アリスとチェシャ猫との対話(79)

368 猫:
 すれ違いの原因がすこしわかったように思います。仰るとおり、私は創造説的表現によって話をしていますが、それは表現の一方法であって、それ以外の方法がまちがっているというつもりはありません。神が世界を創造したという説と、世界が自然に生まれたという説との間に、「両説が伝えようとしている事柄において」本質的違いがあるとは考えていません。ただ、どちらの方法をとっても、真実を言葉によって表現し伝えることは、完全にはできないということです。

私は渋谷でお話したとき、こう言いました。「二つの表現方法の違いは『私が考えた』というのと『私に考えが浮かんだ』というのとの違いのようなものだ」と。けれども、両方の表現が混在して、しかもそれを話す人聞く人がそれぞれ自分流に解釈しようとすると、話は混乱し、理解不可能になります。いま、私たちの間で起っていることはそのようなことではないでしょうか。

 そこで、一つ提案をしたいと思います。

 これまでは、私が一方的に「創造説的」表現によってお話ししてきました。アリスさんは辛抱強くそれに付き合ってくださいましたが、今度はアリスさんが化成説的表現によって語っていただきたいと思います。それに対して、私はできるだけ化成説的に理解することを試みてみたいと思います(あまり慣れていないと思いますが)。

 今回の混乱の始まりになったのは、361でアリスさんが言われた次の言葉です。

 <私は思惟とは言葉である。言葉とはあるものに名前(広い意味で)をつけることである。と考えます。この点、創世記やヨハネ伝の冒頭と同じです。言葉はその性質上、言葉を発した何ものかを想定します。今度はその何ものかが言葉を通して、物事を整理し始めます。そこにいろいろなものが見えてきますし、作り始めます。言葉という鏡(または、レンズ)を通して浮かび上がる像(Mと略します)という意味で、森羅万象が鏡像と考えられます。言葉を取ってしまうとMは消えます。しかし、何もないかというと、Mが写るのですから何かある訳でそれをR(Reality)と呼ぶことにします。RMによる以外には姿を表さないと考えます。これを色即是空、空即是色が表していると思います。MR RM。 思惟はMの世界の出来事だと考えています。>

私がこれを創造説的な傾向をもって解釈したのは事実だとしても、この表現自体が化成説的表現になりきっていないような気がします。それは<言葉はその性質上、言葉を発した何ものかを想定します。今度はその何ものかが言葉を通して物事を整理し始めます>というところです。この表現は「言葉を発するもの」と「言葉」と「言葉によってつくられるもの」、あるいは「整理するもの」と「されるもの」、さらに整理するものが整理するために使う「道具」、というようなものが分離した表現になっています。このことから、私はごく自然に「観察者」あるいは「創造者」という役者を引っ張り出してしまいました。

けれども、化成説ならば「整理するもの」と「されるもの」の分離というようなことはあり得ないのではないでしょうか。おそらく概念としては、エリッヒ・ヤンツの「自己組織化する宇宙」というような表現が一番近いのではないかと思います。もちろんヤンツの「宇宙」は神や空(くう)のレベルの話をしているのではなく、れっきとした物理的宇宙のことを話しているのですが。

ご参考までに、最近の宇宙論のそのような側面をかいつまんでお話したいと思います。宇宙は「生まれたとき」ものすごい高密度のエネルギーの塊だったとされています。エネルギーの密度というのはとりもなおさず温度のことですから、宇宙はものすごい高温の小さな小さな粒だったわけです。それがエネルギーの圧力でものすごい速さで膨張します。膨張すると、エネルギー密度が下がりますから、温度は低くなっていきます。あるところまで温度が下がると、それまでただ1種類しかなかった力が四つの力に分離します。それは水が冷たくなると氷になるようなもので、物理学ではこれを「相変化」と言います。実際、物理学者たちはこれを「真空の相変化」と呼び、現在の宇宙は「凍りついた真空」などと言われます。そのようにしてできたのが重力と電磁気力、それに原子核の中で働く強い力と弱い力です。これらは現在の物質世界を支配している現実の力です。さらに温度が下がると、宇宙はまた相変化を起こし、今度はエネルギーと物質が分離します。それは牛乳をかき混ぜていると、突然バターと生クリームが分離するようなものです。このようにして、一連のプロセスが次々に起って現在のような宇宙の姿になったというのが、最近の宇宙論の考え方です。

宗教的あるいは哲学的な宇宙論においては、物質だけでなく、意識とか意志といったものが入ってくるのでもっともっと複雑だとは思いますが、化成説というのは「自己組織化する空」というようなものではないかと思うのですが間違いでしょうか。

そこで、あらためてアリスさんにお願いですが、もう一度化成説では世界の始まりをどのように表現するのか語っていただけないでしょうか。

たとえば、367に書かれた一連の式を、もういちど解説していただくことでも結構です。

@ R → 【W】 → M

A M → 【W】 → R

最初のRが空(あるいは神)であることはわかりますが、これから生み出されたMとは何なのか、それは生み出されたのか、Rが変身(自己組織化)したのか、生み出されたとすればそれはどこにあるのか、そしてAのMからR*(少し歪んだR)に戻るプロセスは、何を意味しているのか・・・というようなことです。そもそも、私がこの二つの式を書いたときのイメージとアリスさんがこの式に持たせておられる意味が食い違っているように思われます。手始めに@とAだけで結構です。

269アリス:私の考え抜かれていない言葉が、猫さんの長年の思索で磨かれたレンズで映し出されるとこのようになるのかと驚きます。先ず、猫さん創造説、アリス化成説の対比は思いもかけないものです。本当に驚きました。そのような対比を乗り越えたのが、私の渋谷での体験でしたから。

あの頃、私は、私が、宇宙はがどうして生れてきたのか?事物はなぜ立ち現れてきたのか。自分がなぜいるのかを考えていました。おそらく先輩達も考えたであろう、ということで、神話に探りました。その神話には神が創造したという説と自ずから成ったという説があることが分りました。おう、そうか!というと段階で、猫さんにお会いしたのです。猫さんの言葉で私が言下に悟ったことは、@両説は言葉の差に過ぎない。そして、大きく飛躍しますが、A神も言葉を通じてしか、創造できないのだ。ということでした。さらにいえば、造ったといったといっても良いし、成ったと言ってもよい。――繰り返しになりますが。

その体験的事実が猫さんには伝わらなかったのだな!と思いました。

一度越えたはずの両説のうち化成説に立てと仰れば、やれないことはないと思いますが、さして意味あるとも思えません。

<化成説ならば「整理するもの」と「されるもの」の分離というようなことはあり得ないのではないでしょうか>そうですね。鏡【W】の働きの前と後程の差があります。
      
    @     R → 【W】 → M

の過程は天地創造の過程(創造、化成)の段階ですから、私が、今、描写する能力はありません。猫さんもそうお考えでしょう。先ず、プラス・マイナス、陰・陽を分けることから始まったに違いありません.


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