アリスとチェシャ猫との対話(77

354 猫: もっともなご質問ですが、このご質問にお答えする前に、時間と空間の話を先にしてしまいたいと思います。電子の大きさがゼロであるとか、時間空間について私たちの常識(あるいは常感?)をひっくり返すようなことを考えているのは物理学者ですが、認識の話は私の個人的意見です。ここで両者を混ぜ合わせたくないと思います。時間空間の話を終ってから、またこの問題に戻ってきましょう。

 私たちは、物質世界を、空間という舞台の中にさまざまな物体が存在し、それが時間の流れの中で相互に作用しあうことによって、さまざまな出来事が起る世界である、と考えています。時間と空間は、すべての物すべての人にとって共通であり、その中にどのようなものが存在するか、その中でどのような事件が進行しているかにはまったく影響を受けない、と考えています。これを絶対時間・絶対空間の概念といいますが、私たちは、それ以外の考え方があるなどとは想像することすら思いつかないほど、それは私たちの意識の中に染み付いています。

 けれども、空間や時間という考えは、人類にとって必ずしも自然で親密なものではなかったようです。2500年前に、ギリシャのデモクリトスが原子論を唱えたとき、彼が「原子と原子を隔てるものは何か」という問題で悩んだという伝説については、この対話の初期にお話しました(対話34)。デモクリトスにとっては「何もない空間がある」という考えは自己矛盾以外の何ものでもないと思われたようです。

 現在私たちが考えているような絶対空間・絶対時間の概念を確立したのは、近代物理学の父と呼ばれるニュートンで、彼はその上に物理学(主として物体の運動を取り扱う「力学」)を打ち立て、輝かしい成果を納めました。その意味で、絶対空間・絶対時間の概念は、自然の性質のある側面を近似的には映し出しており、私たちの日常生活に役立つことは事実です。

けれども、空間とは何か、時間とは何かという問題になると話は別です。ニュートンと同時代の哲学者兼数学者ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツは、ニュートンの考えを痛烈に批判し、「空間も時間も、ただものの考え方に過ぎず、物質の塊と出来事との関係を理解するための便宜でしかない」と主張しました(K.C.コール著、大貫昌子訳『無の科学』、p55)。

 ライプニッツの批判にも関わらず、それから200年ほどの間、科学はニュートン流の考え方にもとづいて発達し、目覚しい成果をあげました。その結果、ニュートンの絶対空間・絶対時間の考えは、科学者たちだけでなく、私たちのような一般大衆においても、心の隅々にまで浸透してしまいました。

けれどもいま、最先端の物理学者たちは、ライプニッツ流の考えに戻りつつあるように見えます。彼らは「空間は空虚であったりものがいっぱいつまったりして、事物が出入できる舞台ではない。空間を存在している事物と切り離すことはできない。空間とは事物のあいだに成り立つ関係の一つの側面に過ぎないのだ」と言います(リー・スモーリン著、林一訳『量子宇宙への三つの道』、p25)。空間とは関係のネットワークであり、時間とはその変化である、というのが最新の物理学の時空に対する見解です。これらの言葉の意味するところは、あとで少し解説することにします。

このように時間空間に対する考えが変わってきたのには理由があります。

二十世紀のはじめに相対性理論と量子物理学という二つの新しい物理学の分野が誕生しました。相対性理論は宇宙という超巨大な存在を扱い、量子物理学は原子という超微小な領域を扱うことで、ともに目覚しい成果をあげてきたました。

けれども、いつまでも大きなものと小さなものを分けて、それぞれ別の理論で考えるということを続けるわけにはいきません。宇宙は大きなものから小さなものまでひと続きであって、どこかに切れ目があるわけではないからです。そこで、量子物理学と相対性理論を統合しようとする努力が続けられてきました。その結果わかってきたことは、時間と空間という舞台の上で現象が起ると考えている限り、すべての理論は失敗するということです。時間と空間はそこに存在するものから切り離すことはできないのです。もう一つは、時間も空間も連続ではないということです。時間も空間もぶつぶつと切れていて、一つ二つと数えていけるようなものなのです。時間空間が連続的に見えるのは、その切れ目があまりにも小さいからです。それは水の流れが、水の分子という「粒子」の集まりであるにもかかわらず、連続なものと感じられるのと同じです。

現在、物理学者たちは、空間を「関係のネットワーク」であって、絶対空間というようなものは存在しないと考えるようになっています。

「関係のネットワーク」とは、たとえば、地下鉄の路線図のようなものです。路線図は、駅と駅の関係を表示していますが、どのような描き方をしても、その意味は変わりません。駅の表示板のように、たて横斜めの直線で表示しても、地図に忠実な曲線で表示しても、同じことです。絶対空間が意味をもたないというのはこのことです。つながりだけが意味をもっているのです。駅と駅の間の距離は、その間にある駅の数によって決まります。新しい駅ができたり、新しい路線ができたりすれば、このネットワークは変化します。

ライプニッツは、空間とは家系図のようなものだといったそうです。その上で距離を定義するなら、距離は親等だといえます。私と息子との間の距離は1であり、弟との間の距離は2になります。結婚によって二つの家系図がつながり、全体が一つの家系図になります。私とアリスさんの家系図が、どこまでさかのぼってもつながらないならば、私たちは別々の宇宙にいるということになるでしょうか。

渋谷の駅前にあるハチ公の銅像は、絶対座標では、駅の出口から30メートルか50メートルの距離にあります。平日の夜明け前に行けば、駅の出口からハチ公まで誰にも会わずに歩けるかも知れません。けれども、日曜の午後などに行けば、大勢の人をよけて歩かなければならないので、なかなか銅像まで行き着きません。途中で出会う人の数を駅の出口から銅像までの距離だと定義すれば、この距離は日によって時間によって絶えず変動することになります。

実際の宇宙空間は、このような変動するネットワークであって、時間はその中に起る最も小さな変動の個数によって測られることになるのです。もし何の変動も起らないとしたら、絶対時間で(仮にそのようなものがあったとして)どれだけの時間がたとうとも、この宇宙では時間は経過しないということになります。

最新の物理学が考えている時間空間のイメージがお分かりいただけたでしょうか。

最後に、アリスさんに一つ謎をかけておきます。いったい、この「関係のネットワーク」というのは、「どこに」存在するのでしょうか。それが空間の中でないことは確かですね。空間はネットワークが生み出すものですから。それが存在する時間を定義できないことも明らかです。時間もこのネットワークが生み出すのですから。いったい、空間も時間もないところとは何でしょうか、というのがこの謎の意味です。

355 アリス: 空間、時間が思惟上の産物であるとは理解できますし、また、面白く思

いいます。猫さんのお話しやすい形で、進めてください。

例の「不思議の国より不思議な国のアリス」では、浦島太郎のような話における、あちらの時間とこちらの時間の時間の経ち方の違いを問題にする方が現れてきました。「アリスの系譜」のYukoさんです。

http://www.alice-it.com/wonderouser%20land/alicenokeihu.html

356 猫: <空間、時間が思惟上の産物であるとは理解できますし>と、簡単に承認されるとは思っていませんでしたので、私の話を進める前にアリスさんのお考えを確認したくなりました。

 私は、もし空間が思惟上の産物であるなら、その中に存在する物体も思惟上の産物にならざるを得ないと考えていますが、アリスさんはその点どうお考えでしょうか。

357アリス: この話はこの対話の初め頃30あたりに出てきます。私の考えは33の時と殆ど進歩はありません。別の言い方をしますと時間空間は思惟上の仮に置いた座標軸のもののようだと思っています。

ですから、<私は、もし空間が思惟上の産物であるなら、その中に存在する物体も思惟上の産物にならざるを得ないと考えていますが、アリスさんはその点どうお考えでしょうか。>の猫さんの発言のお聞きして、猫さんは逆に時間、空間にこだわっておられるような印象を受けました。今、あるものがあったとして、それをM(Space1:.Time1)で表す事にします。座標軸を動かすとM(SpaceN:TimeN)となります。これを全く異なる座標軸で表すと例えばM(X1:Y1)で表されますが、思惟上の座標軸とは無関係にMは存在するかも知れないし、また、何も存在しないかもしれない。ですから、存在するものと思惟の産物とは一応分けて考えた方が、分りが良いというのが私の考えです。時間と空間という次元以外があるかもしれない。「関係のネットワーク」もその一つかもしれない。4次元では見えないものがn次元で見えるかもしれない・・・と思うわけです。

更に思惟とは何かと言うことになるのですが・・・・

358 猫: 少しばかり話がかみ合っていないと思われます。アリスさんは、空間と座標系を混同していらっしゃるのではないでしょうか。座標系は確かに人間が勝手に想像した便宜上のものです。座標系をどのように動かそうとも、物そのものが動くわけではありません。アインシュタインが相対性理論を考えたのも、実は、どのように座標系を動かそうとも、物理法則そのものが変わってはならないという信念が一つの出発点になっています。

 けれども、座標系と空間は同じではありません。空間(スペース)とは、平たく言えば、場所の広がりです。そもそも空間がなければ、座標系を置くことすらできません。ライプニッツや最近の物理学者たちが言っているのは、「座標系が思惟の産物だ」というのではありません。「空間が思惟の産物だ」というのです。もしアリスさんにこの趣旨が伝わっていないなら、私の説明が下手だったのでしょう。

 たとえて言えば、空間は小学校の運動場だと考えてください。そこに、チェスボードのような碁盤目状の線が引いてあるとしましょう。それが座標系です。物体はそこで遊んでいる子供たちです。

座標系の線が引いてあろうがなかろうが、その線が直線であろうが曲線であろうが、子供たちはそんなことにおかまいなく走りまわります。それは、物体の存在が座標系には左右されないからです。座標系を書き換えたら、子供たちの位置の表示方法は変わりますが、そんなことは子供たちには何の影響もあたえません。

けれども、運動場がなかったら、子供たちのいる場所がなくなります。子供たちが自由に走り回ることができるのは、運動場があるからだというのが、私たちの普通のイメージではないでしょうか。空間が思惟の産物であるというのは、この運動場が実は存在しない、架空のもの、想像上のものだということです。子供たちも想像上の産物だというなら話はわかりますが、もし子供たちが実在で、運動場が架空のものだとしたら、いったい子供たちはどこにいるのでしょうか、というのが私の質問です。

念のために繰り返せば、アリスさんは、物体は実在で、空間(座標系ではありません)は思惟の産物だと思われているのでしょうか、という質問です。

359 アリス: 私の座標系という言葉がひょっとすると、猫さんの育った思考枠組みの中の座標系と異なるのかもしれません。私の座標はやわらかく表現すると物事を理解するための基盤のようなもので、私にとり、空間は一種の座標系なのです。子供が遊んでいたら、そのフラットに見えるところを運動場と見るのです。

<念のために繰り返せば、アリスさんは、物体は実在で、空間(座標系ではありません)は思惟の産物だと思われているのでしょうか、という質問です。>

物体も空間も思惟上の産物だと思います。ですからその思惟が問題になるというところで、お答えは終わりました。

<今、あるものがあったとして、それをM(Space1:.Time1)で表す事にします。>

と表現していますが、M( )は前に猫さんからお教えいただいた鏡像のMです。ですから、<あるものがあったとして、>という表現をとっています。

<思惟上の座標軸とは無関係にMは存在するかも知れないし、また、何も存在しないかもしれない。>と申し上げておりますように、その鏡像がrealなものかどうかは、なんともいえない。しかし、これは猫さんの影響だと思うのですが、空間や時間を一種のスクリーンと見ればスクリーンと映っているものは分けた方が良い。<存在するものMと思惟の産物とは一応分けて考えた方が、分りが良いというのが私の考えです。>と書いたのですが、ここのところは確信がありません。みな同列かも知れません。

要はモノが存在するか否かというより、何か確実なもの(Reality)が存在するか、そして、そのことがどうしてわかるのかという議論になるのではないかと思うのですがいかがでしょうか?(猫さんのお考えを理解していないお返事をしているかも知れません。どうか、ご指摘ください。29で申し上げましたように、校庭の真っ赤な彼岸花が本当にあるのかどうかが私の宿年の疑問なのです。

360 猫: <物体も空間も思惟上の産物だと思います>とはっきり仰るのであれば、私から申し上げることは何もありません。物理学の話も、これで終わりにします。

物理学者たちは、空間と時間が実在であり、その中にある物質・物体も実在である、むしろ、それだけが実在である、と考えて唯物論的世界観のもとに物質世界の法則や物質の本質を追求してきたのでした。ところが20世紀のはじめから奇妙なことが起りはじめ、100年経った現在、物理学者たちは物質も時間も空間も、実在ではないらしいと考え初めているのです。そのことに、私はたいへん興味を覚えているので、物理学の話をしたいと思ったのでした。

最後に物理学者の言葉を引用して終ります。

「それにしても、ストリング理論(究極の物理理論と目されている最新の理論)が空間と時間を消してしまうという怪現象は、どう考えても不気味である。『空間と時間を論じるとき、われわれはそれが実在のもので、そこに自分が住んでいるものとして考えている』とグロス(カリフォルニア大学サンタバーバラ校理論物理研究所長デーヴィッド・グロス)は言う。でももし空間と時間がないとしたら、『そりゃ大いに不安だね。もしそうだとしたら、われわれはいったいいつ、どこにいるんだい?』」(K.C.コール著、大貫昌子訳、『無の科学』、p202)。

さて、私たちの間はこれでOKですが、この対話を読む一般の読者の方は、必ずしもそうではないかも知れません。「もし空間も時間も物体も思惟の産物だとしたら、その思惟をしているわれわれ自身も思惟の産物になってしまうのではないか。それなら、われわれとは一体何者なのか」という疑問をもつ方があるかも知れません。あるいは、アリスさんが言われるように「思惟とは何か」ということかも知れません。これについて、まずアリスさんから、なにか説明をしてあげていただけないでしょうか。その後で、彼岸花が本当に存在するのかという問題や、354で置き去りにしてきた認識の問題に戻りたいと思います。

361アリス:2つのことを思いました。私の直感的結論を申し上げたため、猫さんの物理学講義が思いがけぬ所で、収束してしまって惜しいことをしたな!ということと、「思惟とは何か」の大問題の前座を勤めるのは大変だな!という思いでした。

アリスはもともとめくら蛇に怖じず的性格なので、(だから私もアリスを名乗っているのですが)少し申し上げることにします。

「思惟とは何か」を論ずることは、水の中にいて、水で、水を描くようなものだと思います。最終的には不可能だと思うのですが、その一歩手前は次のようになっているのではないかと考えます。私は思惟とは言葉である。言葉とはあるものに名前(広い意味で)をつけることでる。と考えます。この点、創世記やヨハネ伝の冒頭と同じです。言葉はその性質上、言葉を発した何ものかを想定します。今度はその何ものかが言葉を通して、物事を整理し始めます。そこにいろいろなものが見えてきますし、作り始めます。言葉という鏡(または、レンズ)を通して浮かび上がる像(Mと略します)という意味で、森羅万象が鏡像と考えられます。言葉を取ってしまうとMは消えます。しかし、何もないかというと、Mが写るのですから何かある訳でそれをR(Reality)と呼ぶことにします。RMによよる以外には姿を表さないと考えます。これを色即是空、空即是色が表していると思います。MR RM。 思惟はMの世界の出来事だと考えています。
西洋では空をemptyと訳す事が多いですが、私はrealtyとしたいと思います。

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