アリスとチェシャ猫の対話(70)

300 猫: アリスさんが担当者意識という言葉で説明されたのを、たいへん嬉しく思います。アリスさんと私との間の共通の言葉がひとつ確立したと思います。私も、「担当」が不変であるとは思っていません。

 さて、アリスさんは、289で、<私はこれまで、他人の言説を材料に会話をするのを意識的に避けてきました>と仰いました。私はキリストの言葉をよく引用しますが、それはすべて私の解釈であって、正統派の人から見れば「異端」と呼ばれるようなものです。したがって私は、それは私の言葉であって、他人の言葉ではないと思っています。

同じように、私は、禅寺に参禅なさるアリスさんが、仏教の言葉をどのように解釈しておられるかということを知りたいと思いますので、それに関連した質問をいくつかさせていただきたいと思います。

 (1)仏性というのは「一なる霊」と同じなのでしょうか(私はそう考えています)、「一なる霊」の性質なのでしょうか、それともまったく違う何かなのでしょうか。

(2)259で、アリスさんは、空とは「無自性・無我なるもの」というように仰いましたが、その意味を少し解説していただけませんか。そして、それによると、色即是空というのはどういう意味になるのでしょうか

301 アリス: 先ず、結論から簡単に申しあげます。

 (1) 仏性というのは「一なる霊」と同じと思っています。

 (2) 空とは「無自性・無我なるもの」という意味は、固有の、永続する塊のようなのではない。変化し流動するものである。しかし、空っぽではない。空=「一なる霊」と思っています。

色即是空は、物質(色)は「一なる霊」である。精神(受想行識)もまた「一なる霊」と理解します。般若心経は全巻そのことを説いています。

ここが猫さんと違うところ。例のアリスの金太郎飴です。

 

「仏教史は『般若経』の説く「空」をいかに理解するかの歴史であったといってよい。」(中央公論社 世界の名著「大乗仏典」長尾雅人解説)といわれ、万巻の経典と論書があります。私の考えは仏教の本流の考えだと自分では思っています。

中には、猫さんの仰るような、色即是空を物質世界はヴァーチャルなものであるという意味に解釈している人もいると思います。それも間違いとは思いません。

また、西洋人がよく仏教は虚無主義だとするのも「空」が理解できないためです。

「空」は言葉では表現できないものです。直感や見性体験のような形で触れるほか方法がないと思います。

以前猫さんが仰いました。<16猫:「意識とは何か」をあなたはどのような言葉で説明されたら、理解できるでしょうか。言葉で説明するためには用語が必要です。残念ながら、人間の言葉には、物質以前の意識を説明するための道具が揃っていないと思います。
 (中略)もしあなたが真理を求めるならば、どこかで、これが真であると「感じる」ものがなければならないのです。真理は全て神秘的なものです。>

その通りだと思います。私は「空」の片鱗に触れたに過ぎません。

302 猫: 丁寧なお答え有難うございます。

<「空」は言葉では表現できないものです。直感や見性体験のような形で触れるほか方法がないと思います>。 私は仏性=空とは考えていませんので、この言葉には賛同いたしませんが、「空」を「仏性」で置き換えたならば、まったくその通りだと思います。

お互いに、言葉にならない世界を相手にしているのだということは、いつも心に留めておきたいと思っています。

もう少し続けさせていただきます。
(1) 私は実在(真に存在するもの)は「一なる霊」だけであると考えていますが、「一なる霊」=「仏性」=「実在」と考えてよろしいでしょうか。

(2) アリスさんのお話では、「空」=「仏性」ですので、五蘊皆空は、色受想行識のすべてが仏性である、という意味になります。たしかにアリスさんは<色即是空は、物質(色)は「一なる霊」である。精神(受想行識)もまた「一なる霊」と理解します>と仰いましたね。すると色受想行識のすべてが実在であると考えてよろしいでしょうか。

(3) もしそうだとすると、苦痛や不如意もすべて実在である、ということになりませんか。

303 アリス: ご質問にお答えする前に、ご質問の「実在」について多少触れないわけには参りません。<72猫;(前略) けれども私は「存在とは何か」を定義できるとは思っていません。存在を定義するための言葉は、私たち人間の言葉の中には存在しないのです。それは「存在」が理性の論理の出発点だからです。
 「存在」を定義することはできませんが、整理することはできます。無定義の「存在」にもいくつかの種類があり、私たちはその違いを理解することができるはずです。
 まず、二つの言葉を区別して使いたいと思います。その言葉のひとつは、「実在 reality」という言葉です。これは「本当に存在するもの」という意味です。もう一つは「疑似実在 virtual reality」で、略して「疑在」というのはどうでしょうか。これは「実在ではないけれども、私たちが存在すると感じたり、考えたりするもののすべて」を意味します。>という猫さんのお考えが変わっていないものという前提で、お答えをさせていただきます。

先ず、このような区分は方便としての価値は認めますが、「空」はあくまでも「空」で

「実在 reality」も「疑似実在 virtual reality」更に非在をも含むと思います。ですから、猫さんの用語に従う限り(1)はNOです。

そのように「空」=「仏性」を考えますので、猫さんの(1)(2)(3)のご質問は私には意味をなしません。しいて<苦痛や不如意もすべて実在である、ということになりませんか。>にお答えすれは、苦痛や不如意も「空」=「仏性」とお答えします。かなりしつっこく「痛み」を追求したのもそのためです。

「実在 reality」「疑似実在 virtual reality」いう分類も有、無という分類も1つの思考の癖で、この延長線上に答えがあるように思えません。しかも、猫さんのように存在の階層をいくつも考えておられる場合、どこをもって実在とされるのか私には理解できません。

304 猫: (1)のお答えがNOであれば、その他の質問は意味をなさないということはわかりますので、(2)、(3)については、これ以上取り上げないこととします。

 <猫さんのように存在の階層をいくつも考えておられる場合、どこをもって実在とされるのか私には理解できません>というご質問(またはご意見)ですが、存在の階層において実在は「神」=「一なる霊」だけです。それ以外は、すべて「実在のように見えるけれども、実在ではない」という意味で「疑在」という名をつけたものです。

 質問を続けます。

(1)アリスさんのお話では、般若心経の説くところは、が、物質世界も人間の精神作用もすべて仏性であるということを発見されたということになりますが、それがどうして「度一切苦厄」となるのでしょうか。

(2)アリスさんは<苦痛や不如意も「空」=「仏性」とお答えします>と仰いますが、ではアリスさんが苦痛や不如意を嫌がっておられるのは、仏性が仏性を嫌がっている、ということでしょうか?

305アリス: (1)一切のものが空であれは、苦厄も空、苦厄と思うものも空ですから、そこには空しかありません。
では、ここでの苦厄は誰のものであったかといえば、観世音菩薩のものであり、舎利子のものであり、広く衆生のものであったと思います。

(2)<仏性が仏性を嫌がっている、ということでしょうか。>そうなりますね。苦厄という仏性とそれを嫌うアリスという仏性と分けるとそうなります。アリスにしたら、どうして苦厄があるのだろう。何とかならないものか、と思うのです。

306 猫: その何とかならないものかというアリスさんの悩みに、仏教は何と答えるのですか。

307 アリス: それに答えるために2500年の仏教歴史はあったようなもので、様々な答えがあったことでしょう。お釈迦さまの出家の動機もここにあったわけですから、私が軽々に発言してはいけないと思っています。あえて、話題の一つとして、短い答えを示しますと、

「この世は苦厄に満ちているが、それはお前の所為だ。お前がその気になって動けば、苦厄は消える。」(四聖諦)

万巻の書がありますから、もし、猫さんが仏教がどう答えているのかにご興味があればそれに就かれるのが正解かと思います。

308 猫: 尋ね方がすこし間違っていたようですね。私は、アリスさんが「仏教はこう答えている」と思っておられることを、訊きたかったのです。仏教自身がいろいろの答えを提供していると思いますので、それが仏教の「正しい」あるいは「正統的な」答えであるかどうかには、私はあまり関心がありません。

 もし、アリスさんが「仏教がどう答えているかわからない」と思っておられるのであれば、仏教を離れて、アリスさんはいま、どう考えておられるのかをお尋ねしたいと思います。それも「わからない」というお答えでしょうか。

309 アリス: 仏教は応病与薬ですから色んな答えを提供していると私は思っていますが、「この世は苦厄に満ちているが、それはお前の所為だ。お前がその気になって動けば、苦厄は消える。」(四聖諦の私流の表現)もその一つで、今の私は共感します。

<仏教を離れて、アリスさんはいま、どう考えておられるのかをお尋ねしたいと思います。>に対しては、むしろ、私の理解した仏教に寄りかかり、自分の考えを述べますと、答えは、空を体得して、自分(我)を無くすこと、正しい行いをすること、が苦厄から逃れる道だと考えます。なぜそうなのかということを説明するには、長くなりそうです。ちょっと出だしをやってみます。

@この世は苦厄に満ちているというが、一体苦厄と何なのか?

A苦厄とは不如意である。

B何故不如意が発生するのか?

C自分があるからである。

Dどうして自分があるから不如意が発生するのか?

E物事が自分の意志に反して変化するからである、

F何故そうなのか?

G総てが固有のものをもたず、変化するからである。

H勝手に変化するのか?

I因果のようなプロセスがある。

Jお前は変化しないのか?

K変化する。

Lどうして、お前がお前と分るのだ。?

Mなんだか知らないが自分だと思っている。

N原因はわからないのか?

P少し前にその原因があると思うのだが・・・

Q苦厄はお前が味わうのか?

Rそうだ

S喜楽はどうなのか

(21)自分で味わう

(22)何のためにそこにいるのだ

(23 苦楽を味わうためではないかと思う。

(24 )どこから来たんだ?

こんな形で延々と続きます。また、一度に吐き出すのはこの対話の形式にはふさわしくないと思います。
むしろ、しばらく、猫さんが抜き取り検査的にアリスをチェックしてくださるのがいいのではないかと思います。

310 猫: たいへんていねいなお返事を、有難うございました。

 アリスさんの<空を体得して、自分(我)を無くすこと、正しい行いをすること>という答えを私流に解釈すると、「霊性を体得して、エゴを無くし、愛をおこなうこと」となります。使う言葉はちがいますが、中身はそれほど違わないのではないかと思います。

リストに書かれた項目も一つ一つ興味深いアイテムばかりで、これからの対話の材料をたくさん提示していただいたと思います。ただし、いますぐこのリストについて考察するのでなく、このあたりで、アリスさんが宗教的真理というものをどう考えておられるかということについて、質問をしたいと思います。

 私は、言葉によって表現された宗教的真理は、すべてたとえ話であると考えています。なぜなら、神や霊や仏性に関する真理は、本質的に、人間の観念や論理を超えているからです。言葉にできないものを言葉にすれば、たとえ話か、禅語のような論理的には意味不明の超越的言辞になるほかはありません。したがって私は、私の「魂のインターネット」論や「存在の階層」論はもちろんのこと、組織神学も唯識論も中論も、すべてたとえ話か方便としての表現に過ぎないと考えています。お釈迦様は「嘘も方便」と言われたそうですが、宗教的真理に関する限り、あらゆる表現が「嘘」なのです。

 このような考え方をアリスさんはどう思われますか。

311 アリス:309の私の考えは猫さんとの対話でやっとたどり着いたものです。心からお礼を申し上げます。これから、これを深め、実践しなければなりません。よろしくお願いいたします。

宗教的真理についての私の考えは、猫さんと同じです。さらに私流に言えば嘘も真理も同じと言うことになりますが、それはさて置き、表現の中に、霊性回復へと促しやすいものとそうでないものがあるようです。仏教では前者を「方便」と言っているのではないかと思います。

私は35に出しました「維摩経」の維摩の表現が好きです。

維摩の病気見舞いを誰も尻込みする中、最後に文殊が引き受けて出かけますが、これは見ものだと八千の菩薩をはじめ多くのものが付いて行きます。

 見舞いの中の会話で、維摩は同席の菩薩に「菩薩は不二の法門に入る(善、悪などの二元論を超克すること)というが、どういうことなのか説明して欲しいといいます。」と頼みます。

三十人の菩薩の答を聞いた後、維摩は文殊にどう思っているか聞きます。文殊は「・・・なんのことばも説かず、無語、無言、無説、無表示であり、説かないということも言わない――これが不二にはいることです。」と答えます。そして、文殊は、我々はお答えしたので、あなた(維摩)のお考えも話して欲しいと言います。

 その時、維摩は口をつぐんで一言もいわなかった。(301と同じ文献参照)

これが、維摩の一黙雷の如しと言われるところで、この沈黙は宇宙に響き渡り、そばにいた五千人の菩薩の目を開かせたといいます。

  実は維摩は方便の大家で、こんなことを言っています。「方便に支持されない知恵は、束縛であり、方便に支えられた知恵が解脱であります。知恵に支えられない方便は束縛であり、知恵に支えられた方便が解脱であります。」(維摩経4章)

私が申し上げるのもなんですが、その意味で、猫さんの「魂のインターネット」やホームページ「霊性の時代の夜明け」も素晴らしい方便だと思っております。

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