アリスとチェシャ猫との対話(75)
344 猫: 現在の物理学が描く光のイメージは次のようなものです。
宇宙ステーションの太陽電池のパネルが、太陽に向かって開いているところを想像してください。パネルには太陽から来た光があたり、電気を起こします。これが342で述べた光電効果なのです。ある種の金属に光があたると、金属から電子が飛び出してきて電気が起ります。このとき光は、アインシュタインが発見したように、粒子として振舞います。
それなら、太陽から宇宙ステーションまで、光の粒子が飛んできたといえるのではないでしょうか。それが、そうではないのです。光の粒子のことを光子(こうし)といいますが、太陽から宇宙ステーションまでの間には、光子は存在していません。光子は、太陽電池のパネルの表面に、突然現われるのです。それは、いかにも太陽から1億5千万キロを飛んで来ました、というような顔で金属にぶつかり、電子をたたき出します。けれども、実際には、金属から電子をたたき出すその瞬間にしか存在していないのです。
では、太陽から宇宙ステーションまでの間は、どうなっているのでしょうか。太陽電池のパネルの前に、別の金属の板をかざしてみましょう。当然、太陽電池はかげになり、光は太陽電池にあたらなくなります。その代わり、手前にかざした板の表面に光子が現われるようになります。
太陽から宇宙ステーションのある場所まで、「何か」が飛んでくることは確かです。けれども、それはいかなる形の粒子でも物質でもありません。「存在」であるかどうかさえはっきりしないような「あるもの」なのです。それは数値的には「確率の平方根」です。つまり、この数値を二乗すると「確率」になります。何の確率かというと、光子が現われる確率です。
光子は、太陽電池の金属の表面に突然現われますが、どこに現われるかは決して予測できません。まったくランダムに、無作為に、現われるのです。ただし、たくさんの光子の現われ方の分布を計測すると、ある確率分布に従います。それが「太陽から飛んでくる数値」によって計算された確率です。
金属板の影になった部分では、この確率が低くなるために、そこには光子がほとんど現われません。光のあたる部分の確率は高く、たくさんの光子が現われ、そこで電気が発生することになります。
要約すると、光は、他の粒子(たとえば電子)とぶつかって反応するときには、必ず粒子として振舞います。ところが、粒子として現われるのはその反応の瞬間だけです。それ以外の時には、光子は存在していません。そのかわり、「出現確率の平方根」という数値がある法則によって動き、光子の出現確率を決定していきます。
光の波動性といわれる性質は、この確率分布の方が持っています。回折や干渉という現象においては、この確率分布が波のように振る舞い、光子がたくさん現われる部分とほとんど現われない部分が縞模様になります。その縞模様の確率分布にしたがって光子が現われるため、たくさんの光子が現われた結果が縞模様になります。
このようにして、光は、粒子性と波動性を両立させているのです。
物理学者たちは、この光子の確率分布を計算する式を手に入れました。彼らは、それによって非常に正確に光子の出現確率の分布を予測することができます。けれども一方で彼らは、どうして確率分布の平方根などというものが空間を波のように伝わったりできるのか、理解できずにいます。また、何も存在していない空間に、どうして突然光子が現われることが可能なのか、また、どうして完全にランダムに光子が出現できるのか理解できずにいるのです。完全にランダムということは、そこで因果関係が断ち切られていることを示しているからです。
さて、ここで一休みしましょう。アリスさんにここまでのご感想をお聴きしたいと思います。
@現代物理学における光のイメージを理解できましたか。
A物理学者がなぜ困っているかわかりましたか。
B光の性質を不思議だと思われますか
345アリス: テンポが意外と速いですね。急速に物知りになる感じです。
<@現代物理学における光のイメージを理解できましたか。>
光が粒子と波の性質があると専門家が考えておられるのはわかりました。
<A物理学者がなぜ困っているかわかりましたか。>
困り方は実感できないのですが「何も存在していない空間に、どうして突然光子が現われることが可能なのか、また、どうして完全にランダムに光子が出現できるのか理解でない」ということですか?
<B光の性質を不思議だと思われますか>
Aとも関係しますが、不思議だという感情は湧きません。日ごろ突き詰めて考えていない所為でしょう。素人なら、粒状の光子が波状に進んでいる、とか、何かの信号が波状に伝わっていると考えてもいいと思うのですが・・・その程度の理解です。
346 猫: <素人なら、粒状の光子が波状に進んでいる、とか、何かの信号が波状に伝わっていると考えてもいいと思うのですが・・・>
そういう率直な感想がほしかったのです。専門家が不思議に思うことを素人は不思議に思わず、素人が不思議に思うことを専門家は不思議に思わない、ということはよくあることです。
光の話は、ここでしばらく棚上げして、今度は物質を構成する素粒子の話をしましょう。ただ、光が何もない真空の中を飛んでくるときは「存在せず」、他の物質(の原子)と反応するときにだけ存在する、ということを覚えておいてください。
2500年程前のギリシャで、デモクリトスという人が「物質は小さな粒子によって構成されている」と考え、それをアトム(分割できないもの)と名づけたという話は対話34でしました。
デモクリトスが考えたような意味での物質の構成粒子は、現代では、原子よりも分子であると考えるほうが妥当だと思います。私たちの身の回りには、何百万種類もの物質がありますが、そのような物質の種類に応じた粒子は分子であるからです。たとえば、水の分子というのは、水という物質に固有の粒子で、水が温度によって、固体になったり気体になったりしても、水の分子そのものには変化がなく、ただその凝集状態が変わるだけです。
ところが、水を電気分解すると、水の分子が壊れて、1個の酸素と2個の水素の原子が出てきます。酸素や水素は、もはや水に固有のものではありません。人間の食べ物でいえば、炭水化物にも、脂肪にも、たんぱく質にも含まれています。分子の種類は物質材料の数だけ存在しますが、原子の種類はわずか100種類程しかありません。しかも実際にはそのうちの30種類ほどの原子の結合の仕方によって、何百万という種類の物質が作られているのです。
原子は、これ以上分割できないものという意味で名づけられましたが、19世紀の終わりごろ、キューリー夫人などが「放射性元素」というものを発見したことにより、原子の内部構造が調べられることになりました。その結果、すべての原子が、たった3種類の「素粒子」からできていることがわかりました。3種類の素粒子とは陽子、中性子、電子です。陽子と中性子がかたまって原子核と呼ばれる中心部分を作り、電子はその周りの空間をうろついている、と考えられています。原子の大きさをサッカー場ぐらいに拡大したとき、原子核はリンゴくらいの大きさで、スタンドのあたりを飛んでいる蚊のようなものが電子だということは、対話66でお話しました。
現在では、素粒子は百個を超える種類があるとされていますが、これは原子の内部で働くさまざまな力に対応した素粒子があるからです。
さらに物理学者たちは陽子や中性子の内部構造を求め、クォークと呼ばれる粒子が存在すると考えるようになりました。
このようにして、物理学者たちは、「究極の粒子」を求めて、分子、原子、素粒子と次第に下位の構成粒子を発見し、ついにクォークにまで到達しましたが、このような「究極の構成粒子を求める」という考えそのものが、矛盾を含んでいることにお気づきでしょうか。
もし究極の粒子が大きさをもつなら、それは究極の粒子ではあり得ません。なぜなら、大きさのあるものには必ず内部があるからです。そして、粒子の内部を探求すれば、それを構成する1ランク下の「素粒子」が発見されることになります。
究極の粒子がほんとうに「究極の粒子」であるためには、大きさがゼロでなければなりません。けれども、「大きさゼロの粒子」が存在するというのはどういうことでしょうか。それは、その素粒子の「モノ」は存在せず、その性質だけ、働きだけが存在するということなのです。まさにチェシャー猫が消えた後に残っている笑いのようなものではないでしょうか。
次回は、原子核の周りをうろついている電子の話をします。
347アリス: この話で、白の王様が、アリスがNobody を見たと言ったのに対して、そんな目があったらなあ!と言うくだりを思い出しました。(下記注参照)
お話をお続けください。
注:「鏡の国のアリス」7章
`I see nobody on the road,' said Alice
`I only wish I had such eyes,' the King remarked in a fretful tone. `To be able to see Nobody! And at that distance too! Why, it's as much as I can do to see real people, by this light!'
それから、物理学とアリスの物語は意外と親近性があるのですね!
高校時代読みかけてそのままになっている
ガモフの『不思議の国のトムキンス』
をはじめ、木下真一さんのHP:The Rabbit Holeにはこんな本が出ていました。
『四次元の国のアリス』クレメント・V・ダレル(市場泰男訳) 現代教養文庫
Readable Relativity Clement V. Durell
『量子の国のアリス』Robert Gilmore(高橋智子訳) オーム社
Alice in Quantumland Robert Gilmore
『量子の宇宙のアリス』ウィリアム・シェインリー編(中村康之訳) 徳間書店
Lewis Carroll's Lost Quantum Diaries ed. by William Shanle
348 猫: ‘Eyes to be able to see Nobody’というのは傑作ですね。英語ならではの掛け言葉! それとも駄洒落?
アリスさんにいただいたクリシュナムルティとデイヴィッド・ボームの対話集 The Ending of Time にも、クリシュナが、究極のところ存在するのは nothing だ、といったのを、ボームが no thing だと言い換える場面があります(26p)。これなども、翻訳不可能な掛け言葉ですね。
けれども、言葉遊びの世界ではなく、物理学の世界で、私たちの見ているものが、実は nothing = no thingにほかならないことが明らかになってきた、というのはなんとも皮肉な展開です。地下のキャロルがにやりと笑っているようですね。
さて、346で、原子というものがサッカー場の中のリンゴのような原子核の周りを、電子の蚊が飛び回っているようなものだといいましたが、実はこの電子も光と同じような性質をもっています。つまり、他の素粒子と反応するとき以外は、粒子としては、どこにも存在しないのです。といって、波動の電子が存在するわけではありません。原子核の周りにあるのは、電子がどこに現われそうかという確率の分布だけです。これを「確率の雲」と呼ぶことがあります。電子は電気をもっていますが、確率の雲は電気をもっていません。確率の雲は、あくまでも電子が現われる確率であって、電子が広がって存在しているわけではないのです。
いま、ひとつの原子に光が飛び込んできた場面を想像してみましょう。いわば、原子のサッカー場を、光子の蚊が一直線に突っ切って行くようなものです。けれども、実はサッカー場には、電子の蚊の姿は見えません。光子の蚊も見えません。何もないのです。光が飛び込んでくるというのは、光子が粒子の形で飛んでくるわけではありません。光子が現われる可能性の確率分布(確率の雲)が飛んでくるだけです。何も起らずに、光子の確率の雲が、サッカー場の電子の確率の雲を通り抜けて行く場合もあります。時には衝突が起ります。何もなかったところに、突然、電子の蚊と光子の蚊が現われて、ドシンと衝突します。正確に言えば、電子と光子が現われて、それが衝突するのではなく、先ず衝突という現象が起り、それが電子と光子の衝突という形を取るのです。衝突が起ると、瞬時に、電子と光子の両方の確率の雲の形が変わります。光子によって電子がたたき出されて、サッカー場から飛び出して行くこともありますが、この場合も、電子は粒子の姿で飛んで行くわけではありません。電子の確率の雲がサッカー場から飛び出して行くのです。
このように見てくると、物質世界というのは、ほとんど何も存在していないことがわかります。それは、ほとんどつねに何もない空間であって、その中を「確率の雲」という得体の知れないものが飛び回っています。時々、それらの確率の雲が反応を起こしますが、それはただ確率の雲の形が変わるだけです。電子や光子などと名前を付けると、何か固いものが存在するような気がしますが、これらは実は確率の雲の変化の瞬間にあらわれるだけです。
ひとつのたとえをお話します。物質世界というのは、真っ暗にした舞台のようなものです。舞台の上を、小さなペンライトを持った黒子が大勢走り回っています。けれども、それは観客の目には見えません。観客が見るのは、黒子がペンライトをピカッと光らせたときだけです。その光は瞬時に消えます。けれども、そのような点滅する光がたくさんあると、観客はそれを見て、そこに何かが存在するように感じるのです。それは光の噴水であるかも知れないし、観覧車かも知れないし、美しい女性の姿かも知れません。
問題は、観客もそのような点滅する光の集合体であることです。ペンライトで描かれた美女が、ペンライトで描かれた青年に恋をします。一体、点滅する光の集合が、いつ、どこで、意識を持つようになるのでしょうか。
次回は、このような「確率の雲」現象がなければ、世界を構築することはできない、という話をします。
349アリス: <正確に言えば、電子と光子が現われて、それが衝突するのではなく、先ず衝突という現象が起り、それが電子と光子の衝突という形を取るのです。>このような光景は「鏡の国」ではお馴染みですが、物理学者がアリスの物語を好む理由が分ってきました。お話をお続けください。
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