アリスとチェシャ猫との対話(84)

394 猫: ご質問についてお答えします。ローレンツ変換の分母に現われる式は、どちらかといえば論理的必然であるといえるでしょう。けれども、その土台は実験の上にたっています。

390で述べた相対性理論の前提を思い出してください。

(1)すべての慣性系(一定の速度で動いている系)で、物理法則は同じ形に表わされなければならない。

  (2)すべての慣性系で、光速度は同一でなければならない。

これは二つとも実験・実測にもとづいてたてられた前提(あるいは要求)です。

これにもとづいて、純粋に数学的に、アインシュタインはローレンツ変換と呼ばれる座標変換の式を導き出しました。つまり(1)(2)の前提が正しいならば、ローレンツ変換が正しいはずなのです。けれども、実際の現象でローレンツ変換が成り立っているかどうかは実験によって確かめなければなりません。もし実際にはローレンツ変換が成り立っていないのであれば、(1)(2)の前提が間違っているということになります。

 このようにして導き出されたローレンツ変換は、空間や時間が伸び縮みするという奇妙な性質をもっています。けれども、その後の実験により、実際にそのような空間・時間の相対的な伸縮が観測されることが確かめられており、現在では、これまでお話してきた「特殊相対性理論」は、物理学者たちに完全に受け入れられています。

 いまここで「相対的な伸縮」と言ったことに注意してください。ときどき「運動する物体の長さが縮む」というような表現が使われることがありますが、もともと「どちらが運動しているかわからない」というのが相対性理論の出発点ですから、どんなに高速で運動している宇宙船に乗っている人でも、自分の体が縮んだり、じぶんの寿命が延びたりすると感じることはありません。ただ、互いの間に相対的な運動があれば、時間空間のメジャーが共通ではなくなるということです。

 相対性理論には、この他に「一般相対性理論」と呼ばれるものがあり、それは一言で言えば重力の理論ですが、これについては、当分触れないことにします。

 さて、先に進むことにしましょう。

 相対性理論の前提(1)は、すべての慣性系が同等であり、すべての物理法則があらゆる慣性系において同一でなければならない、と宣言しています。このことは、あらゆる物理法則がローレンツ変換に対して不変であるように書き換えられなければならないということを意味しています。

ある式がローレンツ変換に対して不変であるとは、式の中に現われる変数にローレンツ変換を施して、x→x´、t→t´などに置き換えたとき、ダッシュのついた変数で表わされた式が、ダッシュのつかない変数で表わされた元の式と同じになることです。

たとえば、ニュートンの運動方程式と呼ばれる式があります。物体の質量をm、物体の加速度をa、物体に働く力をfとすると、

     ma=f

がその運動方程式です。この式がローレンツ変換に対して不変であるとは、ローレンツ変換を行なって得られる新しい座標系での質量、加速度、力をm′、a′、f′としたときに、やはり

      m′a′=f′

という関係が成り立つことです。

 そのためには、m、a、fのすべてを定義しなおさなければなりません。そのようにして、さまざまな物理量が定義しなおされました。以下に、そのような物理量のいくつかについて、概念の変化をお話しすることにします。

1)時間

 古典的な物理学では、時間は全宇宙に対して共通であると考えられていました。けれども、ローレンツ変換では時間も変化します。これは相対的に運動をしている物体のあいだでは、時間が共通でないことを意味しています。

 実は、動いているいないにかかわらず、宇宙の全存在がすべて固有の時間を持っているのです。ただ、相対的な運動速度が光速度にくらべてあまり大きくない物体同士のあいだでは、固有時間の進み方にほとんど差がないので、ふだん私たちはそのことに気付かず、みんなが共通の時間で動いていると思っているのです。

 みんながそれぞれ固有の時間を持っているとすると、時間の原点はあまり意味がありません。なぜなら、ひとつの粒子が生まれると、その粒子の時間はそこから始まることになるからです。そこで、時間の進み方だけを問題にすることにします。

 ある物体の固有時間の進み方をdτ、それを観測する観測者の時間の進み方をdtとすると、dτとdtのあいだには次の関係があります。(dという記号は、変数の微小な変化を表わすための習慣的な表記法です。)

      dτ=dt*γ

ただし γ=SQRT(1−v↑2/c↑2)  

 固有時間はローレンツ変換に対する不変量になっています。つまり、ある物体の固有時間は、どのような観測者が見ても同じであるということになります。

 392で宇宙線の中のμ粒子の寿命がのびるという話をしました。粒子の寿命というのは、もちろんその粒子の固有時間ではかったものです。したがって、問題は、それを観測者がみたときにどのように見えるかという話になります。上の式に粒子の寿命を入れれば、

    粒子の寿命=観測者が測る寿命×γ

となります。したがって、

    観測者が測る寿命=粒子の寿命/γ

となります。vは粒子と観測者の相対速度です。この式に392の数値を代入すれば、観測者が測る寿命が粒子の寿命の30倍になって出てくるのがわかります。

 もっと極端な例は光子の場合です。光子の速度はcですから、平方根の中はゼロになります。つまり、観測者にとってどれだけ時間が経過しようとも、光子の固有時間は経過しません。宇宙の果てから150億年かけて届いた光であっても、その時間は光子自身にとっては存在していないのです。

2)質量

 質量に静止質量m0と相対論的質量mの二種類がある、という話を380でしました。相対論的質量というのは相対性理論が提唱された初期の頃の驚きを含んだ呼び名で、現在では慣性質量と呼ぶほうが妥当だと思います。私たちが物を動かそうとしたときに感じる慣性という名の抵抗は、このmが担っているからです。

 静止質量は物体に固有の量で、さまざまな素粒子がなぜ現在持っているような静止質量をもつのかということは、素粒子論の謎のひとつです。いまのところそれは実験で測定されるだけです。

 これに対し、慣性質量mは、静止質量と次の関係で結ばれています。

     m=m0/γ

質量は、昔は「物質の量」と考えられていました。けれども、現在ではむしろエネルギーの量を示す属性だと考えられています。つまり、あらゆるエネルギーが「重さ」すなわち「慣性」をもっているのです。運動エネルギーも熱エネルギーもみんな重さをもっています。ただエネルギーの重さは非常に軽いので、私たちは普通その重さに気付かず、古典的な物理学ではそれを無視していたのです。

 逆にいえば、測定できるほどの重さがあれば、そこには膨大なエネルギーが凝縮されているということになります。それを証明して見せたのが、原子爆弾でした。

3)エネルギー

 すべての物体は

 E=m0*c↑2/γ        ・・・(1)

というエネルギーをもっています。

 この式に v=0 を代入すると E=m0*c↑2 となることに注意してください。これが静止している物体が持っているエネルギーを示す有名な公式です。

 光速度に対してvが小さいあいだは、(1)式は近似的に

     E=m0*c↑2+(1/2)*m*v↑2

とすることができます。この第二項が、ニュートン力学で「運動エネルギー」と称していたものです。

 これまでお話ししてきたように、相対性理論は、二つの前提から出発してローレンツ変換という座標変換を導き出し、それに基づいてさまざまな物理量を再定義してきました。その結果として、時間、空間、質量といった物理学の基本的な概念が見直されることになりました。その極限的事例として、光子にとっては、時間も空間も存在していません。

 私たち一般の市民は、この最新の物理学が暴き出している時間・空間・物質の本性についての認識をまだ理解するようにはなっていませんが、いずれそれは一般市民の常識になる日が来るでしょう。そのときには、物質世界が幻想であるということが、科学的に証明されるであろうと、私は楽しみにしています。

 これ以上物理学の話を続けるのは、数式の取扱が難しくなりすぎるので、このあたりでとりあえず納めようかと考えています。御質問があれば、お受けします。

 

395アリス: 猫さんのお話を本当に理解できたのか、自分でも良くわからなくなってきました。

天文学の話で、今我々の見ているある星は何百万光年離れているところから来た光を見ているのであるから、何百万年前の星を見ているのだという話しを聞きますが、これは本当ですか?<光子にとっては、時間も空間も存在していません。>とすると、一切のものが総て同時に起きていると思うのですがいかがですか?これにちょっと関連することを「不思議の国より不思議な国のアリス」の「発見の喜び」に書いています。

396 猫: ご質問のお気持ちはよくわかります。けれどもこれは、時間というものが、私たちが想像しているようなものではない、ということに起因する一つの極端な事例だと考えてください。

 一言でいえば、これは「光子の時間」と「人間の時間」は共通ではない、ということを示しているに過ぎません。光が百万年かかって宇宙を旅してきたというのは私たち人間にとっての真実であり、時間も空間も存在しないというのは光子にとっての真実です。

 私たちは、無意識のうちに、宇宙という大きな箱の中で、ひとつの共通な時計の刻む時間にそって、あらゆる出来事が生起消滅していると考えています。けれども、ほんとうは、そのような巨大な舞台空間も共通の大時計も存在しないのです。

 時間も空間も、私たちの意識が作り出した幻影です。<一切のものが総て同時に起きている>というのは真実です。過去も未来も現在も、あらゆる可能性がすべて、宇宙の中に「同時に」存在しています。そのどれをどういう順番で体験するかということから、時間と空間の感覚が生み出されるのです。

 これは、いまはまだ、物理学の命題にはなっていません。けれども、量子物理学と相対性理論の両方から、物理学は時間と空間が消滅する地点に近づいている、と私は考えています。もうしばらく、楽しみながら待っていよう、と思います。

 「発見の喜び」を拝見しました。アリスが何かを発見するたびに、そのものがアリスの世界に存在するようになります。それを、「以前から存在していたが、アリスが気付かなかったのだ」と解釈するのは、常識のわなにからめ取られた考え方です。光子の時間と私たちの時間が違っているように、アリスの世界とウサギの世界と帽子屋の世界と・・・みんな違っているのです。常識のわなというのは、この違う世界を何とかして共通の同じ世界だと考えたいという苦肉の策なのです・・・・というのが私の解釈です。すこし、過激すぎますか。

397アリス: 私が「以前から存在していたが、アリスが気付かなかったのだ」と言いましたのは、<一切のものが総て同時に起きている>という意味で使いました。<アリスの世界とウサギの世界と帽子屋の世界と・・・みんな違っているのです。>に関しては、「ネズミの眼」でちょっと触れていますが、それぞれのキャラクターの関心事が違う最大の原因はそれぞれ別の時計を持っているからだと気づきました。「アリスの物語」は冒頭の時計を持ったウサギに始まり、全編を通じて、「時間」が現れます。アリスとしてはもう少し時間について知りたいと思います。

現代の物理学で、時間を測る時計は何なのでしょうか?具体的には実験などでどんな時計を使うのでしょうか?

また、光子は、存在する他のものと同様、1つの存在のあり方ですか、それとも別格に扱われていますか?

398 猫: いろいろな存在が持っている「固有の時間」について関心をもたれたのはさすがですね。アリスのウサギだけでなく、あらゆる存在がすべて自分の時計を持っているというのはすごいことなのだと、私も思います。

 とりあえず二つのご質問にお答えします。

 物理学の実験で使われる時計は原子の振動です。これは1967年10月パリで開かれた第13回国際度量衡総会において定められたもので、「セシウム133の原子の基底状態における二つの超微細準位間の遷移に対応する放射の9,192,631,770周期の継続時間を1秒とする」(理科年表)と定められています。

 これは簡単にいえば、セシウム原子の中の電子が、ある軌道から別の軌道に移るときに放出する光の振動周期の91億9千なにがし倍をもって1秒とするということです。つまりこれはセシウム原子がもっている時計で時間の長さを決めたということです。

 以前は、国際的に管理された特定の振り子時計によって時間の標準が決められていたと思います。より精密な時計を確保するために、このように改められたものです。

もともと時間の単位は、地球の自転や公転に関係して決められたものですが、地球の運動は微妙に揺れ動いています。一日の時間もいつも一定ではありません。暦などの時間は揺れ動いている地球の運動に合せないと天体観測や日常生活に不具合なので、何ヶ月かに一度、一日の長さを1秒単位で調節して原子時計と暦の時間を合せています。

 第二の「光子は特別な存在か」というご質問ですが、これに対する答えはかなり微妙です。まず、素粒子の種類からお話ししましょう。

素粒子には、大別して、「物質の構成粒子」と「力の媒介粒子」があります。物質の構成粒子は、おなじみの陽子、中性子、電子などのグループです。細かく見れば百を超える種類があります。力の媒介粒子というのは、自然界で力が働くときにそれに伴って現われる粒子です。光子はこの力を媒介する粒子に属しています。

自然界には4種類の力しか存在しない、と物理学者たちは考えています。しかもそのうちの2種類は原子の中で構成粒子をつなぎとめるために働いている力なので、私たちが日常的に触れる力は残りの2種類しかありません。それは電磁気力と重力です。私たちは重力はよく知っています。それを除けば、私たちが日常生活の中で経験するあらゆる力は、すべて物質の構成粒子に働く電磁気力のあらわれなのです。

光子はこの電磁気力の媒介粒子として現われます。光が電磁波であるというのがそれを端的に示しています。重力の媒介粒子は重力子と呼ばれ、理論的には存在が予想されていますが、実験的にはまだ捕まえられていません。そうすると、光子は私たちが日常的に触れる事のできるただひとつの力の媒介粒子である、ということになります。答えが微妙であるといったのはそういう意味です。他の粒子と一緒に理論体系にくみこまれているという点では特別ではありませんが、私たちが日常的に触れることができる力の媒介粒子としては唯一のものです。

光子は質量(静止質量)をもっていません。質量を持たない粒子というのは多くはありません。重力子は質量ゼロだと考えられていますが、まだ実験的につかまっていないので、確認はできません。ニュートリノは長いあいだ質量ゼロだと考えられていましたが、昨年ノーベル賞をもらった小柴さんの実験で、質量をもっていることが確認されました。そのほかに、素粒子のさらに下のレベルで質量ゼロの粒子がいくつか想定されていますが、そのようなものはやはり原子の外には出てきませんので、私たちが日常的に触れることのできる質量ゼロの粒子は、光子以外にはないといってもいいと思います。

 質量ゼロの粒子は、常に光速で走ります。しかもその速さは、どんな運動状態にある立場から見ても常に一定です。これが、相対性理論を生み出したそもそもの動機であり、光子を特別な地位におしあげる原因です。

 光子にとって時間も空間も存在しないというのは、私たちにとって理解しがたい言葉です。どういう状態になっているのか、想像しようとしてもうまく想像できません。けれども、それは実は時間・空間というものの実体が、私たちが持っている観念とかけ離れたものだということを示しているのだと、私は考えています。

 20世紀の半ば頃、コジレフというソ連の天文学者が「時間はエネルギーの一種である」という説を唱えたという話を聞いたことがあります。時間がエネルギーであるとすれば、ひとりひとり違っていてもおかしくはないでしょう。いまこの説に同意している物理学者はあまりいないようですが、時間がエネルギーと関係の深いエントロピーという量と深い関係があるのではないかと考えている物理学者は多いようです。ともかく、時間・空間・物質・存在・意識・自我といった言葉に付随する私たちの素朴な観念は、そろそろ見直しの時期に来ているといえるのではないでしょうか。

 もし、他にご質問がなければ、<一切のものが総て同時に起きている>というアリスさんの言葉に関係して、アリスさんの時間論を聞かせていただけるとありがたいのですが。

399アリス:丁寧なお答え有難うございました。私の時間論をお聞きになりたいとのことですが、この対話の初めの方でも触れましたように、時間も空間も人間がこの世のことを理解するために作った観念だという以外にさして考えはありません。これも理由があってのことではありません。昔、時間に興味があって、時間論の本を10冊ぐらい集めましたが、読まぬままに処分してしまいました。ハイデッカーの「存在と時間」はまだ持っていますが、積読状態です。

今、思っていることを、ただ感覚的に述べますとこうなります。

<一切のものが総て同時に起きている>のであるが、この世の人間が理解しようとすれば、時間と空間というものを用いてしかできない。逆に、この世に存在するということは時間であり、空間なのだが、あの世ではその用はない。この世にあるということは、時間(または空間)そのもので、色んなものが存在することは、それぞれが時間を持つと言うことである。白兎の時間はいつも「遅刻だ!」と思えるようにセットされていて、だからこそ白兎なのだ。帽子屋の時間はいつもお茶の時間にセットされている。松には松の時間、蚊には蚊の時間、素粒子には素粒子の時間があるということがすなわち存在していることなのだ。色んなものはそれぞれの時間を生きて、生まれたり滅んだりしているが、実はこの世の目でそう見えるのであって、それはそれでよいとして、実は、あるもの(例えば光子のようなものでもエネルギーでも神でも空でもよい)があるだけなのだ。

これまでお聞きした物理学と関連性は分かりませんが、時間も空間も共に言葉であって、もしそれが消えてしまうと、また、別の景色が立ち現れるように思います。

鳥が、時間とか空間を考えると空から落ちるのではないでしょうか?

 



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