アリスとチェシャ猫との対話(76)

350 猫: 「鏡の国」には何でもあり!ですね。もし、キャロルが原子物理の話を思い浮かべながらアリスの物語を書いていたとしたら、ちょっとすごいですね。100年ぐらい未来を先取りしているようです。

 スウィフトが書いたガリバー物語を思い出します。ガリバー物語は四つの旅行記からなっていますが、スウィフトはそのどれかの中の登場人物に「火星には二つの月があり、そのひとつは逆方向に公転する」と言わせました。ところが、それから150年ほどして実際にそのとおりであることが発見されたのです。

人類の歴史にはときどき不可解なことが起るようですね。単なる偶然と片付ける人が多いのですが・・・・。

さて、「確率の雲」現象がなければ世界は成り立たない、というお話をするのでした。

1900年ごろ、物理学者たちの間にひとつの謎がありました。それは、原子の構造に関する謎です。原子の中にプラスの電気をもった陽子と、マイナスの電気を持った電子と、電気をもたない中性子が存在することは、既に知られていましたが、原子の中でこれらの粒子がどのようにして存在しているのかが謎でした。なぜかといえば、プラスの電気を持った粒子と、マイナスの電気を持った粒子が一緒にいれば互いに引き合うので、最後はくっついてしまい、プラスとマイナスが中和してしまうからです。

1910年ごろ、プラスの電気を持った部分が中心部にあることが確認され、原子核と名づけられました。そこで、原子は、太陽系と同じように、中心部にプラスの電気をもった原子核があり、その周りをマイナスの電気を持った電子が惑星のように回っているのであろう、というイメージが描かれました。

ところが、それでも問題は解決しません。電気をもった粒子が円や楕円の軌道を描いて公転運動をすると電波を放射するはずです。すると、粒子のもっているエネルギーが減少して軌道の半径がだんだん小さくなり、ついには原子核の中に落ち込んでしまいます。それは、人工衛星が空気の抵抗のためにエネルギーを失って墜落するのと同じです。このように、それまでに理解されていた電磁気学や力学の知識では、安定な原子が存在することが説明できませんでした。

研究が進むにつれて、自然がどのようにして原子の安定性を確保しているかがわかってきました。簡単な例でお話すると、水素原子は、中心に1個の陽子があり、その周りをただ1個の電子がまわっているという最も簡単な原子ですが、電子の取り得る軌道は何種類かあります。そして、ある軌道をまわっている間、電子は一定のエネルギーをもちつづけています。電波を放射して軌道の半径がだんだん小さくなって行くというようなことは起こりません。その代わり、時々、軌道の形が突然変わることがあります。電子のエネルギーは、軌道の形によって決まっているので、軌道の形が変わることによって、電子のエネルギーが余ったり足りなくなったりします。すると、電子は、この差額のエネルギーを、外に吐き出したり、外から取り込んだりします。

その結果、原子の中にある電子は、任意の大きさのエネルギーをもつことができず、特定の軌道に固有の大きさのエネルギーしかもつことができません。中途半端な量のエネルギーは、吐き出すことも受け取ることもできないのです。これが原子の中で電子の軌道が崩壊しないための仕組みだったのです。

同じような仕組みは、光にもあります。たとえば、太陽から出た光は、太陽から遠ざかるにつれて弱くなっていきます。もし光が、海の波のような連続な波であったら、いくらでも弱くなって行き、やがて防波堤の足もとに打ち寄せさざなみのようなものになってしまうでしょう。他の物体の原子にぶつかっても、何の反応も起こすことができなくなってしまいます。

けれども、現実の光は、大砲で砲撃するようなものです。光がぶつかった相手に与えるエネルギーの量は、ある最小単位の整数倍になっていて、その最小単位の大きさは光の振動数つまり色によって決まっています。これが光が粒子のように見える理由なのです。最小単位1個分のエネルギーを光子と呼ぶのです。強い光があたるときは、この光子がたくさん飛んできます。弱い光の時は、光子の数が少なくなります。それは、まばらな砲撃のようなものです。ときどき思い出したように弾が飛んできます。たまにあたる確率は減りますが、あたれば確実にけがをします。同じように、どんなに弱い光であっても、ひとつの光子は、強い光の光子と同じだけのエネルギーをもっています。このために、他の物体の原子にあたれば、そこから電子をたたき出したり、化学反応を起こさせたりする力をもっているのです。

 

原子が崩壊しないためには、自然は、電子のエネルギーを不連続にする必要がありました。そうすると、電子はある一定量のエネルギーの塊をもってこないと動かせなくなります。そこで、光の方もエネルギーを塊で運ぶようになっているのです。

その結果、「確率の雲」が必要になります。いま広い面積を非常に弱い光で照らすことを考えてください。現代の実験技術では、光子1個だけという極端によわい光を送り出すことさえできます。いま、ひとつの光子を送り出すとしましょう。その光子の行先は広い面積に広がっています。けれども、光子は1個しかありません。光子を分割することはできませんから、行先に何億個の原子があろうとも、この光子を受け取ることができるのはただひとつの原子だけです。さて、どのようにしてこの光子を受け取る原子を選べばいいいでしょうか。

それは、無作為にくじ引きで決めることです。これが一番公平なやり方です。そして、それが実際に自然が行なっていることなのです。確率分布の雲が飛んでくるといったのはこのことです。光子は、それが現われてもよい可能な領域の中で、法則によって決まる確率分布に従い、まったく無作為に出現します。アインシュタインは、自然がこのような確率現象であることを嫌い、「神様はさいころを振らない」と言ったというエピソードが残っていますが、神様はすべての原子の公平を期すために、積極的にさいころを振ることを選んだというのが実態のようです。

351アリス: シェイクスピアの「夏の夜の夢」の妖精パックは地球を40分で一回りしますが、人工衛星時代の先触れだったのかもしれません。

さて、お話は、最初の「電気」で躓き、よく理解できませんでした。

プラスの電気、マイナスの電気が何を意味するのでしょうか?粒子の性質を表しているとしたら、その粒子は、なお、分割できそうに思えるし、あるいは、逆に本来分割されないものを、仮に2つに分けて見ているとも取れるし、電気の位置が飲み込めませんでした。

352 猫: 妖精パックの速さは秒速16キロになります。音速の50倍ですからすごいですね。こんな速さで地表に沿って飛ぼうとすると、遠心力で宇宙へ飛び出してしまいますから、パックは一生懸命地面に向かって降りようとする努力をしつづけなければならないようです。

 電気がよくわからないというご質問は予期しませんでしたが、考えてみれば、確かによくわからないのです。そこで、電気とは何かという話をしようと思います。科学の本質が見えてくると思います。

 人類が電気が関わる現象に触れた最初は、ひとつは摩擦によって起る静電気であり、もうひとつは雷だと思います。もっとも、この二つが同じものだということが理解されるようになったのは、ずっと後のことですが。

 物を強くこすったり引き裂いたりすると、物体同士が、互いに引き合ったり反発したりするようになることがあります。この様子を観察した人が、「これは摩擦によって物体が『電気』というものを帯びたからである」と考えて、「電気」という言葉が生まれました。英語の electricity (電気)という言葉は、ギリシャ語の electron (琥珀)という言葉から来ています。それは琥珀をこすると静電気がよく起るからです。私(猫)の毛もよく静電気をおこします。

 静電気が起ったとき、引き合う場合と反発する場合があることから、電気に2種類あることがわかります。さらに、静電気を帯びた多数の物体の動きを観察することにより、「同種の電気を帯びた物体同士は反発し、異種の電気を帯びた物体は引き合う」という法則が知られるようになりました。

 そして、2種類の電気の片方を positive または plus(日本語では陽または正)、 他方を negative またはminus(陰または負)と呼ぶことになりましたが、これはまったく恣意的な命名ですから、どちらがどちらでもかまわないわけです。ただし、一旦決めてしまうと変えるわけにはいきませんので、昔決めた取り決めが現在でも使われています。

 このようにして、人間は次第に「電気」というものがあるという考えになじんでいきましたが、実は電気を見た人はなく、一群の現象を観察して、「電気というものがある」と想像していたに過ぎないということに注目してください。そういうものがあると考えれば、関連するさまざまな現象を統一的に説明することができるということで、その考えが支持されてきたのです。

 

 人間が電気というものを「見た」のは、19世紀の中ごろになってからです。1856年、ドイツのブリュッカーという人が、現在の棒状の蛍光灯のような、内部を真空にしたガラス管の両端に電極を入れて電圧をかけたところ、陽極の後ろのガラス壁が蛍光を発して光り、しかもその発光する壁面に陽極の影ができることを発見しました。これは、陰極から陽極に向かって特殊な放射線が出て、それがガラス面にあたって蛍光を発するのであり、その放射線を陽極がさえぎるので影ができるのだと考えられました。この放射線は陰極線と名づけられましたが、この現象は現在のテレビのブラウン管の原理そのものです。

 1897年になって、イギリスのトムソンという人が、陰極線が陰電気を帯びた微小粒子の流れであることをつきとめました。いわば、このとき初めて、人類は電気の正体を捕まえたのです。

 けれども、この「捕まえた」というのも、ある観測手段を通じて得られたデータから、そのように推測される、ということにほかなりません。たとえば、陰極線が陰電気を帯びていることは、陰極線のそばに磁石をおいたとき、陰極線がどちらに曲がるかということで判定されます。どちらにも曲がらなければ、陰極線は電気をもっていない中性であると判断されます。いろいろな人が、いろいろな実験方法を考え出して、陰極線が小さな粒子の流れであること、その粒子の質量がとんでもなく小さなものであること、粒子がもっている電気の量がいつも一定であることなどを測定しました。電気の量は、水の量を測るようにして、測れるわけではありません。その粒子が見せるさまざまな現象を通じて現われる電気的影響力の強さによって測られます。

 人類はこのようにして、電気の正体をつかまえたと思い、それを「電子」と名づけました。けれども、それはあくまで、さまざまな観測方法で得られたデータを総合して、「このようなものが存在する」と考えれば、さまざまな現象を一貫して統一的に説明できる、ということから真実だと推定されている「仮説」に過ぎないのです。

 原子の研究が進み、素粒子の研究が進むにつれて、電子は物質の構成粒子として最も基本的なもののひとつであることがわかってきました。それと同時に、わかったと思われていた電子なるものが、かえって謎を深める結果になってきたのです。

 繰り返しますが、「電子」というものは(他の素粒子もすべて同じですが)、さまざまな実験によって示される現象から推定されたひとつの描像にすぎません。古典的な物理学の世界では、電子は「陰電気を帯びた微小な粒子である」と考えれば十分でした。陰電気を帯びたというのは、電子と別に陰電気があるわけではなく、電子が他の粒子に対してある特定の仕方で力を及ぼす性質をもっているということです。

量子物理学の実験結果が積み重なるにつれて、このような単純な描像では、電子の性質を説明できなくなってきました。以前にお話した粒子と波動の二重性もそのひとつです。古典的な物体のイメージでは、粒子性と波動性の両方をもったものというのは想像することができません。「電子というものは、観測された現象から推定された仮説である」という原点に立ち戻るならば、「電子とは、このような現象においては粒子のように振る舞い、このような現象においては波動として振舞う、或るもの」というほかはありません。

現在、物理学者たちは「電子に内部構造があるか、ないか」ということを問題にしています。別の言い方をすれば、電子に大きさがあるか、という問題です。

電子の大きさをどうやって測るかというと、電子に別の電子をぶつけます。同種の電気を帯びた粒子は反発しますから、電子に向かって電子を打ち込むと、電気の反発力によって、打ち込まれた電子がどこかで戻ってきます。打ち込む電子のエネルギーを高めていくと、戻ってくる場所がだんだん目標の電子に近くなります。もし、電子に大きさがあるなら、打ち込む電子のエネルギーを限りなく高めていけば、どこかで電子の表面同士がぶつかるはずです。そうすると、電気の反発力によって戻ってくるのとは違う動きをするようになるはずです。

そのような考え方で、電子の大きさを測る実験がこれまでに何度も行なわれましたが、電子と電子が表面でぶつかった形跡はありません。いま物理学者たちは、電子の大きさはゼロではないかと、本気で考えはじめているそうです。

電子の大きさがゼロであるということは、電子という「モノ」は存在しない、ということです。ただ、電気的な力や粒子の重さなど、さまざまな実験によって測定される現象だけがあって、そのもとになるモノは何もない、ということになります。

これまで、科学者たちは、さまざまな現象を見て、それを引き起こすもとになっているモノがあるはずだ、と考えて、いわば「犯人探し」をやってきました。ところがここに来て、その「犯人」がみんな蒸発しかけています。モノはなくて、ただそのようなモノがあると考えれば説明がつくような、現象の法則だけがある、という状況です。

私たちは、物質は分子からなり、分子は原子からなり、原子は素粒子からなる、という階層的な構造の考え方になじんできました。けれども、素粒子の下には何もなく、素粒子という「現象」だけがあるということになってきたのです。もし、素粒子が「現象」であってモノではないとすれば、素粒子で作られる原子も、原子の集まりである分子もすべて現象であってモノではないということになります。

私は、以前からお話しているように、物質世界というものは幻想であると考えています。存在するのは「このような世界が存在する」という認識だけであって、その認識の対象であるはずの外界というものは存在していない、というのが私の考えです。

実は、私が物理学の話を長々としたのは、物理学者たちがそのことに気付き始めているのではないかと、楽しみにしているからです。

ご質問があればお受けします。なければ、次回はいよいよ、時間と空間の問題に入っていきます。

353アリス:笑いだけ残ったチェシャ猫のような話ですね。

少し質問があります。

<電子の大きさがゼロであるということは、電子という「モノ」は存在しない、ということです。ただ、電気的な力や粒子の重さなど、さまざまな実験によって測定される現象だけがあって、そのもとになるモノは何もない、ということになります。>

電気が電車を動かし、電灯をつけ、あらゆる電化製品を動かしているのは大変な力だと思うのですが、我々が認識し得ないモノがあるとは考えないのですか?例えばn次元のところに。

<存在するのは「このような世界が存在する」という認識だけであって、その認識の対象であるはずの外界というものは存在していない、というのが私の考えです。>

現象の法則性は認識とは無関係に存在することが考えられますね。ただ、現象とは認識されたもの言ってしまえば話は別ですが・・・例えば、私は今、滝の音を聞いています。

滝の音は、私がいなくても、しているはずとは考えないのですか?


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