アリスとチェシャ猫との対話(88)

420 猫: <今、猫さんは「生きる意味」についてどうお考えですか?>

 「すべては神の遊びである」というのが私の答えです。私たちは、乗り放題券をもらって遊園地に遊びに行った幼稚園の子供のようなものです。そこにある遊具を使って、好きなだけ遊んでいいのです。楽しい人生を送ろうと、苦しい人生を送ろうと、神からとがめられることはありません。

とがめあうのは、子供たち同士のあいだだけです。「あ、お前、おかしい」「そんなことしちゃだめだ」と子供同士は言い合います。けれども、神から見れば、小さく縮こまった人生を送ろうと、大きくのびのびと広がった人生を送ろうと、まったく自由です。私たちはこの地球の上に生きているということだけで完璧である、それ以上に何か付け加えなければならないものは何一つない、というのが私の考えです。

<何か目的をもって生きておられますか?>

 私の現在の目的は、霊性を回復することです。これは「人間は本来霊的存在である」ということと矛盾するように聞こえるかも知れませんが、私たちはいま、自分の本質を忘れるゲームをしています。そしてそのゲームの最終目的は、忘れた本質を思い出すことなのです。迷路に入るのは迷路から出るため、という話を以前にしたと思います。

 霊的存在としての私たちの生命には終わりはありませんが、そのときどきのゲームには必ず終わりがあります。ひとつのゲームが終れば、私たちはまた次のゲームを始めるでしょう。「すべては神の遊び」なのですから。

421アリス: <私の現在の目的は、霊性を回復することです。>と言うことですが、猫さんの喩えで言うと、猫さんご自身が今のゲームを切り上げようとしているだけですか?それとも今のゲームをしている人たちにも、そのゲームを切り上げるよう仕向けることも含んでいますか?後者だとすれば何故でしょうか?

422 猫: 私の返事を差し上げる前に、アリスさんにお尋ねしたいと思います。「いかなるかこれ、祖師西来意」という言葉が公案によく出てくるようですね。西来意は仏教の奥義ということのようですからここでは問わないことにしますが、達磨大師がはるばるインドを離れ中国にまで仏教の奥義を伝えようとした理由は何でしょうか。

423アリス: 自分を済度するためだと思います。先の喩えで言うと、自分だけゲームを切り上げることが出来ないからだと思います。

424 猫: 私のしようとしていることも達磨大師と同じです。

 自分を救う(済度する)ことと他人を救うことは同じです。私だけがゲームを切り上げるというのと、他人にゲームを切り上げるよう仕向けるということは同じことなのです。宇宙は循環しています。他人を愛することは自分を愛することであり、自分を愛することは他人を愛することです。

 したがって、<猫さんご自身が今のゲームを切り上げようとしているだけですか?それとも今のゲームをしている人たちにも、そのゲームを切り上げるよう仕向けることも含んでいますか?>と質問されたふたつの選択肢は、私にとっては区別がありません。

 私のホームページ「霊性の時代の夜明け」の「エノクの会の第1回 オリエンテーション」には次のように書いています:

自分を救うことだけに集中してください。誰も他人を救うことは出来ないし、その必要もありません。宗教改革のマルチン・ルターが残した言葉の中でもっとも重要な言葉は、『万人祭司』ということばです。祭司というのは、神と人間との間を取り持つ人のことです。ルターの言葉は、すべての人が自分自身の祭司であるということなのです。誰も他人の祭司になることは出来ません。誰かがあなたの祭司になってくれるということもありません。

 イエスは「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、ほかのものはすべてつけて与えられるであろう」と言われました。神の国と神の義(この言葉の意味はいずれこの会でお話します)とを自分に求めてください。そのようにして自分自身が完全に救われたときに、他の人が救われるということも付け加えて与えられるのです。」

 ホームページに書いたことは、ちょうどいまの達磨の話と逆の書き方をしています。自分が完全に救われたときに、他人も救われるのです。なぜこのような書き方をしたかというと、一般に信心深い人たちは、自分のことは放っておいて人を救うことに一生懸命になるからです。そうするのが正しい信仰だと思っているのです。

けれども、自分を救わずに人を救うことはできません。逆に人を救わずに自分を救うことはできません。なぜなら、他人と自分という区別自体が幻想だからです。

 

 これで 421 の答えになったでしょうか。

425 アリス: 多少理解できました。猫さんがゲームを切り上げようとして、先ず、されたことは何でしょうか?

達磨さんは中国へ渡り、面壁9年ということだったようですが、達磨さんのお気持ちは分かりますか? 多くの場合、辻説法などで呼びかけたくなるのではないかと思うのですが・・・

426 猫: ご質問を受けて、ある伝説を思い出しました。人の名前などをみんな忘れてしまうので迫力がありませんが、やはり中国の著名な禅僧の話です。彼は若いときに、ある地方に行って布教しなさいと言われ、目的の土地にやってきます。彼は黙ってその土地の山に入り、庵を結んで、そこで座禅を始めます。彼は7年間、そこで座り続けましたが、誰も尋ねてきません。宣伝も何もしないのですから、現代の私たちが考えると当たり前なのですが。

彼は、ついに「この土地はよくない」と見切りをつけて山を降りようとしました。ところが降りていく途中に虎が出てきて道をふさぎ、人間の言葉で口をきいていいました。「あと3年辛抱しなさい」。そこで彼はまた庵に引き返し、さらに座りつづけました。3年目に一人の旅の僧が通りかかり、一夜を過ごしていきました。それからまもなく、この庵に次々に人が尋ねてくるようになり、やがて大きな寺に発展したそうです。

 

「弟子に準備ができたときに師があらわれる」というように、このようなことは自分(エゴ)の小さな計らいで何か起こそうと思っても起るものではありません。自分の心の状態が整えられたときに、自然に宇宙が動き始めるのです。私は大きな仕事がなされるときというのは、個人の意志に宇宙が共鳴するときだと考えています。宇宙が共鳴しなければ、個人の力だけでは何も動きません。達磨さんは、宇宙と共鳴するまでに心を整えるのに9年かかったということだと思います。

私は、410でお話した心内体験のあと、既存の宗教が神の姿を正しく伝えていないという理由で、心のうちに宗教批判を持ち続けていました。このような思いは当然「自分が伝道者になったらどうか」という思いにつながります。私は会社勤めを続けながら、心の片隅にその思いを絶えず持ち続けていました。

私がなぜ伝道者にならなかったかというと、私は、伝道者になってよい人間はある基準を満たしていなければならないと考えていたからです。当時の私は、自分で定めたその基準に合格しませんでした。その基準というのは、知識や思想や観念がどうということではなく、心が実際に変化し、ある一定の状態に到達することです。

私の場合、それが起ったのは5年半ほど前、当時通っていた小さな教会で、年に2〜3回発行される機関紙に、原稿を求められたのがきっかけでした。始めは1回だけのつもりで書いたのですが、結局3年ほど続け、十数回にわたって書きつづけました。小さな集団の内輪の発表ですが、私としては、このテーマについて他人に向けて発信した最初のメッセージでした。私は、この機関紙に書きつづけている間に、このメッセージを世に伝えるのが自分の使命だと感じるようになりました。私は、「伝道者になる」ことを考え始めてから、自分がその基準を満たしたと認めるようになるまでに、40年かかったのです。

その後、事情があってその教会を離れ、今度は自分で小さな集会を始めました。これは現在まで2年半ほど続けています。それが「エノクの会」です。そこで話した内容はすべて、私のホームページ「霊性の時代の夜明け」に掲載しています。

そして、エノクの会を始めるのとほぼ同時にアリスさんのお誘いを受け、この対話を始めました。

このように、心が整えられると、次の段階が自然に始まって行きます。けれども、その流れに、少しでも私意をはさもうとすると、とたんに流れがおかしくなるのです。そのことについては、いずれまた、お話することもあるかと思います。

427アリス: 猫さんの心の遍歴についての質問を続けます。第三のポイントで、<霊性のみが真実の存在であり、物質世界は、いかに壮大であり、いかに現実感に満ちあふれていようとも、霊性が作り出すバーチャルな世界に過ぎない。>ことが分かったわけですが、これはいわばコペルニクス的転換で、これこそ猫さんが、皆に訴えたいことだと思いますが、この転換に達したとき、どんな感じがしましたか?

428 猫: 以前にお話しましたが、私はその頃、コンピュータによってバーチャル・リアリティ(仮想現実)を作り出すことを目指している研究部隊のリーダーでした。バーチャル・リアリティといっても、当時の研究は視覚をだますことだけに集中していましたから、目で見てどんなに本物らしく見えても、手で触ってみればそれがまったく存在しないことがわかるというような代物だったわけです。

 そのような研究の指揮をとりながら、あるとき、人間の感覚のすべてに適切なバーチャル信号を与えることができたらどうなるだろうか、と考えました。そして、「そうしたら人間はバーチャルかリアルかをまったく区別できないだろう」ということに思い至ったのです。その瞬間、思わず身震いが出ました。「そうなんだ!」というのが私の最初の感想でした。そのとき私の頭に浮かんだのは「色即是空」という言葉でした。アリスさんは、空という言葉について別の解釈を持っておられるようですが、私は今でも色即是空とは「現象界は幻覚(イリュージョン)である」という意味だと解釈しています。それは虚空に浮かぶ蜃気楼のようなものです。ただ、人間(肉体)が見るイリュージョンではありません。それなら単なる精神異常に過ぎません。人間ではなく、「霊」が見るイリュージョンであるというところが重要なのです。そして、肉体がイリュージョンである以上、人間は肉体ではあり得ません。人間自身はそのイリュージョンを見ている「霊」のほうなのです。

 私の頭の中(心の中?)で、あらゆる物がカタカタと音を立てて動き、一瞬の間に、世界の姿が再構築されました。それまで、読みかじり、聞きかじって溜め込んでいたあらゆる宗教的・哲学的知識の断片が、一気にあるべき位置に滑り込んだという感じでした。あらゆるものが落ち着くべきところに落ち着いたという、一種の安堵感があったともいえると思います。

429アリス: やはり、すごい体験ですね。もう少し、その体験について語ってください。

あらゆるものが落ち着くべきところに落ち着いたという、一種の安堵感があったともいえると思います。>ということですが、その安堵感はずっと続いたのでしょうか?

それとも、感じられる時があったり、なかったりするのでしょうか?

それと、先ほどの愛のエネルギーの説とはどう関連するのでしょうか?

430 猫: 安堵感はずっと続いています。ますます強くなると言ってもいいと思います。「物質界は霊が見ているイリュージョンである」という立場から見ると、いままで何か隔靴掻痒の感があった聖書や経典の言葉が、ひしひしと身に迫って「真実である」と実感できます。

 誤解のないように言っておきますが、この安堵感は「世界観が落ち着くべきところに落ち着いた」という意味であって、その中で実際にどう身を処していくかということになると、私もさまざまな世間の波にもまれれてうろうろすることがあります。そちらのほうは、自分が作り出すイリュージョンを自分が実際にどれくらいコントロールできているかということによって決まってくるわけです。

 愛のエネルギーについてお話しする前に、もうひとつお話することがあります。「物質界がイリュージョンだとすると、一体存在するものは何か」という問題です。霊が存在してイリュージョンを見ているわけですが、では「霊とは何か」となるわけです。

イリュージョンを見るわけですから、それは少なくとも思考や想像ができる能力を持っていなければならないわけです。けれども、何かが思考力を持っているとなると、「その何かとは何か」となって堂堂巡りになります。そこで、私は「何かが思考力を持っているのではなく、思考力だけが存在するのだ」と考えます。私が「神は純粋の意識である」「霊も純粋の意識である」というのは、そういう意味です。このことはホームページ「霊性の時代の夜明け」のあちこちに書いていますが、もっともわかりやすいのは「霊性の時代とは」という項目だと思います。お暇な時に目を通してください。

それでは、愛エネルギーの問題に入ります。

霊は、自らの思考力によって想像したものを「これは実在である」と認めることによって、それを実在として感じるようになります。これが霊の生み出す仮想現実のメカニズムです。

実は、これは、私たち人間(肉体)がつくっているさまざまな仮想現実と同じメカニズムです。たとえば、テレビの画面はひとつの仮想現実です。いま、そこで一人の人気歌手が歌っているとします。私たちは、テレビの小さな箱の中に歌手がいるわけではないと知っています。けれども、私たちは蛍光物質の光点のパタンを見て本物の歌手だと「考え」、スピーカーという機械が作り出す音を歌手の声だと「考えて」、その歌謡ショーを楽しむのです。

 同じように、思考力そのものである霊は、それが想像したものを「これは実在である」と自分自身に宣言することによって、自分にとっての実在を生み出すのです。この「これは実在である」という宣言は、いわばその対象を「存在させる意志」の表示です。私は、この「存在させる意志」が「愛」であると考えています。

 旧約聖書の最初にある創世記に、ご存知のように「天地創造」の物語があります。その中で、神は次々に生み出されたものを「よしと見られた」という記述が出てきます。

神は言われた。

「光あれ。」

こうして光があった。神は光を見て良しとされた。

という具合です。

 この「良しとされた」ということが、その対象に対する「存在せよ」という意思表示であり、これが万物に対する神の愛なのです。

 聖書に「神は愛なり」という有名な言葉がありますが、これも上のように考えるとまったく当然のことであることがわかります。神は最も根源の思考力であり、その思考力が想像して生み出したさまざまなものに、「よし、そのように存在せよ」という意思表示をされている。それによって、万物は神の意識の中に、神の想像の中に、存在しつづけることになります。存在させようとする意志が愛であるなら、万物を存在させる神は愛そのものであるわけです。

 けれども、物質界を作り出したイリュージョンのレベルでは、想像されたものに実在性を与えるエネルギーがもうひとつあります。それは「恐怖」です。枯れ尾花を見て幽霊と思うように、怖れもまた自分が想像したものに実在性を与えます。怖れるのは実在だと思うから怖れるのであって、実在しないものを恐れる必要はありません。したがって、怖れるということは、暗黙のうちに相手に実在性を認めることになります。

 それは、まるで小さな子供が怖いお化けの絵を書いていて、「そのお化け、ほんとにいるの」と聞くと、子供は「いないよ。これはボクが考えたんだよ。でも、このお化けとっても怖いんだぞー・・・」といって泣き出してしまうようなものです。

 愛が「存在せよ」という意志であるなら、恐怖は「存在を拒否する」意志です。ところが存在を拒否するのは、存在すると思うから拒否するのであって、最初から存在しないと思っているなら拒否することもないわけです。このため、仮想現実の世界では、拒否すればするほど、相手が強くなるというパラドックスが生じます。拒否することは相手に自分と反発するエネルギー、負のエネルギーを与えることなのです。

さまざまな神話に、この世が光と闇の闘争の場であると語るものが多くありますが、それは、想像物に実在性を与えるふたつの原理、愛と恐怖を象徴していると、私は考えています。

431アリス:ちょっと理解できなくなってきました。<同じように、思考力そのものである霊は、それが想像したものを「これは実在である」と自分自身に宣言することによって、自分にとっての実在を生み出すのです。この「これは実在である」という宣言は、いわばその対象を「存在させる意志」の表示です。私は、この「存在させる意志」が「愛」であると考えています。>この話はイリュージョンの話ですね。イリュージョンを存在さる意思が愛だとして、なぜ、それを存在させなければならないのでしょうか?

「恐怖」のお話は唐突な感じがいたします。「恐怖」も実は「愛」であるというお話になるのかもしれませんが・・・お話の先をお聞かせください。

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