アリスとチェシャ猫との対話(80)

372 猫: 私も若いときは天文学者になろうと考えていたくらいですから、星の写真を見るのは好きです。

次に進む前に、現代の宇宙論では、宇宙は一つではない、という見方があることもお話ししておきます。その説によれば、宇宙は無数に、生まれたり消えたりしている、というのです。もちろん、私たち人間の尺度で測れば、一つの宇宙が生まれてから消えるまでには数百億年かかります。けれども、時間の尺度を無視して言えば、宇宙を生み出す母体(それを何と呼べばよいかわかりませんが)は、沸騰するお湯の中で次々に泡が生まれるように、宇宙を生み出しているのです。

 さて、原始のRが思惟(=言葉=【W】)によって分化し、Mが生まれるということでした。(簡単のため、たくさんの階層構造は省略しておきます)。私は、これはRの意識の中にさまざまな概念が生まれるということだと解釈していますが、それでよろしいでしょうか。それとも、混沌に目鼻をつけるように、R自身が変身するという表現をお好みでしょうか。

 私は世界を生み出す原動力【W】は「言葉」といってもいいけれど、想像 (イマジネーション)というほうがもっと適切ではないかと考えています。Rは物語作者であり語り部なのです。化成説的に表現するなら、Rは物語を作るだけでなく、自分が物語りになってしまうのです。Rは自らが作り出す物語の、主人公になり、敵役にもなり、背景にも舞台にもなってしまいます。ひとりで何役もこなすひとり芝居、しかもRは、その脚本を書き、演出をし、上演し、観賞し、感動することまでひとりでやってしまうのです。それだけではありません。Rは、このような芝居を上演する芝居小屋(宇宙)を無数につくって(あるいは芝居小屋に変身して)、同時にいくつもの芝居を上演しているのです。

 私たち人間は、このひとりで遊んでいるRが、遊びのために作り出した無数の分身のひとり、ということになりますが、このようなイメージはアリスさんのお考えに沿っているでしょうか、それとも何かちがうなあ、ということでしょうか。

 付け加えておきますが、上に述べたように、私が描くイメージは、神であれ空(くう)であれ、意志をもち、意図をもって、世界を創ったり世界になったりします。これが私の考えが創造説的に聞こえる理由かも知れません。

 物理学者たちは、物質世界が物理法則にしたがって自動的に展開してきたという説明をしたがります。そこには自由意志の入る余地はありません。

 アリスさんは「Rが分化し始めたのは退屈したからでしょう」というような言葉を使われましたが、アリスさんのお考えはどちらなのでしょうか。化成説は自動展開説なのでしょうか。

373アリス:猫さんのご質問に簡潔にお答えします。

<私は、これはRの意識の中にさまざまな概念が生まれるということだと解釈していますが、それでよろしいでしょうか。それとも、混沌に目鼻をつけるように、R自身が変身するという表現をお好みでしょうか。>

いずれも、ちょっと違うようですが、どちらでもいい感じもします。上手く表現できませんが、前者は概念という言葉、後者では変身という言葉が引っかかります。

<私たち人間は、このひとりで遊んでいるRが、遊びのために作り出した無数の分身のひとり、ということになりますが、このようなイメージはアリスさんのお考えに沿っているでしょうか、それとも何かちがうなあ、ということでしょうか。>

これは、イメージとして、合っています。

<物理学者たちは、物質世界が物理法則にしたがって自動的に展開してきたという説明をしたがります。そこには自由意志の入る余地はありません。

 アリスさんは「Rが分化し始めたのは退屈したからでしょう」というような言葉を使われましたが、アリスさんのお考えはどちらなのでしょうか。化成説は自動展開説なのでしょうか。>

物理法則にしたがっているものを物質世界と呼べばいいのではないでしょうか?それ以外にも色んなルール・法則があり、その法則があるから、遊びが成立するのだと思います。

自由意志はその遊びに不可欠なものと思われます。化成説を取ったとしても自由意志が入ってもおかしくないと思います。

374 猫: <物理法則にしたがっているものを物質世界と呼べばいいのではないでしょうか?それ以外にも色んなルール・法則があり、その法則があるから、遊びが成立するのだと思います。自由意志はその遊びに不可欠なものと思われます。化成説を取ったとしても自由意志が入ってもおかしくないと思います。>

 Rが遊びのために作り出す世界は、いろいろなルールに従ういろいろな世界があるのであって、その中の一つが物質世界だというのですね。そして、物理学者たちは、物質世界だけしか知らないだけだと・・・・。

 これは、これまでの対話の見事な要約です。私も完全に同意します。表現の細部におけるアリスさんと私の違いなどは、とるに足らないものだと思います。

 さて、相当重要なポイントで一致を見ることができました。

 この先、どちらの方へ話を進めましょうか。また物理学の世界の話を続けますか。平行宇宙論というのはどうでしょうか。それは単におもしろいだけでなく、この「神の遊び」の世界における「私」とは何なのかというテーマに関係してきます。

誰かが「理論はSFより奇なり」と書いていました。最近の物理学者たちの考えることは、昔ならSFにしかならなかったようなアイデアを真面目に取り上げ、しかも常識はずれであればあるほど有力な理論になるという不思議な世界になっています。それは、物質世界しか知らなかった物理学者たちが、いつのまにか物質世界の境界線を超えてしまったともいえます。お望みであれば、その方へ進んでみようと思いますが、他に取り上げたいテーマがあれば、おっしゃってください。

375アリス: 面白そうですね。お話をそのまま続けてください。

<この「神の遊び」の世界における「私」とは何なのかというテーマに関係してきます。>ということですから、興味深々です。

376 猫: 平行宇宙というアイデアは、SFの世界ではおなじみのものです。フレッド・A・ウルフは「おそらくSFというジャンルが始まったときから存在した」と述べています(『もう一つの宇宙』遠山峻征・大西央士訳、講談社ブルーバックス)。

 けれども、平行宇宙の概念が物理学の真面目な理論として世に出るとは誰も予想していなかったと思います。ヒュー・エヴァレットが量子論の平行宇宙解釈をはじめて提唱したのは、いまから五十年程前、1957年のことでした。エヴァレットは、当時まだプリンストン大学の大学院生でした。おそらくこのような「向こう見ずな」理論を提唱することができたのも、エヴァレットの若さによるのではないでしょうか。

 いま「量子論の平行宇宙解釈」と言いましたが、この「解釈」という言葉が、量子論の一つの特徴をあらわしています。量子物理学では極めて正確に現実の現象を計算できる数式が得られていますが、その性質があまりにも通常の物質の性質とかけ離れているために、誰もそれが何を表しているか説明することができない状態が続いています。普通の物理学者は、計算さえ正確にできるなら、それが何を表わしているかわからなくてもかまわないという態度をとりますが、少数の物理学者たちは、何とかしてその数式が表わしている意味を探ろうとします。このようにして「量子論の解釈」と呼ばれるものが生まれます。現在おもなものだけで8種類の解釈があるとニック・ハーバートは書いています(『量子と実在』、はやし・はじめ訳、白揚社)。

 ヒュー・エヴァレットの解釈もその一つです。これを説明するためには、まず量子の性質をしめす簡単で基本的な現象を説明しなければなりません。

それは光の干渉と呼ばれる現象です。光源から出る光をスクリーンに向かって投射します。途中についたてをおき、それに細い切れ目(スリット)をあけます。非常に近接して2本の平行のスリットをあけると、スクリーンには縞模様が現われます。これを光の干渉と言います。この現象は既にニュートンの時代から知られており、光が波であることの証拠だと考えられていました。

この現象のほんとうの不思議さは、光の強さを非常に弱くしたときに現われます。光は光子と呼ばれる粒子の流れです。光の強さを弱くしていくと、ついには光子が一粒ずつ光源からスクリーンに向かって飛んでいく状態を実現することができます。スクリーンのところに乾板をおいておくと、光子が当たったところがポツポツと感光していきます。短い時間で実験をやめると、感光した点は夕空の星のようにまばらで、縞模様を読み取ることはできません。けれども、長い時間実験を続けると、感光した点の数が増え、縞模様が見えてきます。それは夜がふけるにつれて星の数が増え、天の川や星座の姿が見えるようになるのと同じです。

光が波動性を示すのは間違いありませんが、その波動は光子そのものの波動ではなく、光子がどこに飛んでいくかという行き先の分布の確率の波動、正確に言えば、確率の平方根の波動なのです。

けれども、確率というのは統計的な性質です。スリットが二つあることによって光子が影響を受け、それによって確率が変わるというのなら不思議ではありませんが、一粒ずつ飛んでくる光子は、同時に二つのスリットを通るわけにはいきません。隣にもう一つスリットがあいていてもいなくても、光子の行動には影響がないはずです。ところが実際には隣に平行してスリットをあけると、光の行動が変わってしまうのです。

この謎を解釈するために多くの物理学者が頭を悩まし、そしていろいろな解釈が生まれました。

エヴァレットの解釈はこうです。

光子がスクリーンのどこにどれくらいの確率で到達するかを計算する数式を波動関数といいますが、この関数の形をみると、右のスリットをとおった光子と、左のスリットを通った光子が、スクリーンの同じ位置に到達したときに強めあうか弱めあうかということによって(これを干渉と言います)、その点に来る光子の確率が決まることがわかります。

けれども、光子が一粒ずつ飛んでくるときは、同時に両方のスリットを通ることはできないので、干渉できないはずです。先に光源を出た光子が右のスリットを通ってスクリーンの上のA点に達し、次に光源を出た光子が左のスリットを通って同じA点に到達したとしても、先の光子はとっくの昔にスクリーンについてしまっているのですから、この場合も干渉する筈はありません。

そこで、若いエヴァレットはこう考えました。

すべての光子は、つねに「影武者」を伴っている。ある光子が右のスリットを通ったとき、この影武者は左の道を通る。そして、スクリーンの上で合体して、そこで干渉を引き起こすのだと。

この影武者は、私たちの世界で観測することはできません。それは影の世界に存在します。それは自分自身との干渉という形でしか姿を表わすことはありません。影の世界は私たちの世界とまったく同じ姿をしています。影の世界には、光源の影武者があり、ついたてとスクリーンの影武者があります。私たちの世界(これを実の世界といいましょう)で光子が一個光源からスクリーンに向かって走ったとすると、影の世界の中で、影の光子が影のついたてを通り抜けて影のスクリーンに到達します。それはまるで鏡の中の世界のようです。

けれども、影の世界と実の世界は微妙に違っています。実の世界の光子が右のスリットを抜けたとすると、影の世界の光子は左のスリットを抜けるのです。

もしスリットがもっとたくさんあったら、影の世界もたくさんになり、その中であらゆる可能な道がすべて試されることになります。

ファインマンという人の研究で、光子の波動関数というものは、その光子が取り得るあらゆる可能な道を通った光子の干渉の結果を表わしているということがわかっています。このあらゆる可能な道というときには、光子が直進せず、ぐるぐると曲がりくねって進んだ場合のようなものまで含んでいます。そのような道は干渉の結果消えてしまうので、光は直進するという現象だけが観測されることになるのです。

エヴァレットは、このファインマンのあらゆる可能な道がすべて実際に起っているのだと考えます。なぜなら実在しないものは干渉することができないからです。したがって、影の世界の数はたいへんなものになります。ある人は10の100乗といいました。要するにものすごい数の影の世界があり、その中であらゆる可能性が実現しており、その中で自分自身との干渉が起り、その結果を私たちは観測する、ということになるのです。

これがエヴァレットの平行宇宙論です。

おびただしい数の影の世界があることになりますが、影の世界と実の世界には区別はありません。別の世界にいる「私」は、その世界が実の世界であり、他の世界は影の世界と考えています。すべての世界が、自分自身は実の世界であり、他の世界は影の世界だと見るのです。

うまく説明できたかどうか、わかりません。御質問があればお受けします。次回には、これが、量子のレベルでなく、人間のレベルでどういう意味をもつかをお話したいと思います。

377アリス:お話の流れは良く分ります。お話の中で「鏡」の話が出てきたのと、<その中であらゆる可能性が実現しており、その中で自分自身との干渉が起り、その結果を私たちは観測する、>という表現には強く惹かれます。

次に移る前に大変初歩的な質問をさせてください。ここで論じられている光子と私たちの感じる光との関係はどう理解したらいいのでしょうか?光は透明に見えるが、実は色んな波長のものが含まれていて、プリズムで分解すると色んな波長のものに分解できる。今、窓の外は木々の若葉が繁っていますが、それは、特定の若葉色に感じさせる波長のものが送られて来ているからである、と理解しています。この光と光子との関係をお教えいただけませんか?

378 猫 このような質問は大歓迎です。本来、アリスさんが理解しておられることの上にたって話をしないといけないのですが、アリスさんが何をどこまで知っておられるかがわかりませんので、勝手なしゃべりかたをしてしまいます。わからないことがあったらどんどん聞いてください。

さて、私たちは中学や高校で、光は波動であり、色の違いは波長(あるいは振動数)の違いである、と教えられます。そこで私たちは、光とは海岸に押し寄せる海の波のようなものであると思っています。十九世紀までは物理学者たちもそう思っていました。海の波は海水が揺れ動いてできます。では、光は何が揺れ動いているのでしょうか。物理学者たちは、それにエーテルという名前をつけて、探し求めました。その結果わかったことは、エーテルというようなものは存在しないということでした。そして物理学者たちは、エーテルの代わりに、光の不思議な性質を次々に発見することになったのでした。

量子物理学では、光は光子という粒子の流れと考えられています。たとえていえば、光は雨のようなものだといえます。雨は連続的に降っているように見えますが、ほんとうは雨の粒が次々に落ちてきているのであることを私たちは知っています。それと同じように、光は連続的に降り注ぐように見えますが、実は光子という非常に小さなエネルギーの粒が大量に降ってきているのです。

 粒子といっても、光子には大きさも重さもありません。けれども、エネルギーはもっています。光の色は、このエネルギーによって決まります。光子が持っているエネルギーの大きさをプランク定数と呼ばれる数値で割ると、光の振動数が出てきます。光の速度を振動数で割れば波長が出ます。エネルギーの高い光子ほど、振動数は高く(したがって波長は短く)なります。つまり、エネルギーの低い光子は赤色の光子であり、エネルギーの高い光子は紫色の光子だということになります。もっとエネルギーが高くなれば、紫外線の光子になります。

 光子と光の色の関係は、このようなものです。

 一つのたとえをお話ししておきます。

 粒子が飛んでくるのは、野球のボールが飛んでくるようなものです。野球のボールは重さがありますから、これが飛んでくるときには「運動エネルギー」をもっています。ボールをミットで受けると、ドスンと衝撃を感じます。これは運動エネルギーを感じているのです。運動エネルギーは物体の質量と速度によって決まります。重いものを速く飛ばせばそれだけ運動エネルギーが大きくなります。

 光子には重さがありません。したがって光子の運動エネルギーはゼロです。たとえて言えば、光子はピンポン球のようなものです。軽いので、どんなに速いスピードで飛んできてもそれを受け止めるのは簡単です。このピンポン球に、熱いものや冷たいものがあると考えてください。光子の持っているエネルギーは、ピンポン球がもっている熱エネルギーのようなものです。熱いピンポン球を受け止めれば手が熱くなります。これはピンポン球のもっている熱エネルギーが手に移るからです。同じように光子は、たとえば網膜の物質に当たると、もっているエネルギーを網膜の分子に渡します。分子はもらったエネルギーによって化学変化を起こします。その結果発生した電流が神経を伝わって脳に達し、脳は「光が見えた」と判断します。

 エネルギーの低い光子は、網膜の中の「赤色細胞」と反応します。エネルギーの高い光子は「青色細胞」にエネルギーを渡します。このようにして、光子のエネルギーの違いが色の違いとして脳に認識されることになるのです。

 太陽の光には、さまざまな大きさのエネルギーをもった光子が混ざっています。それが目に入ると、赤色細胞、緑色細胞、青色細胞が均等に反応するので、脳はこの光は無色透明であると考えます。プリズムを通すと、光子のエネルギーの大きさによって光子が曲げられる角度が違うので、エネルギーの高い光子と低い光子が少し違う道を走るようになります。これが光の分散と呼ばれる現象です。

 光子は、エネルギー(したがって振動数または波長)のほかに、位相という属性と偏光という属性を持っています。光が波として干渉し、互いに強めあったり弱めあったりするのはこの位相という属性の働きです。

 以上で、ご質問の答えになっているでしょうか。

379アリス:分かりやすい解説有難うございました。折角ですから、もう少しお教えください。光子は重量(質量)を持たないということですが、もはや、重量を持たすことはできないのですか?アインシュタインのe=mc2(自乗という意味)ということを念頭に置いた質問です。それから、位相という属性と偏光という属性とは何かお教えいただけませんか?

 
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