アリスとチェシャ猫との対話(85)

400 猫: アリスさんの時間論は明瞭で直截的、たいへん興味深く感じました。<時間も空間も人間がこの世のことを理解するために作った観念だ。>、<この世にあるということは、時間(または空間)そのもので、色んなものが存在することは、それぞれが時間を持つと言うことである。>などは、なるほどと感心しました。<白兎の時間はいつも「遅刻だ!」と思えるようにセットされていて、だからこそ白兎なのだ。帽子屋の時間はいつもお茶の時間にセットされている。>というくだりも、ユーモアの中に真理がきらりと輝いています。

私の考えとも非常に近いように思いますが、微妙に違うと感じる部分もあります。すこしこまかくなりますが、二つの表現について論じてみたいと思います。

<<一切のものが総て同時に起きている>のであるが、この世の人間が理解しようとすれば、時間と空間というものを用いてしかできない>。

第一に、私は「理解」ではなくて「体験」だと思います。体験するためには時間が必要なのです。もっとも、体験が必要なのは、理解するためかも知れませんが。

それを私はCDのようなものだと考えています。音楽CDの中にはたくさんの曲が入っていて、しかもそれらの曲ははじめも終わりも同時に存在しています。けれども、それを音楽として聞くためには、時間の中で再生しなければなりません。

私たちの人生も同じです。それはいわば神の(あるいは空(くう)の)CDの中にはじめから終わりまで同時に存在しています。それを再生して体験しているのが、私たちの人生なのだと、私は考えています。私は以前に「コード化」という言葉を使ってアリスさんを驚かせたことがありますが(362)、世界はコード化されてCDの中に入っている、それを私が見るときには私の感覚器官に再生され、アリスさんが見るときにはアリスさんの感覚器官に再生される、という意味だったのです。

第二に、アリスさんは<この世の人間が理解しようとすれば、時間と空間というものを用いてしかできない>とおっしゃいましたが、「この世の人間」といえば、それは肉体を持って生まれてきたあとの話になります。けれども、私たちが肉体をもって生まれてきたときには、時間も空間も既に存在しています。肉体をもって生まれたものが考えて時間と空間を作り出したわけではないと私は思います。私たちは、うまれる前に、CDの中の人生を再生しようという意志をもち、プレヤーのスイッチを入れたのです。その結果として、時間空間が生まれ、私たちの人生が始まったのだと私は考えています。

「父母未生以前のお前の面目はいずこにありや」というような公案があったように記憶していますが、「私が時間空間を考える前に、私はどこにいたか?」というのが、「私とはなにか」いう謎を解く鍵だと、私は考えています。

最後に<これまでお聞きした物理学と関連性は分かりませんが、時間も空間も共に言葉であって、もしそれが消えてしまうと、また、別の景色が立ち現れるように思います。

鳥が、時間とか空間を考えると空から落ちるのではないでしょうか?>について、私の考えをお話しします。

 物理学者たちは、究極の粒子を追及した結果、時間と空間の枠(座標軸)を用いては、最終的な理論を構築することは決してできない、と考えはじめています。宇宙は、舞台の上でダンサーが踊るラインダンスのようなものではないのです。宇宙には舞台もダンサーもありません。それは暗闇の中で一見無秩序に点滅する蛍の乱舞のようなものです。その光の点滅を見ているうちに、観客の心の中に舞台が生まれ、物語が生まれてきます。心の中に広い空間が生まれ、永遠の時間が生まれます。青い海、白い砂浜、輝く太陽、そしてその舞台の上で演じられる限りない愛と憎しみ、希望と絶望、生と死の物語・・・それはたとえようもない魔術です。

 物理学者たちが時間と空間を消してしまっても、私たちが時間空間を経験することがなくなることはないでしょう。ただ、それに縛られることはなくなります。私たちは、時間を超え、空間を超え、しかもなお、空間と時間のショーを十分に楽しむこともできるようになるのです。

401アリス: 私の意見に細やかなコメントを付けて下さいましたので、理解が少し進みました。猫さんの3つのコメントに更に私も感想を加えさせていただきます。

第一の「コード化」について、CDの例は大変わかりやすいです。この中には、データだけではなく、アルゴリズムも再生のための装置も含まれていると理解します。

それから、このコード解読の試みの一つが易経ではないかという気がします。

第二の<私たちが肉体をもって生まれてきたときには、時間も空間も既に存在しています。>は、ちょっと驚きました。生れることを、猫さんの目で外から見ておられませんか?

私は、時間、空間は言葉を使うことによって、現れると今は考えています。生れることの意味が猫さんと違うようで、喩えて言えば、私の場合、CDは既に廻っており、気付く時点が生れるということになるでしょうか?この点もう少し考えてみます。

「父母未生以前のお前の面目はいずこにありや」については、自分?が、第一の世界全体であることに気付くことではないかと思います。

第三は、自分の言葉を次のようにすべきだったと思っております。<・・・、時間も空間も共に言葉であって、もしそれが消えてしまっても、今の景色が変わるものではない>

これで、猫さんに近づいたのではないでしょうか?

<空間と時間のショーを十分に楽しむこともできるようになるのです。>の「楽しむ」についてですが、少し解説の欲しい所です。楽しむために「生れてきた」と言うことが出来ますか?

402 猫: 三つのテーマについて、私のほうからも再コメントいたします。

第一は、CDの中に<データだけではなく、アルゴリズムも再生のための装置も含まれていると理解します>というのはいいですね。インターネットで、データに解読ソフトがついてくるようなものですね。

<このコード解読の試みの一つが易経ではないかという気がします>というのは私には判断ができません。私は易経について何も知りません。少し解説していただけるとありがたいのですが。

第二の問題は、三つのなかで一番重要で、おそらく私たちの長い対話の中心テーマに触れていると思います。そこには、私とアリスさんの「意識」のとらえ方の違いが現われているのだと思います。

 アリスさんは気付いたときが生まれる時だといわれます。それは私たちが普通に使っている「肉体の誕生」という言葉の意味とは違いますね。アリスさんは、私たちが肉体として生まれたあとに、「自分」というものに気付き始める、それがいわば「自分の誕生」であって、その過程の中で私たちは「世界というものを時間空間という枠の中に存在するものとして構造化してゆく」ということをおっしゃっているのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 もしそうであれば、それは、私が昔人工知能の研究をしていた頃使っていた「世界モデル」という言葉を思い出させます。世界モデルというのは、ロボットが自分の頭の中に持っている世界の描像で、その描像の中でロボットは自分自身を位置付けることにより、自分の状態や、これから何をするべきかといったことを判断できるようになります。世界モデルを持たせないと、自主的に行動するロボットは作れないと研究者たちは考えていました。

 それはそれでひとつの意味のある視点だと思いますが、私がいま問題にしているのはそれよりももっと「前の」段階の話です。アリスさんは肉体として生まれる前にどうしておられたのでしょうか、という質問です。

 不思議の国に行った元祖アリスがウサギの穴を認識したのは、穴に落ちる前でしょうか、落ちたあとでしょうか。鏡の国に行ったアリスが、鏡を認識したのは鏡に入る前でしょうか、あとでしょうか。鏡の国に行ったアリスは、鏡に入る前に鏡を認識しなかったら、鏡に入るということ自体ができなかったはずだと私は考えます。私たちが時間空間の中に生まれたのは、時間空間を認識したからであり、時間空間を思考し、想像(=創造)し、その中で生きてみようと望んだからだ、というのが私の考えです。

 「父母未生以前の私」というのは、ウサギの穴に飛び込む前のアリスであり、鏡に飛び込む前のアリスなのだと、私は考えています。鏡を認識したとき、アリスはまだ鏡の中にはいませんでした。同じように、時間空間の中に生まれる前の私たちは、時間空間に縛られてはいませんでした。それが時間空間の世界の中に飛び込んだのは、アリスが鏡の中に飛び込んだのと同じ理由です。それは好奇心以外の何ものでもありません。ウサギの穴に飛び込んだアリスも、鏡の中に飛び込んだアリスも、好奇心の塊でした。時間空間というこのおもしろいけれども厄介な制約の中にわざわざ飛び込んだ私たちも、元祖のアリスたち以上の好奇心の塊だったのではないでしょうか。

第三のコメントに対する私のコメントはこうです。

「物理学者たちが時間空間を消してしまう」というのは、時間空間が実在ではないということを証明するということです。たとえていえば、それはCDの中のコード化されたデータであるということです。けれども、そのことがわかったとしても、私たちが前と同じ解読ソフト(感覚器官)を使えば、やはり時間空間を体験することになります。私たちは時間空間の世界を、実在ではないと知りながら体験するという状態になります。それは私たちが映画を見るのと同じです。私たちは映画の中の物語を、実在ではないと知りながら十分に楽しむことができます。悲劇であっても、恐怖映画であっても、私たちは悲しみを楽しみ、恐怖を楽しむのです。そうでなかったら映画産業はとっくの昔につぶれていたでしょう。そうではありませんか。

 なにしろ、私たちは好奇心によって時間空間の世界を作り出し、その中に入り込んだのです。それを楽しむのは私たちの本性ではないでしょうか。そして、私は、そろそろあきてきたので、「映画館」から出ることを考えているのです。

403アリス: 三つのテーマについて、再々コメントという形で進めさせていただきます。

第一;易経は大変奥が深く、私が、説明するのは不適ですが、私が面白いと思っている所を書きます。無極から太極そして陰陽が生じ、その組み合わせで森羅万象が生じるのですが、それらを取りあえず八卦に、そしてそれを組み合わせて64のパターン(卦)にわけ、その性質について論じ、一つの卦には6つの爻がありますので、64×6=384について、それぞれシンボリックな解説がつきます。占いのような言葉です。

このシンボリックなコード化された目で、逆に、森羅万象を読み解こうとするのが易だと思います。最近ではDNAのコードと易との対応を論ずる人もいて、もう、3000年近く、人はこの易に取り付かれているのではないかと思います。入門的なサイトの一つに

http://homepage2.nifty.com/~meigaku/index.htmがあります。

中国の伝統は、易は一応学ぶが、深い入りしないのが賢明ということも昔から言われていまし、逆に、易を学ばねばダメだという人もいます。

第二:これは平行線が続く予感がしますが、話を少し進めます。

<「自分」というものに気付き始める、それがいわば「自分の誕生」であって、その過程の中で私たちは「世界というものを時間空間という枠の中に存在するものとして構造化してゆく」ということをおっしゃっているのではないかと思いますが、いかがでしょうか。> そのように思っております。ただし、肉体が生じたか否かはとは、次元の違う話で、うまく言い表せませんが、私は肉体を獲得したと思うには「自分」ができなければならないと思うのです。ハードができて、ソフトが入るというのとはちょっと異なるのです。

<「父母未生以前の私」というのは、ウサギの穴に飛び込む前のアリスであり、鏡に飛び込む前のアリスなのだと、私は考えています。>については、アリスが主体を取り戻したと言う意味なのかもしれませんが、私は、この譬えを借りるなら、飛び込む前のアリスも飛び込んでからのアリスも、登場するキャラクターもアリスのお姉さんも全部ひっくるめて、自分だと思うことが「父母未生以前の私」ではないかと思います。しいて言えばキャロルであるという自覚でしょうか?

第三:「映画館」も自分が描き出しものだと分かれば、強いて出ることもなさそうですが・・・

何か深い意味があるのでしょうか?

404 猫: 「易には深入りしないがよい」というわけではありませんが、易経については私は何も知りませんので、これ以上のコメントは差し控えましょう。けれども、易経とDNAの関係の話が出てきましたので、DNAの話を少しします。

20年近く前のことですが、DNAがディジタルなコードであると知ったときには、ほんとうに驚きました。

 人間の身体は、骨や髪の毛から神経細胞や血液に至るまで、5万種類ほどのたんぱく質によって構成されているといわれますが、これらのたんぱく質は20種類のアミノ酸によって作られています。20種類のアミノ酸が300個ほどつながってひとつのたんぱく質になるわけですが、どのアミノ酸がどういう順序でつながるかによって5万種類のたんぱく質が生まれるわけです。もっとも、20種類の要素を300個つないだら20の300乗(390桁ぐらいの数字になります)という種類の列が生まれるわけですから、その中の5万種類などというのは微々たるものですが。

 DNAはこのアミノ酸の並び方を記したコードブックのようなものです。DNAは、A、T、G、Cと名づけられた4種類の塩基の鎖で、たとえば、

   ・・・・TATGCTCAACGTGTTGGTGCTGCTGGTGCT・・・・

という風に塩基が並んでいます。そして、この鎖の3桁でひとつのアミノ酸を表わすようにできています。たとえば、TATはチロシン、GCTはアラニンというアミノ酸を表わします。4種類のものを二つ組み合わせたのでは16種類しか表わせないので、20種類のアミノ酸を表わすためには2桁では足りません。3桁にすると4×4×4=64通りの表示ができるので、20種類を表わすことができます。おまけに、この64種類のコードの中には、ひとつのたんぱく質のコードのはじめと終わりを表わすコードまであるそうで、そのようなコードを中間にはさみながら、5万種類のたんぱく質のコードを一本につないだのがDNAだというわけです。

 この話を知ったとき、私は宇宙や生物が偶然によって進化してきたという進化論を決定的に信じなくなりました。仮にそれが自然に進化したとしても、その根底にはそのような進化を可能にする原子分子レベルの物理の精密な設計がなければなりません。

 物質世界が幻想であるというというアイデアを持つようになったのは、これより少し後ですが、物質世界という幻想を生み出すためには、想像もつかないほどの知性が必要だったのです。それは物質世界が存在する以前に、そのような知性が存在したということを示します。これも、現在の私の霊性一元論のひとつの根拠となっています。

 ここまで書いてきて、このことが第二のテーマと関係していることに気付きました。いま、私は物質世界が生まれるためには、それ以前に知性の存在が必要であった、といいました。そして、アリスさんは、<私は肉体を獲得したと思うには「自分」ができなければならないと思うのです>といわれました。私もまったくその通りだと思いますが、私は、「自分」が生まれるのは、肉体がこの世に生まれるより前である、と考えています。「自分」が肉体を持とうと意志することによって、はじめて肉体が物質世界に形成されるのだと思います。

 映画館のたとえで言おうとしたことはこうです。私は若いとき西部劇が好きでした。派手な撃ちあいを見に映画館によく通いましたが、いまでは、西部劇はおろかどんな映画にもほとんど興味がありません。人間が作り出した架空のドラマよりも、物質世界という現実のドラマの方がはるかにおもしろいからです。

 そしてさらにいま、私は、物質世界という「架空のドラマ」より、霊的世界の真実のドラマのほうがはるかにおもしろいと感じるようになっている、ということです。

405アリス: 易とDNAの話はどこかに本がまだおいてあると思うのですが、私の書架は3段詰で、必要な本がすぐ取り出せません。何れ、また、見つかれば話題にしたいと思います。

<私は、物質世界という「架空のドラマ」より、霊的世界の真実のドラマのほうがはるかにおもしろいと感じるようになっている>とのことですが、私と猫さんの1つの差異は、猫さんは「架空」と「真実」との対立の中で物事を捉えられておられるのに対して、私は総てを同じもの、つまり架空といえば総て架空、真実といえば総て真実と捉えるところにあるのではないかと思いますが、「架空」と「真実」を猫さんはどうやって区別されるのでしょうか?

406 猫: 「架空」と「真実」は存在の階層に関係しています。けれども、存在の階層に話を戻すとまた混乱しますので、簡単なたとえでお話しします。

 アリスさんが夢を見ているとき、夢を見ているアリスさんが真実の存在で、夢の中の世界が架空の世界です。私たちが映画を見ているとき、映画の中の物語が架空で、映画を見ている観客が真実の存在です。キャロルがアリスの物語を書いたとき、キャロルとキャロルの住んでいる世界は真実の世界で、アリスとお姉さんの住んでいる世界は架空の世界です。不思議の国から帰ってきたとき、アリスは「なんて奇妙な夢を見たのかしら」と言っているので、不思議の国はアリスの夢だったのでしょう。そうだとすれば、不思議の国はアリスにとっても架空の世界です。世界が3階層になっています。

 この階層構造はおわかりいただけるでしょうか。

 次に、どれが真実で、どれが架空であるかは、相対的なものです。「誰に対しての」架空か真実かが問題になるのです。

最後の例が適当だと思いますのでこれを使いますが、キャロルから見れば、自分の住んでいるイギリスが真実の世界で、アリスとお姉さんの世界は架空の世界です。「二十の扉」式に言えば、アリスは「架空の人物」です。けれども、アリスから見れば、自分の住んでいる世界が真実であり、お姉さんも実在の人物です。アリスにとって、不思議の国は夢だったのですから架空の世界です。

 そのアリスは、不思議の国にいるあいだは、自分はもちろんウサギやチェシャー猫もトランプの女王もみんな実在の人物?だと思っていました。夢の中の存在にとっては、夢の世界は真実(現実)の世界です。

では、アリスにとってキャロルは何なのでしょうか。それは、哲学的には「真実在」というようですが、プラトンのイデアのようなものであり、アリスの世界を作り出した「神」であるということになります。

私は「架空」あるいは「幻想」という言葉は、他方に「真実」あるいは「現実」というものがなければ意味をなさないと考えています。幻想に対する真実であり、真実に対する幻想です。すべてが真実であったり、すべてが幻想であったりすれば、それは何も言い表していないと思います。

私が「物質世界は幻想である」というとき、「幻想でない真実の世界あるいは存在がある」ということと対になっています。それを私は霊的世界あるいは霊的存在と呼びます。呼び名は何でもかまいませんが、重要なことは、「物質世界という映画を作り出した存在があり、人間はその映画の中の登場人物のつもりでいるが、ほんとうは映画を作り出した側の存在である」ということです。要約して言えば、これが私の考えの骨子です。

アリスさんは403で、<私は、この譬えを借りるなら、飛び込む前のアリスも飛び込んでからのアリスも、登場するキャラクターもアリスのお姉さんも全部ひっくるめて、自分だと思うことが「父母未生以前の私」ではないかと思います。しいて言えばキャロルであるという自覚でしょうか?>とおっしゃいました。

 私もまったくその通りだと思います。キャロルがいて、お姉さんとアリスという二人の少女を創作し、そのアリスが夢の中で不思議の国を体験する。自分がキャロルであると自覚することは、アリスとお姉さんを作り出したのも、アリスの夢を作り出したのも、すべて自分であると自覚することです。私が「霊性を取戻す」という言葉で意味するものも同じことです。

けれども、その自覚に達したとき、アリスや不思議の国は架空の存在ですが、キャロル自身は真実です。なぜならキャロルを作り出したのはキャロルではないからです。キャロルは、アリスとお姉さんは架空の人物であると認めるでしょうが、自分が架空の人物であるとは言わないでしょう。そこに、キャロル自身とキャロルが作り出した人物や世界との違いがあります。それを私は、架空と真実という言葉で表現しています。キャロル自身が架空の仲間入りをするのは、キャロルがもうひとつ上のランクに目覚めたときです。

すべてが架空になるのは、最も根源的な存在にまで目覚めたときです。そのとき、存在するのは、私の言葉で言えば「神」だけです。アリスさんの言葉では「空」でしょうか。けれども、そのとき、神あるいは空は、絶対の真実です。この絶対の真実があってはじめて、すべての架空が存在できるのだと私は考えています。

407アリス:階層のお話、何度かお聞きしているうちに、良く分かってきました。

なお、少し、遡りますが、易経とDNAに関して、以前読んだ内容に似たものが見つかりましたので一度覗いて見てください。http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/classics/books/eki.html 404の猫さんのお話<たんぱく質のコードのはじめと終わりを表わすコードまであるそうで、>と重なるところがあります。

何れにしろ、凄い知性の設計による世界があり、その創造者が神=自分と自覚することが猫さんの「霊性を取り戻す」とのようですが、自覚のための方法を少しお話いただけませんか?

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