アリスとチェシャ猫との対話(74)

338 猫: 不如意問題の纏めについて、適切な課題設定をしてくださったことに感謝いたします。私の答えは次のとおりです。ご参考になれば幸いです。

@ 不如意という言葉が、「病気や苦痛」あるいは「エゴレベルの私にとって都合のわるいこと」を意味するのであれば、私も不如意を感じます。けれども、不如意を文字通り「私の意のままにならないこと」あるいは「私の意志と異なること」という意味に取るなら、私にとって不如意は存在しません。なぜなら、私が体験することはすべて私の意識が生み出したもの、というより私の「意識そのもの」、であることを私は知っているからです。問題は、私たちが自分自身にとって不都合なことを無意識の意志によって作り出してしまう、ということにあるのです。もっとも意のままにならないのは自分の意識であるという、シャレにもならないようなことが真実なのかも知れません。

 したがって、私が不如意を感じたときにすることは、自分の意識の何がそれを生み出したのかということを探ることです。すぐにわかることもあり、なかなかわからない場合もあります。原因となる観念や想念がわからないときには、一般的な意味での意識のクリーニングをします。また、ふだんから絶えず意識のクリーニングを心がけます。

 意識のクリーニングというのは、詳しく話し出すと長くなりますので省略しますが、一言で言えば、不具合を生み出す観念や思考パタンを捨てることです。そのひとつが物事や人や神を非難したり攻撃したりする考えです。自分自身を責める考えも捨てなければなりません。非難や批判には正義の仮面をかぶっているものもあります。そのような仮面に惑わされず、ありとあらゆる非難攻撃の想念を捨てるようにします。それが、不如意を生み出さないための極意なのです。

A 不如意解消を求めて、ここまで読みつづけられた方は、@に述べた「意識のクリーニング」をしてください。すべての原因は、自分の意識(と無意識)の中にあります。他人に責任を負わせている間は、決して不如意を解消することはできません。「あいつが悪い」とか「あの人が変わってくれたら、私はしあわせになれるんだけど」と思っている間は、不如意はあなたについてまわります。

 誤解しないでいただきたいことは、非難攻撃を止めるということは、「悪い人」を我慢しなさい、とか、「悪い人」にやさしくしなさい、という意味ではない、ということです。もしその「悪い人」と離れることができるなら、黙って離れてください。「悪い人」と喧嘩をする必要があれば、喧嘩をしてください。けれども、何をするにしても、心のうちには、その人に対する「愛」と「尊敬」と「好意」を持ち続けてください。あなたが心の内にどのような「質」を持ちつづけるかということが、明日のあなたの体験する世界を決定するのです。

B 如意を求めている方は、あなたがほしいと思うものに、あなたがなってください。

平和がほしかったら、あなたが平和になってください。心の内に無条件の平和を持ってください。他人を攻撃しながら平和になることはできないのです。

お金が欲しかったら、あなたが心の内に豊かさのあふれる人になってください。「お金が欲しい」と思うことは「いまはお金がない」ということを宇宙に対して宣言していることになるのです。そして、それがあなたの明日となって実現します。

あなたが体験したいと思う「質」を、現実より先に体験してください。現実はあなたの意識についてくるのです。

C エゴを捨てるべきか否かと悩んでいるアリスさん。エゴを持ちつづけたほうが楽しいか、エゴを捨てたほうが楽しいかは、人によります。まったく主観的な判断ですから、客観的にどちらが楽しいということはできません。

アリスさんが、エゴを捨てたくないと思っている間は、エゴがなくなることはないでしょうし、そうすれば、アリスさんは生きがいを感じ、そして如意と不如意の荒海に翻弄されることになるでしょう。別にそれが悪いわけではありません。波が大きければ大きいほど楽しいサーファーのように、如意と不如意を楽しんでください。

確かにある意味で、私たちは、霊性を捨てたほうがおもしろい世界を体験できるかもしれないと思って霊性を捨て、心の中にエゴという特別なソフトを作って、物質世界の探検に乗り出したのです。けれども一方で、アリスさんが私の話に関心を持って聞きつづけておられるということは、アリスさんがそろそろ物質世界に飽きて、里心がついてきたということを示していると思います。もしそうであるなら、ためらわずに、新しい波に乗ってください。過ぎ行く波に未練を残さず、新しい波が来たときに、すばやくそれに乗り移るのがサーフィンの極意ではないでしょうか。

339 アリス: 有難うございました。それ以外に言葉はありません。

いい中締め(これは宴会用語でしたか?)をしていただきましたので、別の話題に移ることが出来ます。科学の話でしたね。私は所謂文系ですから、また、もとのアリスに戻って、木の上の猫さんにお聞きしましょう。お話をお進めください。


340 猫: これからしばらく最新の物理学の動きを話題にしたいと思います。

ご承知のように、およそ100年前、二十世紀の幕開けとともに、物理学の世界には歴史始まって以来といっていいほどの大変化の嵐が吹き荒れています。最近ではその嵐はさらに激しさを増し、ついには私たちの世界観の根底を土台から揺さぶるような様相を呈し始めています。

これから、できるだけ平易にいくつかのトピックスを取り上げながら、そのような最先端の科学の視点が、通常の私たちの世界観とどのような食い違いを見せるのか、ということを学んでいきたいと思います。

十九世紀の終わりごろ、人々は、いわゆる科学者たちも含めて皆、自分の住んでいる世界について、まず時間・空間という入れ物があって、その中にさまざまな物体が存在し、お互いの間に物理的あるいは化学的な作用を及ぼしあっているというイメージを持っていました。このような世界像の確立に最も大きく影響したのが、十七世紀の後半、ニュートン(1641-1727)がつくりあげた物体の運動に関する法則、いわゆるニュートン力学、なのでこのような世界像をニュートン的世界像といいます。

物体はすべて、原子(アトム)と呼ばれる小さな小さな粒子の集まりだと考えられていました。アトムとは、ギリシャ語で「分割できないもの」という意味です。これ以上分割できない、芥子粒よりももっともっと小さな目に見えないほどの微粒子の集まり、それが私たちが見る通常の物体です。

原子の大きさは、それこそ想像を絶するほどの小さなものですが、それでも小さなものが集まって大きな塊を構成するというプロセスは、通常の想像力の範囲に納まります。いくら小さくても、これらの微粒子はニュートン力学の法則にしたがって運動します。宇宙の中のあらゆるものが、大きな星から小さな糸くずにいたるまで、一群の法則にしたがって秩序正しく存在しているように見えました。

それは、嵐の前の静けさというのでしょうか、世界は、安定した法治国家のように、すべて秩序正しく、法則にしたがって進展していくと考えることができた時代でした。ラプラスという物理学者兼哲学者が、「宇宙の始まりにおけるすべての原子の配置とその運動の方向と速さを教えてくれたら、それ以後の宇宙の姿を全部計算してみせる」と言ったと伝えられ、それを逆手にとったある犯罪者が、死刑を宣告されたときに、「俺が人を殺すのは宇宙の始まりから決まっていたのだから、俺に罪はない」と言ったという軽口が巷に話題になったのもこの頃でした。裁判官が、「私がお前に死刑を宣告することも、宇宙の始めから決まっていた」と言ったかどうかは知りませんが、いわば、これが good old daysの最後の輝きだったのです。

けれども、振り返って考えてみると、私たち一般市民が持っている世界像というのは、いまでもこのようなものではないでしょうか。

341アリス: そうですね。そんな考えで、科学が技術を進歩させ、その成果が電気や自動車や飛行機など生活全域に目に見える形で現れるものですから、猫さんの仰ったような世界像が確実だと思われるようになりました。それに加えて、唯物史観の普及によって、この世は総て物質で出来ていると思うようになりました。その物質の原点、粒子をあたかも玉突きの玉のように突けば、後は、ニュートンの法則にしたがって、連鎖反応すると思うようになりました。

一般市民がどうであったかは、ちょっと分りませんが、多少、教育を受けた層から上、特に、インテリ層はそう信じたように思います。私を含めて。

342 猫: 二十世紀に入ってまもなく、物理学の世界に、ほぼ同時に、二つの台風が発生しました。ひとつは量子物理学であり、もうひとつは相対性理論です。量子物理学のほうは、物質の基本粒子である原子の、途方もなく不思議な性質を明るみに引き出しました。一方、相対性理論のほうは、私たちの時間空間の認識に対して、土台を揺さぶるような挑戦状を突きつけました。現在では、二つの台風は一つに融合し、巨大な渦巻きとなって、物理学の世界を吹き荒れています。

 戦いはまだ終っていません。物理学者たちは、物質や時間空間がどのように振舞うかということについて、正確無比の数式を手に入れました。その点では、物理学者たちは勝利したかに見えます。けれども一方で、物理学者たちは、自分が使う数式の意味を解釈できないでいるのです。なぜかわからないが、その式で計算すると観測事実とよく合う、という状態なのです。その点では、物理学者たちより自然の方がうわてです。まだしばらく戦いの決着はつかないでしょう。

そしていま、自然は、自然を捕まえたと思う人間の手の中で、チェシャー猫のように消えかかっています。物質も時間も空間も、ひょっとしたら存在しないのではないかと、物理学者たちは思い始めているのです。自然とは、チェシャー猫が消えた後にひとり残っている笑いのようなものかも知れないのです。

これから、ゆっくりと、その自然の不思議な性質を見ていきましょう。

 このような話をする場合、ふつうは、物理学の歴史的な発展の順序にしたがって、考え方の変化を追いかけます。物理学者もはじめは私たちと同じ世界像を持っていたのですから、そのほうが、どのような実験事実に基づいてその世界像を捨てざるをなくなったのか、ということがよくわかるからです。その代わり、話が長くなり、なかなか最新の物理学にまでたどりつけないということになりがちです。

 そこで、ここでは、いきなり最新の世界像を示し、そこから必要に応じて、それにいたる思考の後を追うこととします。

 はじめに光の話をします。光は、ある意味で、最も純粋で、最も基本的な「存在」であるからです。

 ニュートンは、光は粒子であると考えていました。その理由は、光は直進するという性質をもっているからです。デンマークのレーマーという人が光の速度を世界ではじめて測定したのが、ニュートンが30歳のころでした。真空の中をものすごい速さで直進するものといえば、鉄砲の弾のような粒子を考えるのが、いちばん自然な想像でしょうね。

 けれども、一方で光の回折や干渉という現象も、その頃すでに知られていました。このような性質は、光が波であると考えなければ説明がつきません。光の波動説を唱えたオランダのホイヘンスとニュートンの間で激しい論争があったと伝えられていますが、粒子説ではどうしても回折や干渉が説明できないので、最終的には波動説のほうが正しいと認められたようです。

 決定的な結末は、ニュートンから150年ほど後に訪れました。日本では明治維新がはじまろうかという頃です。イギリスのマクスウェルという人が、電気と磁気が相互に影響し合う性質を詳しく研究して、電気と磁気の相互作用を記述する一組の基本方程式をつくりあげました。これが電磁場(でんじば)の方程式と呼ばれるものです。電磁場とは、電気と磁気の両方の力が存在している領域という意味です。

 マクスウェルは、この方程式によると、電磁場に波が発生することに気付きました。そして、その波の伝わる速さを計算したところ、それがレーマーが測定した光の速さとぴったり一致したのです。

 いま私たちは、光が電磁波の一種であると教えられ、そういうものだと思っていますが、それはこのような歴史的過程を踏んで確立された考え方なのです。電磁波の中には、ラジオやテレビの放送に使われる電波や、電子レンジやレーダーに使われるマイクロウェーブ、レントゲンに使われるX線、放射性物質から出てくるガンマ線(東海村のウラン濃縮工場の臨界事故で広い範囲の住民に被害を及ぼしたのが、このガンマ線です)など、非常に広い範囲のものが含まれています。

 このようにして、光が電磁波であるという考えが確立したのですが、その考えが安泰だったのはわずか45年ほどでした。1905年、アインシュタインが、今度は光が粒子であると考えなければ説明がつかない現象を発見してしまったのです。その現象を光電効果(こうでんこうか)といいます。

 この現象についての詳しい説明は省略しますが、こうして、光は、一方では波と考えなければ説明がつかない性質を持ち、他方では粒子と考えなければならない性質をもつという、奇怪な「存在」になってしまったのです。

 ウサギではなく、光を追いかけて「不思議の国」に入りこんだようですね。このあたりで一服しましょう。次回は、いよいよ、現代物理学における光の姿を見ることにします。

243アリス:お話をどうぞお続けください。話の性質上、猫さんのお話が一通り終わるまで、合いの手を入れないほうは良いと思いますので、ご自分で、節を区切りながら、お話ください。

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