類である霊たちが、自分で作り出したからです。なぜ霊たちは「夜」を作ったか、それは暗闇というものを体験してみたかったからです。なぜ暗闇を体験したかったか、それは霊たちの好奇心です。

 霊たちが地球の夜を作り出しているあいだ、神は何をしていたのでしょうか。なぜ、止めなかったのでしょうか。止める必要がないからです。霊たちは神自身が生み出したものであり、それは自由意志に基づいて行動し、あらゆることを体験するのが存在目的です。神はそのために霊たちを生み出したのです。

 したがって、神は霊たちが「夜」を体験したいといえば、それを止める理由はありません。むしろ、それに手を貸します。夜を十分に体験した霊たちが、そろそろ昼の世界に戻ろうと望んだら、神は霊たちが昼の世界に戻るのに手を貸します。これで、神と霊たちの関係がご理解いただけるでしょうか。

 ただし、神は手を貸すだけで何もしないわけではありません。神が創った完璧な世界は別にあります。それが「昼の世界」です。もちろん、霊たちはその世界で暮らすこともできます。実際、地球の時間では測れない昔に、私たちはそこに住んでいました。けれども、霊たちはそこから離れる自由ももっています。霊たちは「昼でない世界」を自分で作り出して遊ぶ自由をもっています。これが、私たちがいま「神のみわざでない」世界に住んでいる理由です。

 始めの聖書の話に戻りますが、この話は、ただひとりの盲人の話ではありません。目が見えないこの人は、現在の私たち人間全部を代表しているのです。聖書の別の個所に、イエスがパリサイ人(びと)と呼ばれる貴族階級の人に向かって、「あなたたちは自分は目が見えると思っているが、そこにあなたたちの罪があるのだ」と言っています。人間はいまみんな目が見えていないのです。それは神が創られた世界を見ていないという意味です。イエスがこの盲人の目を癒されたのは、イエスが「全人類の目が見えるようにする」ことを自分の使命だとしておられたことの象徴であると、私は考えています。

445アリス:私は明らかに聖書の語句を読み違えていました。イエスは盲人=神のみわざと言われたものと思い込んでいました。これは、一切のものは神のみわざとするアリスの金太郎飴説に基づいています。従って、質問を遡る必要があります。ご面倒でもお付き合いをお願いいたします。

442 猫: 私はいまだにアリスさんの「なぜ?」の意味が理解できていないようです。それは引用された聖書の中の「彼の目が悪いのは、親のせいですか、彼自身のせいですか」という弟子たちの質問と同じなのでしょうか?>はい。同じ質問です。なぜ、イエスはそのことに答えなかったのでしょうか?盲人であることも不昧因果ではないでしょうか?

444でその答えの一部があります。猫さんも因果の流れの中での説明は癒しを妨げるものとされるのでしょうか?それとも不落因果で、因果を超越した世界なのでしょうか?

「夜の世界」「昼の世界」の喩えはそれなりに理解できます。昼の世界に返らないのは、夜の世界がまだまだ面白いということになりますね。

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