アリスとチェシャ猫との対話(81)

380 猫: これから少し数式を書きますが、普通の書き方をするとあとでインターネットのウェブページに掲載できなくなるので、ウェブページで扱えるような表記法を取り決める事にします。このような表記法は、コンピュータのソフトを書くときなどによく使われます。

 (1)数学や物理学で数式を書くときには、積(掛け算)の記号を省略するのがふつう

ですが、これを省略せず*で書き表すことにします。

 (2)分数は斜線(/)であらわします。

 (3)2乗や3乗のようなべき乗は上向きの矢印(↑)で、x↑2のように書きます。

 (4)平方根はSQRTという関数で表わします。たとえば2の平方根が1.4142である

ことは SQRT(2)=1.4142 と書きます。

 (5)数学や物理学の式では、変数の名前にサフィックス(下添字)をつけることがあ

りますが、変数の名前はすべて普通の大きさの文字で書きます。積の意味と混同さ

れないために、(1)のルールで積はすべて明示します。

 相対性理論の典型的な式をひとつ上の表記法で書いたものと普通の式で書いたものを掲げておきますので参考にしてください。

 

さて、質量に関するご質問にお答えするには、言葉を整理する必要があります。質量という言葉で表わされるものが二つあるからです。少し古い呼び名ですが、一つを「相対論的質量」もう一つを「静止質量」と呼びます。二つの質量は次の式で結ばれています。

       m=m0/SQRT(1−u↑2/c↑2)         ・・・・(1)

  記号: m 相対論的質量、 m0 静止質量、 c 光速度、 u 物体の速度

 

 この関係は光子でも野球のボールでも同じです。(1)式でu=0(つまり物体が静止している)とおくと m=m0になるので、m0は静止質量とよばれます。

相対論的質量mは、私たちがその物体を動かそうとしたり、質量を測ったりするときに知覚する質量です。(1)式は、それがその物体の運動状態によって変わることを示しています。運動というのは相対的なものですから、物体の(相対論的)質量は、誰がそれを測るかによって変わってきます。野球のボールの重さをそれが空中を飛んでいる状態で測定したら、ごくわずかですが静止状態で測ったものより重くなっているはずです。また、野球のボールと並んで飛んでいるツバメがボールの重さを測れば、地上に立っている私たちが測るよりも軽くなるはずです。

これに対し、静止質量は物体に固有の量で、運動によって変化することはありません。

 

 (1)式の両辺にc↑2をかけると、エネルギーの式が二つできます。

    E=m*c↑2                  ・・・・(2)

    E=m0*c↑2/SQRT(1−u↑2/c↑2) ・・・・(3)

    記号: E エネルギー

 これに前回お話した光子のエネルギー

 E=h*n           ・・・・(4)

    記号: h プランクの定数、 n 振動数

を組み合わせて、質量について解くと、

    m=h*n/c↑2           ・・・・(5)

    m0=(h*n/c↑2)*SQRT(1−u↑2/c↑2) ・・・・(6)

となります。

光の場合は u=c ですから、(6)式はつねに0になります。逆に静止質量がゼロの粒子は、必ず u=c であって、絶えず光速度で走り回っていなければならないのです。

(5)が、アリスさんの言われる「光の重さ」です。これは光の振動のエネルギーそのものの重さで、これがあるために光が当たる面は光の圧力を受けることになります。

以上が光の質量に関する話です。

 

「位相」という属性は、波の山谷を表わす性質で、光子の進行経路に沿って、山谷が交互に現われます。複数の光子が出会う時には、この位相のずれ具合によって、強めあったリ、弱めあったりします。

「偏光」という属性は、光が特殊な結晶を透過するかしないかといったことに関係する属性です。たとえて言えば、光子が平たいせんべいのような形をしていて、それがすだれのような隙間を通り抜けるようなものです。せんべいの向きが、隙間と平行になっていれば通り抜けるが、隙間と直角になると通り抜けない、というような感じです。もし、せんべいが隙間に対して45度に傾いていると、半分が通り抜け、半分は通らないということになります。これは光子と物質のせんべいとの違いです。

 

381 アリス: <(1)式の両辺にc↑2をかけると、エネルギーの式が二つできます。>の意味が分かりませんが、(1)(2)を前提とすると、(3)以下の話は良く分かります。

(1)(2)の論拠を問うには、物理学の初歩から勉強しないと無理でしょうから、一応光子は質量を持たないことにいたしましょう。

それにしても、光子が質量を持たないのは幸せですね。光に質量があると、光の山ができて処置に困ることでしょう。

自分で「質量」という言葉を使っていながら、質問するのもおかしいのですが、物理学では「質量」をどう定義しているのでしょうか?

 

382 猫: <エネルギーの式が二つできます>と言ったのは、アリスさんがE=m*c↑2という式をご存知であることを前提として、(1)式にc↑2をかけると、左辺がm*c↑2になるので、これはエネルギーをあらわしており、したがって等号で結ばれた右辺もエネルギーを表わす式である、という意味です。

 ただし、なぜ E=m*c↑2 という式が成り立つのか、つまり、なぜ物体のもつエネルギーが「その物体の(相対論的)質量に光速度の二乗をかけたものに等しい」となるのかということについては、相対性理論を、ほんの入口だけですが、きちんと説明しないといけませんので、もし関心がおありならあらためてお話しすることにしましょう。

 

 <物理学では「質量」をどう定義しているのでしょうか>というご質問にお答えします。

 「質量」という言葉は、昔は(十九世紀までは)文字通り物質の量を表わすものだと考えられていました。けれども、現代物理学では、物質とはなにか、その量とは何か、ということ自体がそれほど自明なことではなくなっており、結局「質量とは、物質がある特定の場面において示す属性である」としか定義できないようになっているようです。それはたとえば摩擦係数と同じようなものだといえます。摩擦係数が摩擦による抵抗の大きさしめすように、質量は慣性による抵抗の大きさを示すわけです。

 

 前回「質量」に二種類あるといいましたが、古典物理学においても、質量には別の分け方で二種類あることが知られていました。その一つは「慣性質量」と呼ばれ、もう一つは「重力質量」と呼ばれます。

 「慣性質量」というのは、物体に力を加えて動かそうとしたときに感じる慣性による抵抗の大きさを決める因子です。水に浮かんだボートは軽く押せばすぐ動きますが、大きなタンカーをひとりの力で動かそうとしても動きません。これは、ボートにくらべるとタンカーの慣性質量がけた違いに大きいので動きにくいのです。

 式で書けば、

a=f/m1 

となります。この式は、ある物体に力fを加えて動かそうとしたとき、その物体が動き出す加速度aは、加えた力をその物体の慣性質量m1でわったものである、ということを表わしています。慣性質量が大きいほど加速度が小さくなることがわかります。

 「重力質量」というのは、その物体の重量、つまり地球がその物体を引っ張る力の強さを決める因子です。私たちは、ふつう質量と重量を混同して使っていますが、厳密に言えば、重量は地球がその物体を引っ張る力の強さであって、同じ物体を月に持っていけば、質量は変わりませんが、重量は変化します。月の引力のほうが地球の引力より弱いので、月にもっていった物体は軽くなるのです。

 式で書けば、

        w=m2*g

です。この式は、ある物体の重さ(=重量=地球がその物体を引っ張る力の強さ)wは、その物体の重力質量m2に地球の重力加速度gをかけたものである、という意味です。月に行けば、このgが小さくなるので、m2は変わらなくてもwは小さくなります。

 

 理論的には、慣性質量m1と重力質量m2が同じでなければならないという理由はないので、たくさんの物理学者が二つの質量の違いを確かめる実験をくりかえしました。その結果、慣性質量と重力質量はつねに同じである、いうことが非常に高い精度で確かめられていました。十九世紀までの古典物理学の世界では、慣性質量と重力質量が同じであるというのは、「実験的事実」ではありましたが、理論的になぜそうなのかということはわかっていませんでした。

 自然界において、別のものと思われる二つの量がいつも同じであるとしたら、その二つは本当は同じものであるはずだ、と物理学者は考えます。関係のないものが偶然にいつもおなじ値をとるということはあり得ないと思われるからです。その意味では、この二つの質量がなぜいつも同じになるのかというのは、物理学にとってはひとつの謎であったわけです。

 

 謎を解いたのはアインシュタインでした。相対性理論によって、この二つの質量が本質的に同じものであるということが理論的に確認されました。

 相対性理論によって、慣性質量と重力質量は一つになりましたが、その代わりに前回お話したように、「相対論的質量」と「静止質量」の二つが生まれました。この呼び方は、相対性理論が出た当時の驚きと違和感を伝えた古い呼び名で、現代では単に「質量」といえば「静止質量」を指し、「相対論的質量」はむしろエネルギーとしてとらえられるようになっています。相対論的質量は常に、そのものの総エネルギーを光速度の二乗という一定の量でわったものにすぎないからです。

 静止質量は、その物体(素粒子)の固有の性質です。これが何なのか、なぜ素粒子はある特定の値の静止質量をもつのか、というのは、現代の物理学の最も基本的な課題の一つで、まだ解明されていないというのが本当だと思います。

 

383アリス: <なぜ E=m*c↑2 という式が成り立つのか、つまり、なぜ物体のもつエネルギーが「その物体の(相対論的)質量に光速度の二乗をかけたものに等しい」となるのかということについては、相対性理論を、ほんの入口だけですが、きちんと説明しないといけませんので、もし関心がおありならあらためてお話しすることにしましょう。>

どうやら、このお話をお聴きしないと、質量も分らないようなので、よろしくお願いします。

 

384 猫: 難しいことになってきました。私も、この話をちゃんと説明できるかどうか自信がありませんが、物理学者たちがいまこの世をどうみているか、ということを理解するためには避けて通ることは出来ませんので、チャレンジしてみたいと思います。

 

 私はいま<物理学者たちがいまこの世をどうみているか>と言いました。それは、二十世紀のはじめ頃から物理学に大変化の嵐が起っており、物質や時間・空間といった私たちが世界を認識するための土台となる観念を揺さぶりつづけているからです。その変化はいまも続いており、そのため物理学者たちのあいだでもさまざまな考えがあって、統一見解に到っていないのが実情です。けれども、物理学が十九世紀以前に戻ることはもうないでしょうし、物理学者たちのあいだで始まった世界観の変化はいずれ一般庶民の方にも流れてくるでしょう。私の説明がうまく出来るかどうかも問題ですが、アリスさんのほうでも、十九世紀以前のクラシックな考え方と何が変わったのかという「変化」に焦点を当てながら聞いていただければ幸いです。

 

 はじめにクラシックな物理学(古典物理学)における考え方を紹介して、それがどう変わっていったかということをお話しします。クラシックな考え方というのは、大体私たちが中学や高校で学んだ物理学です。アリスさんがこういった方面をどのくらいご存知かわかりませんが、中学程度の理科の知識はもっておられるものと考えて話を進めます。

 

 はじめに、古典物理学における「運動量」と「運動エネルギー」についてお話しします。

 質量mの物体が、速度vで動いているとき、その物体がもっている運動量pと運動エネルギーEは次の式で定義されます。

      運動量:    p=m*v     ・・・・(384.1)

   運動エネルギー:   E=(1/2)*m*v↑2    ・・・・(384.2)

 そして、外から力を加えない限り運動量と運動エネルギーは一定に保たれます。これを「運動量保存の法則」および「エネルギー保存の法則」といいます。

 

 難しい言い方をしましたが、これは私たちが日常的に経験することでもあるのです。

(例1) 重さの等しい二つの物体が正反対の方向から同じ速度で飛んできてぶつかるとします。速度の向きまで考えると、一つの物体はm*v、もう一つの物体は−m*vの運動量を持っています。両方の運動量を足したものがゼロであることに注目してください。雪合戦の雪球のように二つがぶつかってくっついたとすると、両方合せた運動量はゼロですから、くっついた雪球は速度を失ってその場にポトンと落ちます。ピンポン球のように跳ね返ったとすると、二つの球はまた別の方向へ飛んでいきますが、そのときも、両方の運動量を足し合わせたものは常にゼロになっています。

 物体が離れていてもくっついていても、物体がいくつあっても、考えている物体全部の運動量の総和が常に一定に保たれるということです。

(例2) 止まっている物体の運動量はゼロです。いまその物体の一部分をちぎって高速で投げ飛ばしたとすると、投げ出された物体はm*vの運動量を持ちます。すると運動量がゼロだったところにm*vという運動量が生じたわけですから、運動量保存の法則が成り立つためには、どこかに−m*vに相当する運動量が発生しなければなりません。このため物体の残りの部分が反対方向に動き出します。

 物体の残りの部分の質量をM、速度をVとすると

      m*v=−MV

したがって

      V=−m*v/M

という関係が成り立ちます。(マイナスの記号は、速度の向きが反対であることを示しています)。こうでないと全体の運動量がゼロにならないからです。残った部分の質量Mが非常に大きければ、動き出す速度Vは非常に小さくなり、動いていることに気付かないかも知れないし、実際には摩擦やほかの事情で動かないかも知れません。

 これがいわゆる「反動」として私たちが感じるものです。これはロケットの原理でもあります。ロケットが出発前に発射台に立っているときは、静止していますから運動量はゼロです。燃料に火がつくと、燃料は高速のガスとなってロケットの後ろに噴出します。その反動として、ロケットは上昇し始めます。噴出した燃料よりもロケットのほうが重いので、燃料の噴出速度に比べればロケットの上昇速度はゆっくりしていますが、ロケットが何万メートルも昇っていったあとでも、

噴出されたガスの総質量×平均速度 = ロケットの質量×速度

という関係が成り立っています。何か不思議な感じですね。

 

なぜ、物体が運動すると運動量とか運動エネルギーというようなものが生まれるのか、というような疑問をもたれるかも知れません。質量とは何か、エネルギーとは何か、というご質問にも関係しますので、このことに触れておきたいと思います。

 物体が重さを持ち、物体が動くときには速さというものがある、ということは日常的な体験として直接的に納得できますね。重さを表わすのが質量であり、速さを表わすのが速度であるわけですが、質量と速度を掛け合わせた運動量というようなものが、本来的に何か意味をもっているわけではありません。

 ただ、動いてきた物体がぶつかったり、止まっていた物体が動き出したりといった運動の変化が起ったときに、変化の前後で全体の運動量が変わらないという法則が観測されるので、運動量という概念が意味をもつのです。もし、このような法則性が自然界の中に存在していなかったら、誰も運動量というようなものを考えたりしないでしょう。

 つまり、物質がある量あるいは性質をもつというとき、それは「それ自体」として意味があるのではなく、それが関与する「法則」と結びついてはじめて意味をもつのです。このことをよく考えていただければ、質量とは何か、というご質問についても答えが見えてくるのではないでしょうか。

 

 それはともかく、次回は運動エネルギーについてお話しします。このような進め方でよろしいでしょうか。

 

385アリス: どうぞ、お話をお進めください。

<物質がある量あるいは性質をもつというとき、それは「それ自体」として意味があるのではなく、それが関与する「法則」と結びついてはじめて意味をもつのです。このことをよく考えていただければ、質量とは何か、というご質問についても答えが見えてくるのではないでしょうか。> 法則=関係と考えると、何か確からしいものと関係付けたいですね。

でも「それ自体」というものは分からなくても、操作ができれば、日常は困らないというのも事実ですが・・・

なお、私の物理の知識は40年以上も前のものです。アインシュタインの「物理学はどうして作られたか」(岩波新書)とか、ガモフの「不思議の国のトムキンス」は読みましたが、ほとんど覚えておりません。

そういえば、アインシュタインの伝記は1冊読み、その中で「顔を洗う石鹸と、洗濯石鹸の2種類があるのは、複雑すぎる」というくだりがあって、強く共鳴したのを覚えています。今1冊英文の伝記は未読のまま放置されています。初歩から、よろしくお願いいたします

 



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