アリスとチェシャ猫との対話(83)

390 猫: アリスさんは高校で物理を選択されたそうですね。少し安心しました。

さて、これからいよいよ相対性理論の話に入っていきます。

相対性理論は、アインシュタインが

 (1)すべての慣性系で、物理法則は同じ形に表わされなければならない。

 (2)すべての慣性系において、光速度は同一でなければならない。

という二つの要請を満たすように物理学をつくりなおそうとして生まれた理論です。

 そこでまず、なぜ物理学はこのような要請を満たす必要があったのか、というところから話をはじめたいと思います。

 「慣性系」というのは、たとえば高空を安定した速度で飛んでいる飛行機の中のように、「一定の速さで直線運動をしているところ」を意味しています。

国際線のジェット機は秒速250メートルくらいの猛烈なスピードで飛んでいますが、私たちは飛行機が一定の速さで安定して飛んでいるときには、外を流れる雲などを見ない限り、自分が動いているか止まっているか識別できないということを日常的に経験しています。私たちは飛行機の中で普通に歩くことも立ち止まることもできます。スチュワーデスが飲み物をコップに注いでくれるときに、飲み物が後ろに流れて困るというようなことはありません。困ることが起るのは不規則に揺れる場合だけです。

 これは、等速直線運動をしているところでは、すべての現象が静止しているところと同じように起る、ということを示しています。これは私たちが体験する事実です。「したがって、慣性系の中の物理法則は、静止系の中の物理法則とまったく同じ形式で表現されるはずである」というのが第一の要請です。

 第二の要請は、第一の要請ほど自然なものではありません。すこし詳しい説明を要すると思われます。それは、二つの慣性系からみたとき、光の速さがどう見えるかということに関係しています。

まず普通の物体を考えてみましょう。一定の速度で走る電車の中で、野球のピッチャーが投球練習をしたとします。ピッチャーは電車の後部から前方に向かってボールを投げます。そのボールを地上にいる人がみると、どんな速さに見えるでしょうか。

地上で測定したボールの速さをu、電車の中で測定したボールの速さをu´、電車の速さをvとすると、

     u=u´+v

と考えるのが普通ではないでしょうか。そして、実際の測定結果もこのようになります。

 では、光の場合はどうでしょうか。

 いま、地上で電車の進行方向に沿って光を投射したとします。この光の速さを電車の上で測定したら、どんな結果が得られるでしょうか。地上で測った光速度をc、電車の上で測った光速度をc´とすると、得られるのは

     c´=c−v       ・・・・(1)

という結果でしょうか。

 これを確かめようとして、多くの物理学者たちが実験をしました。その中で最も有名なのが、1887年に米国のマイケルソンとモーリーが共同で行なった実験です。二人の名前をとってマイケルソン・モーリーの実験と言われますが、二人は(1)式のvとして、電車の代わりに地球の速度を利用しました。光の速度は非常に大きいので、電車ぐらいでは影響を測れないかも知れないからです。

 私たちは、何気なく地上を静止系だと考えていますが、地球は宇宙空間の中を猛烈なスピードで飛び進んでいます。地球が太陽の周りをまわる公転の速度は、秒速29キロメートルに達します。それどころか、太陽は地球を含む全惑星を引き連れて銀河系の中心の周りを公転しています。その速度は秒速220キロメートルにもなります。このくらいの速さであれば、光の速度の0.07パーセントくらいになり、何らかの影響があるなら十分観測できる範囲です。

 マイケルソンとモーリーは、地球の上で、いろいろな方向に進む光の速度を測定しました。光の方向によって地球の速度が光の速度に足されたり引かれたりして、方向によって違う光速度が測定されるはずでした。地球の公転軌道の上でも違う方向になるように、いろいろな季節に測定を繰り返しました。けれども、結果的には、どのような方向に測っても、光の速度はつねに一定でした。光は(1)式の足し算に従わないのです。

 このことから、アインシュタインはどの慣性系からみても、光の速度は一定であるという仮説をたて、それを満たす物理学を考えたのです。(実際には、アインシュタインはマイケルソンとモーリーの実験のことを知らなかった、とも言われています。アインシュタインはマクスウェルがたてた電磁波の方程式のことを考えていたのでした。けれども、結果的には同じことになります。ここでは、歴史的な意味がわかりやすいマイケルソン・モーリーの実験をとりあげました。)

その結果得られたのが、ローレンツ変換と呼ばれる座標変換の式でした。座標変換というのは、ひとつの系で得られた物理量の値を別の系の数値に書き換えるための公式です。

まず、クラシックな物理学における座標変換を示します。これは、近代科学の父と呼ばれるガリレオ・ガリレイに敬意を表して、ガリレイ変換と呼ばれます。

いま、地上を静止系Sにとり、そのx軸の上を電車が速度vで走っているとします。電車の上の座標系をS´とし、その変数にはすべて´をつけてあらわします。

静止系Sの上での座標値xと時間tを、運動系S´の上の座標値x´と時間t´に結びつける関係は

    x´=x−v*t

    t´=t

である、というのがガリレイ変換です。これは私たちの日常的な体験をあらわしており、クラシックなニュートン力学でもこの変換を使っていました。

 これに対し、相対性理論が使うローレンツ変換は、

     x´=(x−v*t)/γ

     t´=(t−v*x/c↑2)/γ

で表わされます。ただし

     γ=SQRT(1−v↑2/c↑2)

です。この式は相対性理論のいたるところに出てきますので、γという記号で表わすことにします。

 まず、これらの式で光速度cが無限大になったときには、γ=1 となるので、これらの式はガリレイ変換と同じになることを確かめてください(これはcで割り算しているところをゼロにするだけです)。つまり、ガリレイ変換は、光の速度が無限に大きいときの極限の姿をあらわしているということです。

 このことは、またvがcに対して非常に小さいときには、ローレンツ変換はやはりガリレイ変換と同じになることを示しています。これが、クラシックな物理学においてガリレイ変換を使用して問題がおきなかった理由です。実際、飛行機や鉄砲の弾、あるいは宇宙ロケットでさえも、ほとんど相対論的効果は無視できる程度にしかなりません。実際に相対論的効果が問題になるのは、素粒子物理学の分野だけといっても過言ではありません。

 実際の数値は無視できるとしても、物質世界の本質については、式の違いを無視することはできません。

 ローレンツ変換とガリレイ変換の最大の違いは、時間が変換を受けるということです。クラシックな物理学では、時間というものは、宇宙のあらゆる場所、あらゆる運動状態の物体に対して共通であると考えてきました。けれども、相対性理論ではそうではありません。あらゆる物体にそれぞれの固有の時間があるのであって、相対的に運動していないもの同士の間ではその時間は一致しているが、互いの間に運動があれば、それぞれの時間は違ってくるのです。

 昔は、家中がただひとつの「おじいさんの時計」の示す時間によって動いていたのに、いまは家族のひとりひとりが自分の時計を持っているだけでなく、冷蔵庫にも、パン焼き器にも、テレビにも、パソコンにも・・・・ありとあらゆる家具や器具に時計がついていて、しかもそれぞれが少しずつ違った時間を示しているという、現代の私たちの家のようなものです。

 次に、v=c、つまり物体が光と同じ速度で動いているときには、ローレンツ変換の式の分母がゼロになってしまい、式が使えなくなってしまうことに注意してください。実は光速度で走れるのは光だけであって、重さをもった物体は決して光の速さに到達することはできないのです。

これは、後で速度の合成則や質量の変換の話をしたときにもっとよくわかると思いますが、光だけが特別な存在であることを憶えておいてください。

とりあえずこのくらいで休憩しましょう。如何でしょうか、ご感想は。

 

391アリス: <(2)すべての慣性系において、光速度は同一でなければならない。>という前提が、ちょっと分かりにくいですね。しかも、われわれの住む世界が、これに合致しているのは不思議でなりません。光とは何か?何によって光を光と認識するのか?そんな基本から抑えないと駄目だという気がしました。

ローレンツ変換の分母の説明はこれから出てくるのでしょうか?それ以外のところは一応理解できました。

 

392 猫: 光速度一定の原理(光速度がどんな運動をしているものから見ても同じである)は<分かりにくい>ではなく、「受け入れがたい」ではないでしょうか。まったく常識に反しているようにみえます。けれども、相対性理論も素粒子論も、私たちの常識にとってはまったく信じられないような話ばかりで成り立っているのです。

私たちの常識は日常の経験によってつくられています。物理学が常識と一致していたのは十九世紀まででした。それは、その頃までは、物理学が私たちの身の回りのことしか対象にしていなかったからです。物理学が身の回りの世界を超えて、ものごとの本質を深く探求し始めたときに、常識からの乖離が始まったのです。

 物理学者たちも、はじめから光速度一定などと考えていたわけではありません。光が波動であると考えられたのは、ニュートンの時代からだと以前にお話しました。波動というのは、何もない真空を伝わることはできません。波動とは何かが揺れ動いてできるものだからです。海の波は海水が動くことによってでき、音の波は空気が振動することによってできます。このような揺れ動くものを媒質といいます。光は何の振動なのか。光の媒質は何なのか。物理学者たちはまずこう考えました。そして光の媒質をエーテルと名づけ、エーテルを発見することに努力を傾けました。

地球は前回お話したように、複雑な公転運動をものすごい高速で行なっています。エーテルというものが存在するなら、地球は、ちょうど自動車が空気を掻き分けて進むようにエーテルを掻き分けて進んでいるはずです。マイケルソンとモーリーの実験は、このエーテルと地球の相対速度を検出しようという実験でした。その結果は前回お話した通りです。

地球とエーテルの相対速度は検出できませんでした。光の速度はどっちを向いても一定でした。光速度一定というのは実験的事実なのです。

それでは、いっそのこと光速度一定を前提としたらどんな物理学ができるだろか、と考えてつくられたのが相対性理論です。その結果は、私たちの時間空間の概念を根底からひっくり返してしまうようなものでした。けれども幸いというか、当然というか、その影響は運動速度が光に近づいたときにしか現われないようなものです。

ローレンツ変換の分母に現われる式γの値を計算してみましょう。

v/c

γ

1/γ

0

1.00

1.00

0.1

0.99

1.01

0.2

0.98

1.02

0.3

0.95

1.05

0.4

0.92

1.09

0.5

0.87

1.15

0.6

0.80

1,25

0.7

0.71

1.40

0.8

0.60

1.67

0.9

0.44

2.29

1.0

0.00

無限大

これをみると、相対論的効果は速度が光の速度と同じくらいになったときだけ、急激に現われることがわかります。ちなみに、人間が作る最も速い乗物の速度をマッハ10(=秒速3キロメートル)と考えると、このときの相対論的効果は、

       γ=0.99999999995      1/γ=1.00000000005

にしかなりません。ましてや私たちの日常の移動速度では、まったくその影響はみえません。もちろん、それだからこそ、ニュートンの古典的物理学がこれまで何も問題なく使われてきたのです。

 けれども、素粒子の世界では、相対論的効果が現実に現われます。そこで、ローレンツ変換の式から、どのような現象が生じるのかを見てみましょう。計算の過程は省略しますが、止まっているときの長さがkの棒が速度vで動いているとすると、静止系で見たその長さlは、

        l=γ*k

となり、棒といっしょに動いている時計(時間)の進み方τは、静止系で観測した時間tに対し

        τ=γ*t

となります。これは、動いている棒(空間的距離)は止まっているときより短くなり、動いている物体の時間はゆっくり経過するということを示しています。

もちろん、運動は相対的ですから、動いている本人が、自分の体が平たくなったり、時計が遅くなったりするのを感じるわけではありません。私たちは、二つのものが相対的に運動しているとき、特別の理由がなければ、大きい方が止まっていて、小さい方が動いていると感じる傾向があります。けれども、ほんとうはどちらが動いているかは、決められないのです。後で宇宙線の中の粒子の例をお話ししますが、私たちは天空から粒子が降ってくると考えますが、粒子のほうから見れば、自分は止まっていて、地球が近づいてくるのです。

 この長さや時間間隔の短縮という現象は、実際に実験で測定できる現象です。具体的な例をひとつだけあげておきます。宇宙線の中のμ粒子は、地球の成層圏で作られ、光速度の99.95パーセントという猛烈な速度で地上向けて飛び込んできます。けれども、μ粒子の平均寿命は2.2×10↑(−6)秒という短い時間なので、光速度で飛んでも660メートルしか進めません。本来なら地表まで届かないうちに消滅してしまうはずです。けれどもこの粒子は実際に地上まで飛んできます。それは、光速度の99.95パーセントの速さでは、γが1/30になるので、地上の時間で6.6×10↑(−5)秒経ったときに、やっと粒子の時間で2.2×10↑(−6)秒が経過することになります。その間に粒子は約20キロメートルを進んで、地表まで降りてくることができるのです。

 粒子のほうの立場で見れば、自分の時間がゆっくり進んでいるとは思えないわけですが、粒子から見れば地球が猛烈な速さで近づいてくるわけですから、その空間距離が1/30に縮んでいます。そのために軽々と地表まで走ることができるのです。

 この奇妙な関係をご理解いただけたでしょうか。

 その極端な場合が、常に光速度で走る光そのものの場合です。光子の時計はつねに止まっています。光子は時間経過なしでどこまででも走っていけるのです。光のほうから見れば、宇宙は一点です。光は同時刻に宇宙のあらゆる場所に存在しています。これを見ても、光というものが、尋常な存在でないことがわかります。

 

 先へ進む前に、ここで速度の合成規則を示しておきます。いま、速度uで走る電車の中で野球の選手が投球練習をして、電車の後部から前方に向かってvの速さでボールを投げたとします。

 古典物理学のガリレイ変換では、このボールの地上から見た速さwは

        w=u+v

ですが、ローレンツ変換では

        w=(u+v)/(1+u*v/c↑2)

となります。

 電車の中で投手がボールを投げたくらいでは、相対論の影響はほとんど無視できるので、常識どおりにu+vで計算して問題はありませんが、もしu=0.6c、v=0.7cだったとするとどうでしょうか。古典的計算ではw=1.3cとなって光速度を超えてしまいますが、この式では、w=0.92cとなります。u、vが光速度より小さい限り、wが光速度を超えることは決してありません。u、vのどちらかがcになれば、wもcになります。これはどんなに早く走る物体から出た光も、やはりcの速度でしか走らないことを示しています。もちろん、光速度一定の前提から出発した式ですから当然なのですが。

 これで、ローレンツ変換というものの、そして、そのような法則に支配されている宇宙というもの不思議さが少しお分かりいただけたかと思います。ずいぶん回り道をしましたが、次回から本命の質量の話に進んでいくこととしましょう。

 

393アリス: 次第に難しくなってきました。ローレンツ変換

     x´=(x−v*t)/SQRT(1−v↑2/c↑2)

の分母の式はこのようにすると、実験(観測)数値と合うということで作られたものなのでしょうか、それとも、論理的説明のつくといった性質のものでしょうか?

お話をお続けください。

前へ  次へ  目次へ