アリスとチェシャ猫との対話(89)

432 猫: <この話はイリュージョンの話ですね。イリュージョンを存在さる意思が愛だとして、なぜ、それを存在させなければならないのでしょうか?>

別に存在させなければならないという理由はありません。すべては神の遊びと申し上げたように、神は存在させたいからさせているだけです。存在させなければ、存在しない・・・ただそれだけです。

 それから、「イリュージョン」という言葉で、何か価値の低いものを想像しておられるようですが、イリュージョンでないものは何もありません。すべては神のイリュージョンです。神自身はイリュージョンではありませんが、それは純粋の思考力であって、形も色もにおいもないわけですから、おもしろくもなんともない・・・それはいわば神が眠っている状態で、神が活動すれば必ずイリュージョンが発生します。それが神の遊びの世界です。私たちが知っているあらゆる価値は、神のイリュージョンの中にあります。

 私が「霊」と呼ぶのは、神のイリュージョンによって生まれた存在ですが、それ自体がまたイリュージョンを発生させる力を持っています。霊が作り出したイリュージョンは、いわば、イリュージョンのイリュージョンです。イリュージョンの二乗です。同様にしてイリュージョンの三乗、四乗もあるだろう、というのが「存在の階層」論です。

 人間は、コンピュータのゲームや、映画や文学の中に、たくさんの仮想現実を作り出して楽しんでいます。そのような仮想現実にとらわれていない時には、物質世界の「現実」があります。

 この物質世界は霊が作り出した仮想現実です。私たちが、物質世界という仮想現実から覚めたときには、自分を「霊的存在」として自覚することになります。そのときは、霊の世界が「現実」になります。おそらく、この霊の世界というのは、それよりさらに「上」にある超霊が作っている仮想現実でしょう。私たちが「霊の世界」という仮想現実から覚めるときは、私たちが超霊を自覚するときです。・・・一番上まで行けば、神に到達するでしょう。けれども、神がすべてのイリュージョンから覚めるときには、すべてが消滅し、神自身は眠りにつくのです。魔法のような話ですね。

<「恐怖」のお話は唐突な感じがいたします。「恐怖」も実は「愛」であるというお話になるのかもしれませんが>

 創世記にあるように、創られたものを「よし」と認め、「そのように存在せよ」と意志するのが愛です。「これはこわいんだぞー」といって作り出すのが恐怖です。存在の意思表示という意味でいえば、恐怖は愛の一種です。けれども、これはマイナスの価値をつけて作り出す、いわばマイナスの愛です。なぜ、そのような怖いものを作り出すのかといえば、それも遊びです。人間はなぜ、恐怖映画や暴力映画を作りたがるのでしょうか。おもしろいからではないですか。霊も、同じように、冒険を求めて、光と闇の交錯する世界を作り出したのです。

433アリス: 腸閉塞で10日間入院していまして、しばらく、間が開きました。回復しましたので、対話を続けさせていただきたいと思います。ここしばらく、私の意識の中には、霊性回復の道筋として、<心に「愛」を満たす>409に焦点が当てられています。

愛のエネルギーの話になり、<創世記にあるように、創られたものを「よし」と認め、「そのように存在せよ」と意志するのが愛です。>というところまで来ています。ところが、「恐怖」の話が出てきて、<霊も、同じように、冒険を求めて、光と闇の交錯する世界を作り出したのです。>ということになると、霊性に帰るということの意味が分らなくなります。

「光あれ」と言うことが愛であって、「よしgood」と認めることは、2次的なものではないでしょうか?たち現れるあらゆるものが「よし」でなければならないと思いますし、創世記の神は人に善悪(the knowledge of good and evil)の木の実を食べることを禁じておられます。猫さんの「存在の階層」論を前提として、創世記の記述がどのレベルを指しているのかをお聞きすべきかも知れませんが、当面、猫さんの描かれる存在の階層の中で、現在より一つ上のレベル、霊性への回復の道筋として、なぜ「愛」なのか、を含めて、「愛」をもう少しお話いただけませんか。

434 猫: 話を単純にするために、存在の階層を三つだけ考えることにします。一番上が「神」、二番目が「霊」、三番目が「人間=物質世界」です。「霊」の階層を作り出したのは神であり、「人間」の階層を作り出したのは霊たちです。

神が「霊の階層」を作り出したとき、作り出されたものはすべてgood でした。次に、霊たちが物質世界を作り出したわけですが、霊たちはそのとき別の原理を導入しました。それは「二元性の原理」です。私たちの世界はすべてのものが二元性の対立の構図から生み出されてきます。陰と陽、光と闇、創造と破壊、生と死、男と女、過去と未来、上昇と下降・・・あらゆる価値が二元性の構図の中で規定されています。私たちの世界には絶対的価値というものは存在しません。善と悪も、愛と恐怖も、すべてこの二元性の中に位置付けられています。

神は霊たちを作り出したとき、すべてを「よし」としました。ということは、霊たちのすることもすべて「よし」なのです。霊たちが、二元性という原理を用いて、物質世界を作り出したこと自体が責められるわけではありません。神が創った世界は一元性の世界であり、霊たちが創った世界は二元性の世界です。異なる原理によって異なる世界が創られ、それによって異なる表現と体験が得られるわけです。

霊の世界は神が創った一元性の世界です。そこを支配する原理は「愛」だけです。霊がその世界に住みつづけるためには、自らの意識を「愛」一元にとどめておかなければなりません。私が「愛」を心の中に完全に満たせば、霊性に帰ることができるというのはそういう意味です。

では、なぜ、私たちは霊性に帰る必要があるのでしょうか。

実は「必要」はありません。帰りたくない人は帰らなくてもいいのです。以前にも申し上げましたが、釈迦やキリストが地上に降りてきたのも、私がこのようなメッセージを発信しつづけるのも、「帰りたいけど帰れない」という人のためなのです。

何が起っているのかを、別のたとえでお話しましょう。いろいろなたとえを使いすぎると思われるかも知れませんが、どれかひとつのたとえだけを使うと、今度はそのたとえに思考が縛られてしまいます。できるだけそうならないようにしたいので、いろいろなたとえをお話するのです。

天国(あるいは極楽浄土)にジェットコースターが作られたと想像してください。神の子や仏の子たちが遊びに行きました。ジェットコースターは上がったり下がったりします。上がるときには、子供たちは爽快な喜びに興奮します。下がるときには、奈落のそこへ落ちるような恐怖を感じて悲鳴をあげます。これが二元性の世界です

ジェットコースターに乗って遊ぶことは別に悪いことではありません。遊びたければいつまでも遊んでいればいいのです。けれども、地球世界というジェットコースターにはちょっと特殊な性質があります。あまりに長いこと遊んでいると、そのうちにこのジェットコースターだけが唯一の世界であるかのように信じ込んでしまい、降り方も、降りるという概念自体も忘れてしまう、という性質です。ジェットコースターは無限に走りつづけます。降りることを忘れた子供たちは、無限に上がったり下がったりを繰り返しています。

それを見て、憐れに思ったのがお釈迦様やキリストです。降りたいなら降りる方法を教えてあげよう、というのがこれらの霊的指導者の教えなのです。「降りたいなら」ですから、決して強制ではありません。仏教では「発菩提心」というのを大事にします。キリストは「聞く耳あるものは聞け」と繰り返し言われました。これらの言葉は、心の内に、この世というジェットコースターから降りたいという願いが芽生えているかどうか、ということを大事にしておられるのだと、私は考えています。

ジェットコースターを降りた子供たちはどうするのでしょうか。天国にはジェットコースター以外の遊びがたくさんあります。神の子たちは、また他の遊びを始めることでしょう。なかには、もう一度ジェットコースターに乗りに行く子もいるかもしれません。それはそれでかまわないのです。何しろ、神の子たちには、遊ぶ以外にすることはないのですから。

 ひとつのたとえに縛られないために、もうひとつ別のたとえをお話します。

 神によって創られた霊たちは、ひとつの冒険をはじめました。それは自分たちの世界に満ち満ちている「愛エネルギー」の密度をどんどん薄くしていったら何が起るだろうか、という実験です。

 そこで、霊たちは地球というひとつの世界をつくり、そのエネルギー密度をどんどん下げていきました。エネルギー密度を下げれば、温度が下がります。やがて水が凍って氷になるように、世界は相変化を起こします。地球の上の寒いところで水と氷が共存しているように、善と悪、光と闇、天使と悪魔が共存する二元性の世界が生まれます。これがいま、私たちが体験している「この世」の姿です。

 温度を下げた結果生まれたのが現在の世界であれば、温度を上げれば元の世界に戻ります。もちろん、世界全体のエネルギー密度を上げるのは、すぐにはできないかも知れませんが、幸いなことに、自分だけでもエネルギー密度を高めれば、自分は寒くなくなります。しかも、自分から流れ出す愛エネルギーを世界に分け与えることができます。これが心の内に愛を満たせば、霊性に帰るという原理です。世界を暖めるためには、先ず自分が暖かくならなければならないのです。

435アリス: 猫さんの存在の階層が少し理解できた気がします。

霊たちが物質世界を作り出したわけですが、霊たちはそのとき別の原理を導入しました。それは「二元性の原理」です。私たちの世界はすべてのものが二元性の対立の構図から生み出されてきます。><霊の世界は神が創った一元性の世界です。そこを支配する原理は「愛」だけです。霊がその世界に住みつづけるためには、自らの意識を「愛」一元にとどめておかなければなりません。私が「愛」を心の中に完全に満たせば、霊性に帰ることができるというのはそういう意味です。>二元性の話はこの対話では初めてですが、これは分る気がします。善悪の木の実を食べる前と後ということでしょうか。

仏教では、「至道無難、唯嫌揀択」(道に至るのは難しいことではない。ただ、選り好みをしなければ良い)という言葉があり、これを聴いただけで、悟った人が何人かいます。

二つのたとえ話は、大変ユニークで、この23日、心の中で反芻してみました。ジェットコースターから降り、愛エネルギーの実験を止めれば、元に返れそうですが、どこか私には、ぴったり来ないものがあります。

霊たちの遊びと言えば、そうなのかもしれませんが、たとえ話のジェットコースターも愛エネルギーの過程も霊たちが作ったものではありませんね?また、霊たちが遊びや実験を始めるにはそれなりの理由のようなものがあったのではないのかと思うわけです。

愛エネルギーの密度が低いからこんな考えをするのかもしれません。

436 猫: <善悪の木の実を食べる前と後ということでしょうか。>

 その通りだと申し上げてよいかと思います。

<霊たちが遊びや実験を始めるにはそれなりの理由のようなものがあったのではないのかと思うわけです>

アリスさんは、以前から「理由」を捜し求めておられるようですが、私には、アリスさんが何を探しておられるのかがよく理解できていないようです。アリスさんが期待されている理由というのはどんなものなのでしょうか。いくつかサンプルをお示しいただけると理解の助けになると思いますが。

437アリス: 自分でも良く分からないのですが、何か理由がありそうに思うのです。

例えばジェットコースターの例で、霊たちはまた同じことを始めるとか、別の遊びを始めるとか仰っていましたが、ある時は雲になり、ある時は鳥になり、その階層を味わうのだと思うのですが、どんなきっかけで人間というゲームを始めたのでしょうか?

仏教的な考えでは、輪廻とか業という考え方でこれを説明しようとします。原因と結果の連鎖の中で捉えるので、例えば、現在生きていることはよりベターなものへのステージと考えられます。ですから努力が意味あるものとなります。(どんな努力が良いのか大問題だと思いますし、それは「愛エネルギー」の密度を上げるため、何かすることかも知れません。)何度も人間というゲームをするのかもしれませんが、よりベターのゲームをしたいと思っています。

別の観点から考えますと、二元性の一つの基礎を提供していると思われる物質、肉体を消滅させれば、霊に帰るのだということも考えられます。ほとんどの宗教はこれを勧めていませんが、(焼身自殺、自爆テロなど肯定する一派もあるようですが)それなら、生きて何をするのかということになります。

猫さんの場合、霊に帰ることが生きている意味とされていますが、人間となったことの理由が分からなければ、帰ることの理由もつかめないのではないでしょうか。 

「なぜ夢を見るのか」の問いに近いかもしれません。夢から覚めれば、そんな詮索は無用のことかもしれませんが、理由が分からなければ、また、夢を見ることになるような気がします。

今、私の心に去来している思いはこんなところです。漠としていますが・・・

438 猫: 少しソクラテス的な質問をまじえてお答えします。

 @<自分でも良く分からないのですが、何か理由がありそうに思うのです。>

 あらゆる行為、あらゆる出来事に理由があると考えるのは、三次元の物質世界の論理であると、私は考えています。そのように考えると、因果律の外へ出られなくなります。輪廻のわなにとらえられて、永遠に抜け出せないでしょう。

 以前に、私が「なぜ?」という質問には終わりがない、と申し上げたことを憶えておられますか。「その理由は何か、その理由は何か・・・」といくら遡っても終わりはありません。終らせるためには「最初の理由」がなければならないのです。

アリスさんは「最初の理由」があると思われるでしょうか。あるとすれば、それは何だとお思いでしょうか。

A<どんなきっかけで人間というゲームを始めたのでしょうか?>

アリスさんは、絵の題材をお決めになるとき、どのような理由でおきめになるのでしょうか。今度は風景にしよう、今度は裸婦にしよう、今度は静物にしようというのは何によって決まるのでしょうか。スケッチの場所を選ぶのに、今度は軽井沢にしよう、今度はパリにしよう・・・というのは、何によってきまるのでしょうか。あるいは、そもそもどういうきっかけで絵を描こうと思われたのでしょうか。

 B<仏教的な考えでは、輪廻とか業という考え方でこれを説明しようとします。>

 本当にそうでしょうか。輪廻のわなに捕らえられているのは、悟りを得ていない人のことです。では、悟りを得た人(霊性を回復した人)はどうするのでしょうか。もはや、この世に生まれては来ないのでしょうか。

無門関の第二の公案「百丈野狐」に取組んでみられることをお勧めします。とても、おもしろい公案です。

(以前に「南泉斬猫」の公案を解説して反省いたしましたので、公案の解説は対話の中では書きません)

 C<二元性の一つの基礎を提供していると思われる物質、肉体を消滅させれば、霊に帰るのだということも考えられます。>

 自殺しても何も変わりません。私たちが、ある人生を選んで、ある肉体の形に生まれてくるのは、その人生を通じて「何かをしたい」と考えるからなのです。それは何かを学ぶためであったり、何かを表現するためであったり、何かを楽しむためであったりします。それはアリスさんが絵を描かれるときの気持ちとそれほど変わらないのではないかと思います。

 アリスさんは、描きかけた絵を途中で止めて、新しく描き直されたことはないでしょうか。自殺をするということは、当初目的とした事業を途中で放棄するということです。そうしたら、その魂はいずれ別の人生を作り出して、また同じテーマに取組もうとします。

霊は人生というカンバスを用いて絵を描いているのだ、とも言えると思いますが、こういう言い方でアリスさんにお分かりいただけるでしょうか。

D<猫さんの場合、霊に帰ることが生きている意味とされていますが、人間となったことの理由が分からなければ、帰ることの理由もつかめないのではないでしょうか?>

私は、霊が人間になったのは、自分が霊であることを忘れるという体験をしたかったためだと考えています。そのことは、これまでに何度もお話したつもりです。霊は、自分が霊であることを忘れ、それから今度は霊であることを思い出す、という体験をしようと考えたのです。

ちょうどいまは夏です。あちこちで「お化け屋敷」が繁盛する季節ですが、お化け屋敷に入る人たちは、何をするために入るのでしょうか。それは、恐怖を体験し、恐怖に負けない自分を確かめ、そして暗闇から光の中に出てくる喜びを体験するためです。

物質世界は、霊たちの「お化け屋敷」である、というのが私の考えです。

439アリス:「百丈野狐」のお話が出たので、それから始めたいと思います。この公案をご存じない方がおられると思いますが、その方は一応埒外の人として、話をすすめさせていただきます。私の猫さんへの問いかけもこの公案を軸とすれば、話が早いと思いますし、猫さんと私の受け止め方が大変異なるのことを示すのではないかと思います。

狐は悟ると「不落因果」と思ったのですが、実は、「不昧因果」(因果をくらまさない。お釈迦さんもこの埒外にあるものではない)という一面を見逃したため、500年狐のままでいたわけです。この因果は自然科学的因果律を含み、さらに、それよりも大きなものと考えますし、また、時間の経過の共に進展する類のものとも異なると思いますが、その中の一部に輪廻とか業があると思います。そのことが狐には分らなかった。百丈和尚の弟子、黄檗は「この狐が正しい答えをしていたらどうなのか」と詰め寄ります。百丈和尚が「近こう寄れ、答えを教えよう」というと、黄檗は近づき、師匠の横っ面をぶん殴ります。黄檗は師匠の答えを先取りしたのですが、師匠は喜びました。「不昧因果」とは現前している姿だという訳です。これが「百丈野狐」の私の受け止め方ですが、猫さんとの距離があるのではと思います。さて、順番に私の思いを記してみたいと思います。

@輪廻は因果の世界の一つですが、因果の世界そのものではありません。そう考えるのは狐が誤った考えと同じです。霊―人間の世界では明らかに因果律が働いており、だからこそ、私は、何故、今、このようなことをしているのか、問うことが出来ると思ったわけです。

 神―霊のレベルで「最初の理由」は何かと問われればそれは、前にも述べましたように、神の好奇心としか言いようがないと思います。

A絵のモチーフを選ぶ過程は、よく分りません。もっと遡れば、何故。絵を描くのかも、よく分りません。そうぜざるをえない何ものかがあるようです。それは、何か気まぐれな遊びとは異なるように思います。何かを確かめようとしているようにも思えます。

B一挙に神のレベルに立ち返ればそうかも知れません。猫さんの階層論により、霊を見ると、なお、因果の中にいると言っていいのではないでしょうか?というのはこの霊は再び人間に戻る可能性があるからです。

C人間=物質という枠組みを離れるには、自殺も有効ではないかという疑問でした。

もし、肉体を持つことに意味があるのなら徹底的にその意味を知りたいと思います。

絵の場合も、何を描くのか自分でもはっきりしないと描き続けても意味がないのかもしれません。しかし、本人は、何を描いて良いか分らなくないことがよくあります。さて、どうすべきか?

D猫さんのお答えは、何度も出てきていて、理解できます。

ただ「お化け屋敷」(ジェットコースターも同じですが)の比喩は私にはピンと来ません。愛とは何かを味わうために、来たのではないのでしょうか?


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