アリスとチェシャ猫との対話(78

362 猫: 物理学の話は、ご興味がおありなら、また適当な時に続きを取り上げましょう。何しろ、いま物理学は、日進月歩どころか秒進分歩の勢いで進展しています。それは、インターネットの発達によるところが多いようです。昔は、ひとりの研究者の研究成果が論文になって多くの人に知られるようになるには、学会発表か論文誌に投稿するほかなかったため何ヶ月もかかるのが普通でした。けれども、いま研究者達は論文を書くと、インターネットの特殊な領域に登録します。翌日には、反響のメールがいくつも舞い込むという状況のようです。世界中の優秀な頭脳が、このようにして人類最後のフロンティアの一つをめがけて殺到しているのです。私は、ときどきどのくらい進んだかな、と探りを入れて楽しんでいるだけですが。

 さて、存在と認識の問題に取組んでみたいと思います。

まず<「思惟とは何か」を論ずることは、水の中にいて、水で、水を描くようなものだと思います>という言葉に敬意を表します。謙遜なさいますが、アリスさんの前座はとてもすばらしく、話をはじめる見事なきっかけを作ってくださいました。けれども、始める前に、取組む課題を二つに限定しておきたいと思います。話が拡散しないためです。焦点を絞った話が一段落したあと、必要なら他の課題に進みたいと思います。

 二つの課題とは、<359: 29で申し上げましたように、校庭の真っ赤な彼岸花が本当にあるのかどうかが私の宿年の疑問なのです>と353 例えば、私は今、滝の音を聞いています。滝の音は、私がいなくても、しているはずとは考えないのですか>です。

 この二つの課題を頭に置きながら、次の話に進みます。すこし遠いところからはじめますが、うまくいけば最後に上の二つに到達するはずです。

アリスさんは、実在Rを言葉のレンズを通して像Mに移し変え、そこで人間の思惟が行なわれると仰いました。そして、それが色即是空の意味であると考えていらっしゃるようです。

言葉によって実在の像を作り出すというのは、いわゆる意識化あるいは概念化の過程だと思います。記号的に表現すれば

      R → 【W】 → M

と書けます。実在Rがレンズまたは鏡Wを通してMに変換されるという意味です。Wは言葉wordのつもりですが、もしかしたらWunderspiegel(魔法の鏡)かも知れません。そのわけは、いずれわかります。

数学屋はこのような関係を写像mappingと呼び、MWによるRの像であると呼びます。まさに、いまの私たちにぴったりの表現ですね。(アリスさんは鏡像という言葉を使われましたが、鏡像は数学的には少し違う意味を持っていますので、ここでは単に像または写像という言葉を使います)。

 アリスさんは、Wというレンズの向こう側にあるものが実在であると考えておられます。だからこそRreality)と名づけられたわけです。その写像であるMは、Wがなければ存在しません。けれども、そのときでも、Rは変わらずに存在しているはずであると考えておられます。

 それが普通の考え方であり、私も、10年ほど前まではそう考えていました。

けれども、いまは違います。RMを生み出すのではなく、MRを生み出すのです。式で書けば

       R* ← 【W】 ← M

です。Mによってつくられるのですから、このRは本当の実在ではありません。そのために*を付けておきました。R*は偽の実在であり、私たちが「実在と思うもの」です。Wは何でも見たいものを映し出してくれる魔法の鏡なのです。私が物質世界はバーチャル・リアリティだと言い、幻想だと言うのはこのことです。私は、色即是空の空はillusionの意だと考えています。

アリスさんは<言葉はその性質上、言葉を発した何ものかを想定します>といわれました。この「何ものか」は、上の式の中には出てきません。これを観察者と呼びましょう。

アリスさんの式では、観察者はWを通して実在を認識する者です。認識された実在はRではなくMであって、それは観察者の意識の中にあります。アリスさんの式でも、Rは決してあるがままに知られることはありません。誰もWを通さずにRに直接触れることはできないからです。

私の式では、観察者は、Wを通して自分の意識を投影して外界をつくりだす者です。それは、観察者と言うよりはむしろ創造者です。けれども、この創造者は、ふつう自分が創造しているとは思っていないので、やはり観察者と呼んでおきます。

R*はillusionであって、実在ではありません。本当の実在は別の所にあります。それについては、また別に述べることにしましょう。

R*は、本当の実在ではないけれども、それを投影した観察者にとっては「完璧に実在に見える」ということを申し上げておきたいと思います。それは、さわって手にとることができ、生き物ならば本当に自分で餌を食べて生き続ける独立の存在に見えるのです。手を出せば噛み付き、殺せば死にます。観察者がWという魔法の鏡を覗き込んでいる限り、それは完璧な実在です。観察者は、それが自分の意識Mの投影であることに気付きません。そうでなかったら、この問題はとっくの昔に解決されていて、今ごろ私たちがこんなドジな会話を続けていることもなかったはずです。

これで二つの課題に取組む準備ができました。この課題に対する私の見解は次の通りです。まず<校庭の真っ赤な彼岸花が本当にあるのかどうか>ということですが、これに答えるためには、「本当に存在する」という言葉の定義をしなければなりません。

アリスさんの式に従うならば、Mにおいて認識されるものは必ずRに対応するものがある、ということになります。したがって、私たちはそれがどんなものか知ることはできないけれども、彼岸花の本体rはRの中に存在するはずである、ということになります。けれどもよく考えて見ると、このrを誰も知ることができないというのはかなり重大な問題です。それはもしかしたら、「ヒガンバナ」という単なる記号かも知れないのです。私たちはそれをWを通して翻訳したときに、赤い花の姿をMの中に見るのかも知れません。もしそうだとしたら、アリスさんは「彼岸花は本当に存在する」と思われるのでしょうか。

私の式では話は簡単です。R*はすべて偽の実在です。したがって、「彼岸花は本当には存在しません」。けれども、こちらにも問題があります。「本当には存在しない」という言葉は、「本当に存在する」ものに対置させてはじめて意味がある言葉です。いったい何が本当に存在するものなのでしょうか。

<滝の音は、私がいなくても、しているはずとは考えないのですか>についても同じですね。これは時間の問題です。「私がいない時」というのは誰に対して意味を持つのでしょうか。

アリスさんの式では、RWを通して誰かが覗いていなくても、常に変わらず存在していると考えています。したがって、滝の音は誰も聞いていなくても、Rの中で響きつづけているでしょう。それが私たちの普通の考え方です。けれども、Rの中の滝の音がどんなものであるかは誰も知りません。それが「タキノオト」というコードであったとしても、不思議ではありません。もちろんアリスさんはそうは思われないのでしょうけど。

私の式では、R*はMの反映です。けれども、アリスさんの式で、観察者がいつもRの全部を見ているわけではないのと同じように、私の式で、いま見えているR*がMのすべてを映し出しているというわけではありません。いま聞こえていない滝の音は、Mの中に「タキノオト」というコードで入っています。あるときに、それがWという魔法の鏡に映し出され、私たちは滝の音を聞くことになるのです。

このあたりで一休みして、アリスさんのご感想を伺いましょう。

私はここで、私たちが見ていないときに、世界がコード化されているかも知れないという可能性を示唆しました。私の式とアリスさんの式の違いは、そのコードがどこにあるかということだけです。もちろん、アリスさんは世界がコード化されているなどとは思っておられないでしょう。けれども、アリスさんも<RMによる以外には姿を表さないと考えます>と仰います。誰も知ることのできない実在が「本当に存在する」ということはどういうことなのか、お話いただければ幸いです。

363アリス: 私の舌足らずの発言を猫さんが解説してくださっているのですが、率直に言って、私の考えとはずれがあります。

先ず、すべてが思惟上のものであるという前提のもとに、「思惟とは何か」かの議論に入っているはずです。

<何もないかというと、Mが写るのですから何かある訳でそれをR(Reality)と呼ぶことにします。>何かrealityのものがなければ、狂気の世界になりますから、何かあるはずだとするわけです。その何かは、猫さんの言う観察者、創造者であるわけですが、もう少し、砕くと、最初はR → 【W】 → M 

 次は M → 【W】 → R* 

そして R* → 【W】 → M’となります。

私のR*は仮託されたものとしての自己(作られた自分)、

更にR* → 【W】 → M’’  となり M’’ → 【W】 → R**、このR**がエゴではないかと考えています。

<アリスさんは、Wというレンズの向こう側にあるものが実在であると考えておられます。だからこそRreality)と名づけられたわけです。その写像であるMは、Wがなければ存在しません。けれども、そのときでも、Rは変わらずに存在しているはずであると考えておられます。>

この表現で間違いはないのですが、Rは最初の創造者と考えています。

神は言葉を通じて自分の姿を見る(作る)のですが、これがR*人間です。これが一人歩きすると次の段階へ写るのですが、最初のRは忘れられR**と言葉という鏡を通じて確固たるM’’を作り上げます。しかし、M’’は元はといえばRの作ったものですから<RMによる以外には姿を表さないと考えます。これを色即是空、空即是色が表していると思います。MR RM。 思惟はMの世界の出来事だと考えています。>

R=空=神となります。

さて、彼岸花を見、滝の音を聞いたのはRなのかR*なのかR**なのか?  

はたまた、見聞きしたものはM?,  M’ ?  ,M’’ いずれなのか?

<誰も知ることのできない実在が「本当に存在する」ということはどういうことなのか、お話いただければ幸いです。>これは、ちょっとご質問の意味が分りません。

M(レベルは別にして)が本当の実在の姿ではないでしょうか?それとも言葉を使わず沈黙です。思惟上に本当の存在と偽の存在があるとは思われません。

猫さんとどのあたりで食い違ったのか分りませんが、私の考えをお返しいたします。

はじめて出てくるコード化の問題が良く分りません。【W】のことかもしれません。

364 猫: アリスさんのお考えが「わかった」とはとても言えない状況ですが、「なるほど、そんなことを考えておられたのか」という程度には、方向性が見えたという感じです。私と似ているようでもあり、まったくちがうようでもあり、・・・ちょっと判断が宙吊りになっているような感じです。

 まず、勝手にアリスさんの書かれた文章に手を入れて申し訳ありませんが、私にとって理解し易いように、少し行替えをしたり、句読点を入れたりしましたので、不具合なところがあれば訂正してください。文章そのものは変えていないつもりです。

 次に、アリスさんの書かれた式だけを、出てきた順に抜書きします。少し混乱しているように見えるところがありますので、これも訂正してください(お話の筋に大きく影響するわけではないのですが・・・)

@     R → 【W】 → M

A     M → 【W】 → R

B     R* → 【W】 → M’’ 

C     M’’ → 【W】 → R**

 私も思惟について論じているつもりですが、「思惟とは何ぞや」とはじめても、それこそアリスさんの仰るように「水で水の中に水を描く」ようなもので、意味のある議論にはならないと思います。そこで、思惟の周辺を記述することで、思惟を浮かびあがらせようともくろんでいるわけです。

 アリスさんのご説明にいくつか質問をします。

質問1:

361 でアリスさんは<私は思惟とは言葉である。言葉とはあるものに名前(広い意味で)をつけることである。と考えます。・・・言葉はその性質上、言葉を発した何ものかを想定します。今度はその何ものかが言葉を通して、物事を整理し始めます。そこにいろいろなものが見えてきますし、作り始めます。言葉という鏡(または、レンズ)を通して浮かび上がる像(Mと略します)という意味で、森羅万象が鏡像と考えられます。言葉を取ってしまうとMは消えます。しかし、何もないかというと、Mが写るのですから何かある訳でそれをR(Reality)と呼ぶことにします。RMによる以外には姿を表さないと考えます。>と仰いました。

言葉とは概念化の過程であり、言葉を発した何ものかとは観察者だと思いますが、そうするとrealityが観察者によって観察され概念化されてMという像が観察者の心の中に形成されると仰っているのだと思います。それを私は

    R → 【W】 → M

という式で表わしました。

アリスさんは、この「RからMへの写像mappingの過程」が思惟であると仰っているのだと思いますが、それでよろしいでしょうか。

 [ アリス:それを思惟と呼ぶことにしてかまいません。しかし、その認識も思惟上のことです。正確には「写像mappingの過程」しておくのがいいかも知れません。]

質問2:

 アリスさんは、【W】がなければMはない、けれども、その場合にもRは変わらず存在しているはずだと仰いました。

もしそうだとすると、Rは思惟以前に存在するのであり、思惟上のものではないということになると思いますが如何でしょうか。(私は思惟上のものはすべて実在ではないと考えていますので、「Rは思惟上のものではない」と仰る方が素直に理解できるのですが、<すべては思惟上のものであるということを前提に>と仰るので、念のため確認します)

アリス:猫さんの言い方でも良いのですが、そのお話も思惟上のことですから、思惟の外に出さない方が私には分かりやすいです。水の外には出られない。「写像mappingの過程」の手前にあるものですが・・・]

質問3:

 「実在reality」という言葉の使いかたの問題ですが、いま、私は「思惟上のものはすべて実在ではないと考える」と言いましたが、アリスさんも同じだと考えてよろしいでしょうか。

アリス:これも言葉の問題ですが、質問2の答えのように考えています。つまり「思惟以外には実在しない」と。これが議論のスタートではなかったでしょうか]

質問4:

 @     R → 【W】 → M

A     M → 【W】 → R

と式がつながって出てきますが、この式を私が翻訳すると「実在が観察者によって概念化され実在の観念ができる。それを今度は逆写像(投影)して、R*という実在が存在していると観察者は考える」となりますが、それでよろしいでしょうか。

 そして、Rは実在ですが、R*は実在ではなく、観念を投影してできた幻想になります。そう解釈してよろしいでしょうか。

 [アリス:RとR* は異なりますが、思惟上のもので、ともに実在とするか、ともに幻影とするかです。すでに述べましたように<思惟上に本当の存在と偽の存在があるとは思われません。>

質問5:

 もしそうだとすると、アリスさんのお考えは、最初の実在から出発して、写像(概念化)

と逆写像(投影)を繰り返すうちに、次第に実在だと思うものの姿が歪んでくる、ということだと思われますが、それでよろしいでしょうか。

 [アリス:像が歪んでくると思います。R*やR**がRだと思うようになります。しかも、R*やR**は【w】の働きに気づきませんから、MもRだと思うようになります。]

質問6:

 「彼岸花は本当に存在しているのだろうか」というアリスさんの宿年の疑問は、このMRの系列とどう関わるのでしょうか。アリスさんのお考えによれば、アリスさんのMの中に「彼岸花」が存在すれば、Rの中にその「本体」が存在するのは自明のこととなりそうですが、そうではないのでしょうか。それとも「いま自分に見えているのは、Rなのか、R*なのか、R**なのか、というレベルの問題なのでしょうか。

アリス:当時はMが本当に存在するのか?ということでした。それを問題にしているのが、Rなのか、R*なのか、R**なのか、の問題はまだ意識になかったように思います。

質問7:

 @、A、B、Cという式で、観察者というのはすべて同じなのでしょうか、式ごとに異なるのでしょうか。

 [アリス:私のこれまでの議論には観察者という語は使っておりませんが、言葉を発している者=観察者と考えられます。RR*R**が重層的にある気がしますが、これについては良く分かりません。]

 いろいろと細かいことを質問して申し訳ありません。いつも私はアリスさんのお考えを勝手に解釈してしまうようなので、すこし細かく確認していきたいと思います。

365アリス: 私のお答えは質問の下に割り込ませていただきましたので、そこをご覧ください。思惟という言葉に猫さんと私の間に、差があるようで、議論がかみ合わなくなってきた気がします。よく考えて見ます。

366 猫: せっかくご丁寧な回答をいただきましたが、正直言って、どの回答も全部、私には理解できません。アリスさんとの対話で、こんな状況に陥ったのは初めてです。これまでにも、誤解したり、早とちりをしたことは何度もありますが。

 アリスさんも仰るとおり、「思惟」という言葉の考え方が違うのかも知れませんが、どうもそれだけではないような感じがしています。立ち止まっていても仕方がないので、一つだけ取り上げて、掘り下げてみたいと思います。

 質問3で、私は「思惟上のものはすべて実在ではないと考える」と申し上げたところ、アリスさんは「思惟以外には実在しない」とお答えになりました。ということは「思惟のみが実在である」ということですね。

 アリスさんの用語では「思惟」と「思惟上のもの」とは違うのでしょうね。

私は「思惟」とは「考える(広い意味で)能力」あるいは「考える行為」であり、「思惟上のもの」とは「思惟によって生じた概念(広い意味で)である」と考えていますが、アリスさんのお考えとは違っているのでしょうか。

367 アリス:猫さんとの議論はかなり前から食い違っておりますので、ちょっと回り道になりますが、私の考えのルーツを話させてください。

この前、渋谷でおしゃべりをした時、私が、世界創造についての神話には、神が創造したという創造説と、自然に生まれてきたという化成説とがあると申し上げたところ、猫さんは、「それ、異なると思いますか?」といわれました。その時、私は言下に悟りました。

3年ぐらいかかるところを一瞬に飛び越えたというのが、その時の実感です。

それから後の私の発言は少し変わってきたのではないでしょうか?

なにを悟ったかと言いますと、「言葉」で認識しているのだな!インド・アーリアン語族は主語が必要なんだ。だから、神が創造すると言うことになるのだ!ということでした。

そして、さらに、神も言葉を通じてしか、創造できないのだ。ということでした。さらにいえば、造ったといったといっても良いし、成ったと言ってもよい。

さて、<アリスさんの用語では「思惟」と「思惟上のもの」とは違うのでしょうね。

私は「思惟」とは「考える(広い意味で)能力」あるいは「考える行為」であり、「思惟上のもの」とは「思惟によって生じた概念(広い意味で)である」と考えていますが、アリスさんのお考えとは違っているのでしょうか。>については、水の中にいて水で水が水を描くようなものですから、「思惟」と「思惟上のもの」とは、本質的に区別はありません。この水が神であり、Rであり、空でもあり、「思惟」あるのですが・・・この中で、

@     R → 【W】 → M

A     M → 【W】 → R

B     R*→ 【W】 → M’’   
 
   C       M’’ → 【W】 → R** 

  D     
R**→【W】 → M’’’  

が起きております。これは、これまで繰り返してきたアリスの金太郎飴の断面を表しています。(私たちはBCDの断面にいる。)

猫さんの物質=空=実在しないもの=幻影説は、発想の転換を誘うものとしては優れた方便だと思いますが、私の「空」の理解とは、今のところ、相容れません。それからRealtyという言葉ですが、何か物が存在する、しないというときに使う実在とは違いますね。

「わかる」ということはどういうことなのか?難問が控えています。

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