アリスとチェシャ猫との対話(87)

416 猫: 愛についての話しをもう少し続けます。

 私たちはふつう「愛」を「愛する」という動詞の形で理解しています。「愛する」という動詞は他動詞であって、愛する対象を必要とします。私たちは常に「何かを愛する」「誰かを愛する」という形で愛を考えます。

けれども、本当の愛は、動詞として解釈するなら自動詞なのです。それはむしろ太陽が「輝く」というのと同じような意味合いを持っています。愛するとは「愛のエネルギー」を放射することであって、その放射を受け止める対象があるかないかには左右されないものです。太陽は、地球があろうがなかろうが、無限の闇の空間に向かって光を放ちます。太陽が輝くのは、それが太陽の本性だからです。私たちも、愛のエネルギーを自らの「存在」の中に充満させ、それがまばゆいばかりの光となって輝き出すほどにならなければなりません。そのときにはじめて、私たちは本当に「愛している」といえるのです。

本当の愛には、愛される対象というものがありません。愛は対象があるから輝くのではなく、それ自身の本性としてただ輝くのです。その放射の範囲に入ってきたものには、何に対しても無差別に愛エネルギーを与えます。愛するのに理由も原因もありません。よいものを愛して、悪いものを憎む、というのは本当の愛ではありません。本当の愛は無差別であり、無原因であり、無条件です。

他動詞の愛しか知らないと、本当の愛のこのような性質を理解することができません。「愛」を愛エネルギーという「名詞」の形で考えることにより、本当の愛の性質をいくらか理解できるようになると思います。

417アリス: 10日余り猫さんの414で示されたことを体験しようと勤めてきました。

これからも続けるでしょう。この間体験したことの一つにこんなことがありました。

あるご婦人の体を愛のオーラのようなものが、その形を包むような形で出ているのを見えたことです。一瞬のことでしたが・・・  この間、チャクラのことに少し読んだり、藤平光一の気の本(「成功の秘訣は気にあり」東洋経済新報社)もひもどいて見ました。

後者は結果的には猫さんのお考えと余り隔たりがないのではと思いまいます。出所は、はっきり覚えていないのですが、安岡正篤の「喜神を含む」もまた、同じではないかと、理解できる幅が増えてきつつあります。

猫さんの410の覚醒から後、「愛のエネルギー」の方法論いたる過程を、体験された事実に即して、もう少しお話いただけないでしょうか?(411でもお願いいたしましたが、出来るだけ猫さんの体験を知りたく思います。)

418 猫: わずか10日間の実習でオーラが見えるようになるというのはすごいですね。何かこういったことに対する適性を持っておられるのだと思います。

さて<猫さんの体験を知りたく思います>ということですが、体験とおっしゃる意味が、たとえばオーラが見えるというような超常現象的なことや神秘体験的なことを意味しているのであれば、私には、そのような体験は多くはありません。私の体験は、主として内面的な理解に関わることであり、あるとき突然に何かの意味がわかったり、またいろいろな本を読んでいるときに、何の理由もなく「これは重要だ」という感じをもったりします。現在お話していることのほとんどすべては、そのような「インスピレーション」によってもたらされたものです。

私が『魂のインターネット』(近代文芸社)という本を出したとき、知人のひとりから「もう少し証明のようなものが書けないか」という注文をいただいたことがあります。けれども、私は霊性の問題について「証明」が可能だとも、必要だとも思っていません。その点は、「神の証明は、信じない者に対しては不可能であり、信じる者に対しては不必要である」と言ったというパスカルと同じ意見です。

「信じる」というのは、単にある考えを「正しいと思う」ことではありません。「信じる」とは「実行する」ということです。実行すれば、そのことによってその人の心が変化し、その変化に応じてその人の体験する世界が変わってきます。証明は、その人が変わった程度に応じて自然に現れる、といったらよいかもしれません。

 そのような意味で、「体験」としてお話できるようなものはほとんどありませんが、この辺で私の「心の成長過程全体」をお話するのも何かのお役にたてるかもしれないと思いつきましたので、すこし長くなるかも知れませんが、いわば私の精神史の要点のようなものをお話しようと思います。

1)私の精神史には、出発点が三つあります。最初の出発点は、中学時代に「この世的な価値がいかに無意味であるか」ということに気付いてしまった、というところにあると思います。

もちろんその時は生きる意味を見失ってただ苦しいだけでしたが、あとになって考えると、やはりこれが旅の始まりだったのだと思います。それから十年間、私は夢遊病者のようにこの世の生活を送りながら、一方で「究極の価値」を探しつづけていました。

私は、父が神道系の哲学者、母がクリスチャンという家庭に育ちましたので、神という言葉や哲学的な思索についてはいくらかの知識をもっていました。「神」という言葉は、当時の私にとって、いわば「究極の価値」のシンボルでした。けれども当時の私は、その「神」という言葉が意味するものについては何のイメージも持てませんでした。「神は究極の価値を意味するはずであるが、宗教が説く神はとても究極の価値とは思えない」というのが当時の私の心境でした。そして私は、410でお話したように、「神を信じるなどということは、心の弱いもののすることだ」と思っていたのです。

2)第二の出発点は410でお話した心内体験です。このときはじめて私は、人類がさまざまな宗教や思想の中で、「神」やそれに類する言葉で表現したものが何であったかということについて、明確で強固なイメージを得たのです。それまで私は、「神を信じるなどということは心の弱いもののすることだ」という立場から宗教に対する批判を持っていたのですが、この体験のあとは、「神の本当の姿を伝えていないではないか」という立場から、あらゆる宗教に対して非難を浴びせるようになったのです(もちろん自分ひとりの心の中でのことですが)。

3)それから20年ほど、私はいろいろな本を読み漁りました。心内体験によって「神」という言葉が無意味なものではないという確信を得たのですが、その「神」に直接会いたい、というのが、この時期の私の心の旅の動機でした。私はいわば「神に恋をしていた」のです。

私は、オーソドックスな宗教には見切りをつけ、正統宗教の周辺や異端と呼ばれる分野などを探しまくりました。その中には、谷口雅春の生長の家、手島郁郎の原始福音、西洋のキリスト教神秘主義、それから桐山靖雄の阿含密教などがあります。正統と呼ばれる分野で興味を引いたのは禅だけでした。

私があさった分野にはいくつかの共通点があります。それは「真理は言葉を超えているという点」、「神あるいは真理を直接に知るいわゆる直接知を主張すること」、「物質世界と意識の特殊な関係を示唆していること」などです。

4)40歳を過ぎた頃、「本をいくら読んでも、あるところから先には進めないのだ」と思い始めました。そして、たまたま本屋で見つけた本を手がかりに、超越瞑想と呼ばれるヨガの系統の瞑想を学びました。これは私の心からいくつかのかなり根源的なコンプレックス(感情や信念や記憶のしこり、超越瞑想ではストレスという)を実際に除去するのに効果があったと思います。

けれども、10年ほどすると、これにも限界を感じるようになりました。これは、超越瞑想という方法に限界があるということではありません。他の方法もすべてそうですが、相性というものがあるのです。誰もが同じひとつの方法で目的を達するとは限りません。私は今でも瞑想をしますが、私にはさらに違う何かが必要だったということなのです。

5)50歳を過ぎたある日、私が当時関わっていたコンピュータ技術におけるバーチャル・リアリティ(コンピュータでつくる仮想現実)について考えていたときに、突然、物質世界そのものがバーチャル・リアリティなのだという考えが心に浮かびました。これが第三の出発点です。このことについては、この対話の最初にお話しました。

 この世がバーチャルだということは、実は人間自身はバーチャルではない、ということを意味しています。私たちが「これが人間だ」と思っている「肉体」は、実は人間ではなく、バーチャル世界の中のバーチャルなシンボルに過ぎない、ということなのです。

このアイデアは、それまで私が心の中に溜め込んできたさまざまな宗教の断片的知識を一気に整理し、すべてをあるべきところに納め、神や霊と呼ばれるものと人間あるいは物質世界というものの関係を明確にイメージ化してくれました。私が、ひと様に対して何かを話すことができると思いはじめたのは、このときからです。

ふつう私たちは「人間が物質的肉体的実在であるというのは動かしがたい事実である」という認識の上にたっており、その物質人間が「悟り」を開いたり、「霊性」という性質を持ったりすると考えます。けれども、物質の人間が霊性を持つというのは、まったく本末転倒の言い方なのです。アリスさんは禅の公案にある「南泉、猫を斬る」という話をご存知だと思いますが、この公案はそのことを教えていると、私は考えています。

唐の有名な禅僧のひとり南泉(なんせん)は、あるとき、弟子たちが猫について何か争っている場面に行き合わせました。南泉は、すかさず猫の首を掴んでぶら下げ、「猫に仏性があるかないか言うてみよ。言わねば猫を斬る」と弟子たちに迫りました。ところが弟子たちは誰も答えられなかったので、南泉は猫を斬り捨ててしまいました。

夕方、南泉の一番弟子といわれた趙州(じょうしゅう)という人が外出から帰ってきたので南泉が昼間の出来事を話してきかせたところ、趙州は履いていた靴を頭に載せて部屋を出て行きました。南泉はそれを見て、「お前がいたなら、猫を斬らずにすんだものを」と惜しんだという話です。

このような公案の解説をするのは邪道かも知れませんが、私たちの対話は禅の教科書ではありませんから、個人の見解を述べるのは許されるでしょう。私はこの話を次のように解釈しています。

趙州が足に履くべき靴を頭に載せたというのは、問題が逆立ちしている、という意味をゼスチャーで表わしたものです。何が逆立ちしているかというと、「猫に仏性があるかないか」という問題の出し方が逆立ちしているのです。仏性というものは、猫が(あるいは人間が)持ったり持たなかったりするようなものではありません。むしろ逆に仏性のほうが猫を(そして人間を)存在させ、形づくり、生かしているのです。猫と仏性とどちらが土台かといえば、仏性のほうです。禅的な言い方をすれば、存在するのは仏性のみであって、猫なんてものは存在すらしておらんわい、ということでしょう。「猫に仏性ありやなしや」という質問は、「人間の家は土台石を支えているが、猫や犬の小屋はどうだ」というのと同じくらい、おかしな言い方なのです。「人間と猫の比較が問題なのではない、人間や猫が仏性を持つという言い方の中に問題が隠されているのだ」ということを、趙州はからだで演じて見せたのだと思います。

霊性のみが真実の存在であり、物質世界は、いかに壮大であり、いかに現実感に満ちあふれていようとも、霊性が作り出すバーチャルな世界に過ぎない。人間も猫もすべてバーチャルな影絵である。その影絵を実在物だと思っているのが人間を物質世界に縛り付けている幻想である。では、その幻想を見ているものは誰か、ということに気付きなさい、というのが、現在お話している私の考えの中心思想です。

6)最近になって、「愛」が私の究極のキイワードになってきました。バーチャルな世界に焦点があっている私たちの意識を霊的世界のほうに振り向けるには、霊的世界に共振する周波数に私たちの意識の固有振動数を高めていかなければなりません。それが愛の周波数なのです。

私は410の心内体験をしたときに、「愛は飲み物だ」と感じました。最近、愛について同じようなことを語る本が増えています。「愛エネルギーを胸の中いっぱいに感じなさい」というエクササイズは「バーソロミュー」(ヒューイ陽子訳、マホロバアート社)という本からとりました。私はそれが実際に効果のあるひとつの方法だと思うからです。けれども、それは私が実行して体験によって証明されたから正しいと思うのではありません。私は、それが正しい(正確に言えば有効な)方法だと直感的に感じるのです。ただし何度もいうように、人間が霊性に目覚める方法には相性があり、すべての人に同じ方法が通用するというわけではありません。人はそれぞれ自分にあった方法を見つけるまで、いろいろの方法を試してみる必要があるのです。

 以上が私の心の歴史です。私の体験を知りたいといわれるアリスさんへの返事になっているでしょうか。

419      アリス:心の遍歴をお示しくださいまして有難うございました。猫さんのお答えが

まさしく私が知りたいことです。つまり、どのような背景で言葉を発しておられるかを知りたいのです。証明は必要ないというお考えは賛同できますが、ただ、結論だけを示す、例えば「・・・しなさい」だけですと、教祖と信者という関係となり、対話の世界とは離れると思いまして、「体験に即してお話いただきたい」と申し上げた訳です。

結論部分だけであれば、著書やHP「霊性の時代の夜明け」の該当個所をお示しいただくだけでも十分です。

公案「南泉、猫を斬る」の猫さんの解説、見事ですね。私はこの公案が分かりませんでした。ただ、老師の前でこれだけのことを述べるゆとりはおそらく与えられないと思いますので、さて、この公案を通過するにはどうするか?という事になります。

さて、猫さんの心の遍歴に即して、少し、質問をさていただきます。まず:

<最初の出発点は、中学時代に「この世的な価値がいかに無意味であるか」ということに気付いてしまった、というところにあると思います。

もちろんその時は生きる意味を見失ってただ苦しいだけでしたが、あとになって考えると、やはりこれが旅の始まりだったのだと思います。>

とありますが、今、猫さんは「生きる意味」についてどうお考えですか?

少しニュアンスが異なりますが、何か目的をもって生きておられますか?

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